DND事務局の出口です。秋深い奥日光は小田代ケ原の湿原、もう冬支度に入る ことでしょう。朝は霧が立ち込め、午後には夕立に降られることが多く、高山の 花はそれだから案外長く咲き続けるのだという。この時期、一押しの小田代ケ原、 貴婦人と呼ぶ一本の白樺を追い続けた写真家、故・有田洋さんとの出会いもありました。霞む山々は凛然とし て、野鳥のさえずり、ブナ林を渡る風、そして大地からの爽快な冷気は、疲れた 心身を癒してくれます。
ある年の夏、暗い夜明け前に毎日家を飛び出してその湿原に入り、居並ぶアマ チュアカメラマンの群れから一人離れ、そして内緒のスポットに三脚を立ててじ っと何時間もシャッターチャンスを待つ、う〜む、その場面に立ち会った当時、 この写真家の流儀をその子息はどんな風に感じ取っているのだろうか、との疑問 を抱いたことがありました。しかし、それが今頃になってその答えにぶちあたる とは思いませんでしたね。親子3代に、いわばなんの脈絡もなく引き継がれた遺 伝子がこんな風に見事に開花するものなのでしょうか。
●足立廣文さんの写真集「NIKKO」の美の極致
足立廣文さん、77歳。栃木県日光で生まれ育ち、若い頃からカメラを持って50
数年、中学校の事務職から21歳で日光山輪王寺の職員となり、その仕事の傍ら趣
味の写真に夢中になって、そこでもっぱら選んだ被写体が東照宮など世界遺産の
歴史伽藍がひしめき、それに四季折々の自然がめぐる故郷・日光でした。そして
最近、足立さんがその集大成ともいえる写真集を出版しました。それがとっても
素晴らしい。
紫紺の箱に朱の豪華な布張りの装丁で、写真集のタイトルは「NIKKO」―全部 で98点の選りすぐった作品が収められています。インターネットでのみ販売する という。ドキドキしながらページを開くと、錦秋の奥日光は中禅寺湖畔、兜の金 色が冴える武者行列、雨上がりに空に咲く石楠花、静寂な雪の朝の回廊の朱色、 春の淡い八汐ツツジの花、法要後の僧侶の雪の三仏堂、光と影のコントラストが 映える霧の杉並木、石畳が光る春の雨の境内、いろは坂で雪をかぶった野猿、 悠々たる雲と山の霧降高原などなど…。
自然のめぐみと人工美を巧に取り込んだ珠玉のアルバムとなっていました。う む、これは日光をよく知る足立さんならではの作品ということになるのでしょう。 写真家の大竹省二さんは、「日光の津々浦々まで熟知した業績を印画紙の上にそ れを焼きつけて記録した。氏の作品の一枚一枚から日光への氏の愛情が感じられ る」と発刊の辞にこんなコメントを寄せていました。
写真集のまえがきに「澄んだ空、清らかな水、周囲に根を下ろす老杉があって こそ、幻想的な世界を表現してくれる。冬の変化は劇的で朝に見せる雪を装った 樹木の輝きは芸術作品です」として、足立さんは自分を育んでくれた日光を「幾 千万の街あれど、我が故郷に勝る街なし」という感謝の気持ちを綴っていました。
写真集の中で最も気に入ったのは、やはりというか、その小田代ケ原を舞台に した「朝霧の中のあざみ」の1枚でした。陽が昇れば、朝霧がいっせいに立ち上 るらしい。その流れの中で、数万本の野アザミが緑の中で揺らいでみえます。 徐々に視界が開けて、ひときわ目立つあの貴婦人がそばにズミの低木を従えて、 強い光の帯の中で金色に輝いていました。この妖しげな光の幻影に足立さんのそ の技量のすべてが凝縮されているようでした。
出版を祝う集いが先月10月21日、宇都宮市内のホテルで開かれました。会場に は地元のカメラ愛好家仲間をはじめ、地元選出の代議士や日光社寺の僧侶や神職、 それに家族や親類が大勢駆けつけていました。この日は偶然にもあい子さんとの 結婚50周年の金婚式の佳節を刻む、という。僕も30年来の古い友人として末席を 汚しました。いやあ、その足立さん、あっちこっちに気遣いを見せて動き回って いました。溌剌とした姿は昔のまんま、なんにも変っていませんでした。
「NIKKO」の出版で、我が家には足立さんの写真集がこれで2冊目となりました。 「東の聖地日光、日の豊穣、光の回廊」は1982年の発刊で足立さんの処女作品で した。太い彼の筆字でサインが残っています。もう25年前になるのですね。この 時の出版は、足立家にとってやはり記念の年でした。ご自身の輪王寺奉職30年、 ご夫妻の銀婚式、長女の成人式、そしてご長男、誠さんの宇都宮大学工学部卒業、 そして就職とお祝い事がまとまって押し寄せていたようです。僕が日光在勤5年 目の最後の年で、29歳でしたね。
写真家 故・秋山庄太郎氏と
奥日光戦場ヶ原の茶屋で
=「花の会」を同行取材
今も机の目の前にモノクロの写真が額に入っています。これは奥日光の戦場ヶ 原でご一緒した写真家・秋山庄太郎さんとのツーショットで、連載企画「戦場ケ 原讃歌」の取材中に足立さんが撮ってくれたものでした。いまとなっては僕の顔 が秋山さんの雰囲気にだんだん近づいてくるから不思議です。また新婚の狭い我 が家に足を運んで、生後間もない息子の写真を撮ってくれたのも足立さんでした。
そんな懐かしい当時の思い出に浸っていると、広い会場の向かい側のテーブル 席から、中年の男性がこちらの席に小走りに近づいてきました。ご無沙汰してい ました、と、にこやかな表情に昔の面影を残すご長男の誠さんでした。いやぁ、 立派になられてすでに2児の父親、そうでしょう、当時高校生でしたからね、あ れから30年もたっているのですね。お父さんより誠さんの方が、僕の年齢に近い というのも妙な感覚です。
手渡された名刺には、SHARPのAV・液晶映像技術開発本部のデジタルAV開発セ ンターの第1開発室長とありました。瞬間、吉永小百合さんのCMが頭に浮かんで、 あの世界の亀山モデルの液晶テレビ、AQUOSですか?というと、にっこり笑って、 出口さんのサイトをさっそく拝見しますが、どうぞ、シャープのウェブもご覧に なってください、という。
●映像の匠、世界の亀山モデルの映像を仕切る
シャープのウェブには、「亀山モデル」を支える匠の職人たち、というヒュー
マンドキュメント風の技術者の紹介ページがすぐに見つかりました。〜いまやブ
ランドになった「亀山モデル」。それまでには、様々な分野のプロフェッショナ
ルたちが困難な壁をひとつひとつ乗り越えてきました。普段語られることのない
「匠」の物語を連載でお送りします〜と。
トップページの下段の中央に、「自然をあるがままに映す、それがアクオスの 美意識です」との文章が添えられて「映像の匠」として足立誠さんが紹介されて いました。液晶テレビ「アクオス」の美しさを作り出す、映像の料理長である、 という。
〜「半年で28V 型液晶テレビを作れ」。1999年、足立は初めて画質設計と取り 組む。「映像信号」と呼ばれる技術について、足立は入ってくる映像信号をその まま画面に映し出せばいいはずだ、と考えた。実際、そのように出力できるテレ ビに仕上がった。しかし、8ケ月かかって完成した28V型は、満足のいくものでな かった。美しい映像とは何か、足立はおよそ3年間悩み続けた。画質はどのよう な要素からなりたっているのか、考え抜いた。そして2004年1月、亀山工場の1号 機を完成させた〜。
〜しかし、高画質といっても、美しさとは感覚的なものです。究極の美、自然 界の美しさをあるがままに見せる、映像の作り手が表現したかった美しさをその まま再現する、それがアクオスのポリシーです。画面の中の近くのものも遠くの ものもくっきりと映っては不自然だ。ぱっと見た瞬間は奇麗に見えるが、長時間 見ていると疲れる原因になる。人間の目は、近くにピントがあると、遠くはぼや けるのが自然だからだ〜。
〜液晶パネルが高性能になっても、1割の感性の部分は残る。映像を再現する時代はもうすぐ終わり、これからは表現の世界へ入っていく。エンジニアにとってその美意識が今後さらに重要になってくるのだそうだ。私の原点は、やはり、父と撮影に行ってカメラで覗いた日光の風景だと思います。父に叩き込まれた美意識が、いま役立っています〜。
「NIKKO」の写真集にそういえば、家族の風景を撮った写真がありました。中 禅寺湖の西端の千手ケ浜、夏の日にテントを張って数日過ごしたという。誠さん、 妹の富美子さんら幼い頃の二人が、朝日を受けてシルエットとなっていました。 壮大な夏雲、駆け抜ける風、山裾に霞む大気、無数の生の鼓動、岩場を走るせせ らぎの音、湖畔の陰影、遠近を巧に取り込んだスケール感、幾重にも重なる緑の グラデーション…これら刻々と変化する自然の揺らぎの一瞬を切り取ったかにみ えます。
近景と遠景を同時に写してそれらを融合させる父の技量から、誠さんは何物に も代え難い自然の美を学んだのかもしれない。「人間の目は、近くにピントがあ ると、遠くはぼやけるのが自然」という言葉の中に、父の背中に「美の極限」を 感じ取ったDNAがこんな具合に表現されているとは、夢々思いませんでしたね。 シャープのウェブを見ながら、「匠の職人」のひとりにとても身近な存在がいた ことを誇りに思います。
足立廣文さんによると、ご尊父・友文さんは、当時としては珍しいトランペッ ト奏者で弁士と一緒に全国を旅していた。やがて行きついた旅先の日光に根を下 ろし地元の企業で吹奏楽部を創設したという。足立さんは、ずっと以前から「音 楽家だった父から受け継いだ感性が写真という世界で結実した」と自慢気でした。 3代のDNAは、音楽家、写真家、そして世界の亀山モデルの液晶へと引き継がれて いるのかもしれません。
●青木昌彦先生の「私の履歴書」本日完結!
※メルマガは以上です。なんだかやっと重い荷を下ろした感じでほっとしてい
ます。どんな風にまとめるか、10月21日の出版パーティー以来頭を悩ませてきた、
というのが正直な話です。シャープといえばヘルシオもかつて取り上げました。
なんだかシャープづいて申し訳ありません。ああ、といえば、日経新聞文化面で
好評の「私の履歴書」は、本日、青木昌彦さんの最後の30回目は「未来に向かっ
て」でした。皆さん、どのようにお読みになりましたか。毎日わくわくしながら
読んでいましたから、明日から少し寂しくなりますね。
本文で、青木さんは、この「履歴書」で、私は自分史と同時代史をできるだけ 絡めて書こうと試みた。書きながら、意識上の自分がコントロールできないDNA が私の深部で働き、自分の前に現れる社会現象と相互作用しつつ、自分の意識と 行動を決めるのではないか、と今更のごとく感じた。そしてそういう個人の意識 と行動の総和が社会過程をつくるのだろう―と表現されていました。何を書いて いても社会全体の仕組みを解く何かにひらめきが連続するのですね。また、「仮 想研究所」のコンセプトも興味深いものがありましたが、これが7つ目の知的ベ ンチャーだという。大変知的刺激を受けました。そして恐れ入りました。経済産 業研究所時代にもっと厚かましくおしゃべりに行けば良かった〜。