DNDメディア局の出口です。こんなの知っているよね、というひとつの耳寄り情報や些細なヒント、それらに接して、ええっ!という胸騒ぎがあったのでしょうか、さらにとっさの気転と素早い対応、そして発表までの夜を徹しての作業など、いやはやその連続する局面のどのフェーズが欠落してもその成果は得られなかったかもしれません。
いまだ語られない脈絡を点と線で結んで想像を逞しくしてみれば、それは、そのかすかな風評をあらゆるツールを動かして、そっと手繰り寄せたのが奏功したのか、耳打ちのような1本のメールが発端だったのか、単なる情報漏れか、その要因を推し量る術は、持ち合わせてはいませんし、研究室に聞いても答えられる人はいませんでした。
そのグローバルな大競争時代に生き抜くためには、サイエンスとはいえ、いやいやサイエンスだからこそかもしれませんが、世界級のニュースをいつのタイミングで、どの媒体で発表するか、その1分1秒を争う過酷な情報戦のせめぎ合いを制していかなくてはならない、ということを今回の万能細胞をめぐる日米の攻防戦が教えてくれているようです。
いまなお、世界的な反響を呼んでいる、京都大学の山中伸弥教授(45)の研究 チームが生み出したその人工多能性幹細胞(iPS細胞)の成果は、ご存知の通り、 11月20日正午(米国、東部時間)に米国科学誌の「Cell」(セル)にオンライン 速報版(電子版)で発表されました。そして、同時に米ウィスコンシン大学のジ ェームズ・トムソン教授らは人のヒフに遺伝子を導入する方法で、iPS細胞を生 成する論文を米国科学誌の「サイエンス」電子版に掲載しました。
「セル」は1974年に米国で創刊、生物学に関する世界的な学術雑誌で、「サイ エンス」は1880年、トーマス・エジソンやグラハム・ベルの資金援助などで創刊 した世界的に権威のある米国の科学誌の古株で、知らない人はいない。この万能 細胞をめぐる日米の攻防は、もうひとつこの新旧の専門の米国の科学誌を巻き込 んだ、熾烈な展開の様相を見せていました。
「サイエンス」の電子版は23日に掲載される、という当初の情報がフタをあけ てみれば、20日(サイエンスのHPでは21日のオンラインで、と記述されていたそ うですが…)に繰り上がったようです。しかし、実際にその当日サイエンスのHP ではアクセスできなかったという研究者の指摘もあります。
さて、どっちがどうだったのか〜日本では全国紙が21日(水)の朝刊で一斉に 日米のそれぞれの大学の成果を報道しました。一部の新聞は、トムソン教授らの 論文が22日に掲載されるとして、その山中教授らの論文の発表が早かったことを 印象付けていました。隔週発行の媒体が週刊に勝る、というのはオンラインとい う電子媒体のなせる技でしょうか。紙媒体なら印刷して配送する、という手続き を得なければならず、このような「タッチの差」という現象は起こりようがない わけです。実際は、サイエンスが23日の発表を「掲載予定を2日早めて、セル誌 に対抗した」というのが本当らしい。
どうもそれでは、1日のズレが説明できません。23日から2を引いても21日でし ょう。釈然としない。が、調べられない、このもどかしさ。サイエンスの発表の 実際の日付が20日だったのか、21日だったのか、という疑問がのこります。まあ、 内容はともかく、論文の発表の日付でいえば、同着ということになっているよう ですから、20日だったのでしょう。
しかし、論文を調べていくと(調べた知人の研究者らの話では)、その科学誌 に投稿した日付やその発表までの経緯に、熾烈な空中戦というか、驚くべき事実 につきあたりました。
「サイエンス」にトムソン教授らの論文が投稿されたのが10月9日となってい ました。が一方、「セル」に山中教授のチームが論文を投稿したとされる日付は 10月29日でした。遅れること20日、これは大変なビハインドではないか、論文投 稿の段階ではトムソン教授がリードしていたことがわかります。
論文は、科学誌などに投稿されるとレビューと呼ばれる専門家らによる査読が 行われ、論理やデータに矛盾や問題はないか、厳しくチェックされます。おおよ そ、その期間が短くても1ケ月は掛かるのが通例という。が、それら何度かの査 読を終えて、日米のそれぞれの論文がやっと受理されたのは、トムソン教授らが 11月14日で投稿から35日目、山中教授の論文の場合はなんと11月12日で、トムソ ン教授より2日早いという結果でした。この時点で、山中教授の論文がスケジ ュールで逆転してリードするのですが、投稿から受理までの日数が2週間足らず というのは極めて異例らしい。それほど完成度が高かったとみるべきでしょうが、 サイエンスの動向を意識した特例措置という見方もでてきそうです。
しかし、受理されてからがまたひと山あるんですね。次は、掲載する論文の発 行日が影響してきます。週刊のサイエンス、隔週のセル、では勝負になりません。 が、セルは異例のサイエンスの発行を見越して、サイエンスより早い11月20日の 電子版で発表することにしたようです。
この動きを注目していた知り合いの研究者によれば、いわば論文をともかく急 いで仕上げた感じのレイアウトぶりで、まだ刷り上っていないような印象だった と語っていました。それに対して、23日発行のサイエンスもそれに対抗して論文 の発表を繰り上げて電子版に急きょ間に合わせたという事情があったようです。 息が詰まるような逆転劇でしたね。しかし、サイエンスで先に発表されていたら、 どうなっていたのでしょうか。新聞のスクープ記事の扱いと一緒ですね。血が騒 ぎます、「今夕逮捕へ」みたいな感じでしょうか。
このiPS細胞の一連の記事をめぐっては朝日新聞が広く紙面を割いて、精力的 にフォローし続けています。これも「科学部開設50年」の節目を刻んで、科学ジ ャーナルの重要性を社内全体が感じているためなのでしょうか。
先週21日の朝刊1面の第1報と解説、そして23日の朝刊の続報は、山中さんを 「ひと」欄で「機械の技術者だった亡き父への憧れが科学者への原点」と書き、 「日曜日は大学に行かず、高校1年、3年の娘と並んで、書斎代りのリビングで仕 事をする」と締めていました。記者はなんども目にする竹石涼子さんでした。名 前に似て文章もさらりとして読後感に嫌味がありません。同日の社説「万能細 胞」では、「実際に再生医療につなげていくにはさまざまな分野の研究者の連携 が欠かせない。それには、大学や研究者の縦割り構造を壊さなければならない」 と今日の大学現場の問題点をズバリ指摘していました。
確かにねぇ、なんといってもこの社説の上段は「終盤国会」の混迷ぶりを指摘 していました。「万能細胞」と「終盤国会」が同時進行でなんの脈絡もなく伝え られていて、誰も疑問に思わないのでしょうか。読売新聞には、万能細胞の研究 に今後5年間で70億円を投じる検討に入ったと書かれていましたが、その巨額の レベルが多いか少ないかはわかりませんが、防衛省前次官の捜査で見積もりの水 増しが問題視されている防衛装備品の、例えば、輸送機は50億円、戦闘機は100 億円、その1機の予算と比べてみれば、なんだか背筋が寒くなるような予算の配 分じゃないか、なんて感じたりします。
これは余談です。このたび新興市場のNEOに株式新規上場が予定される、名古 屋大学発ベンチャーのJ−TECは、DNDになじみの上田実教授が技術指導を してきた会社ですね。この辺のところは大学発バイオベンチャー協会の爽快での 報告をメルマガで取り上げましたが、起業から8年と8ケ月、再生医療の分野の一 翼を担う自家培養皮膚の製造承認を得るまでの投資額がざっと50億円でした。再 生医療の画期的分野をそれぞれ民間の会社が支えているんですが、未上場の企業 1社で50億円、大学発ベンチャーの草分け的存在のアンジェスMGの創業者、大阪 大学医学部教授の森下竜一さんによれば、毎年35億円を超える研究開発投資を続 けていかなくてはならない、との話を聞くに及んで、で、ですね、世界的に注目 される万能細胞、それも人の皮膚を使って病気になった組織や臓器を治す―そん な再生医療が現実味を帯びてきた(23日付朝日新聞、科学面「万能細胞 日米競 争」)という分野に、5年で70億円でしょう、なんだか顔が引きつってきそうで す。
ジャスダック新市場NEOへの期待度
http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm071107.html
まあ、朝日新聞の報道に話を戻しましょう。きめ細かい記事と解説、山中教授 のとっておきのエピソードや再生医療の実用化をめぐる道筋など、抑えの効いた 科学報道に徹していると評価したいと思います。
すると、昨日27日朝刊2面の「時々刻々」では、「世界中の研究者が激しい競 争を繰り広げる中で、日本発の成果が大きく花開くことができるか」と指摘して いました。「治療の希望がわきました」などという患者サイドから山中教授に寄 せられたメールが相次いでいることを紹介し、そして、我が国の研究体制の不安 を指摘し、「再生医療の実用化を目指すには、広い分野の専門家で協力体制をつ くるしかない。いまのままでは米国に負けてしまう」という山中教授の悲痛な叫 びを伝えていました。
日本発なのにその優位性を生かせなかった、全遺伝子情報を読み取るゲノムプ ロジェクトの過去の失敗例を取り上げていました。さて、今度こそはそんな情け ないことでは困りますね。5年で70億円、何もないよりあった方がいいが、「金 も人も必要。最後まで日本でやれるか、試金石となるテーマ」という総合科学技 術会議の本庶佑・京都大学客員教授の談話は至言ですが、他人事ではありません ね。
この時々刻々の記事の中で、とっても興味深かったのは、米ウィスコンシン大 学のジェームズ教授から山中教授へのこんなメールでした。「競争に負けたのは 悔しいが、相手が山中たちでよかった」と。その背景には、トムソン教授らは、 山中チームの動きを察知して発表を繰り上げて同着にこぎつけていたが、「誰が 見ても山中君の業績。米グループは工夫を加えた後追いにすぎない」という理化 学研究所発生・再生科学総合研究センターの西川伸一副センター長の解説の通り、 発表の日付には関係なく誰が見てもトムソン教授らは後追い研究ということでし ょうか。
しかし、この論文研究に至る経緯は、断然、山中教授のチームが先行していた とはいえ、どっちの論文の投稿が早かったのか、そういう観点でいえば、今回の 米科学誌での発表はかなり微妙でした。その回答として、朝日はさりげなく「山 中教授の論文も海外のうわさを聞きつけて慌てて出したものだった」と指摘して いました。
山中教授の論文投稿は、「うわさを聞いた」というのが発端だったのですね。 ノーベル賞含みの世界級ニュースは、実は、大変危うい薄氷を踏むような状況下 での逆転のドラマがあったということでしょうか。どんな風に、海外から噂が 流れてくるのか、サイエンスの査読にかかわる研究者が、そっとうわさを流した、 よくあるように情報を漏らしてくれたのでしょうか、ということは、その逆もあ りうる、ということですね。
壁に耳あり障子に目あり、情報の管理というレベルの守りも必要ですが、耳が 二つで口がひとつ、この意味をかみしめたい。噂や風評、ほんのささいなことに も耳を傾けよ、ということでしょうか。
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もう一つのメルマガ「科学技術と国家」:朝日新聞記念シンポは、以下のURLからご覧ください。以下は、その一部です。
DNDメディア局の出口です。「科学技術と国家」。凄く大きなテーマですね。世界的に話題となっている、京都大学の山中教授のiPS細胞の研究成果について、それらを今後どう育んでいくか、という課題を考えるうえでも絶好のタイミングで、それにふさわしいテーマだともいえます。−続きは、こちらで〜。
http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm07112801.html