◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2007/10/17 http://dndi.jp/

韓国近代医学史に刻む佐藤剛蔵氏を訪ねて(後編)

 〜初のソウルは、100年の記憶の旅〜

DND事務局の出口です。これを数奇というのでしょうか、痛ましいほどの時 代の変遷に動じず、海を越えて韓国の近代医学の教育に38年間にも及ぶその半生 を捧げた日本人医学者、佐藤剛蔵氏。今、その稀有な歴史的人物の足跡に日本、 韓国の双方から光があてられ始めています。京都帝大医学部を卒業後、27歳の若 さで単身、朝鮮半島の平壌にその一歩を刻んで今年はちょうど100年の節目だと いう。


どんな人物だったのか、その興味は尽きません。有能な韓国人学生を見出して 教官に登用し、混迷の軍部からの圧力にも屈せず常に冷静に教育者たらんと志し た、その魂が生存する数少ない韓国の教え子らの証言によって再び甦り、その幼 い頃の残像を引きずる子孫の記憶と符合する場面は、まるで一幅の名画を見てい るような感動でした。メモを取る手が震えていました。



夕闇迫るソウル市内中心部のプラザホテル


●ソウルプラザホテルで合流
 暮色に染まる・ソウル。この13日夕刻、市内のソウルプラザホテル1階ロビー の片隅には、少し前からやや緊張した空気が流れていました。教え子らがやって くる〜教え子といってもすでに80歳を超えた方々ですから、どんな人達なのだろ う、どんな交歓が繰り広げられるのか、取材する立場の僕だって心臓の鼓動が騒 がしくなっていました。


待ち構えていたのは、この呼びかけ人の内閣特別顧問の黒川清さん、佐藤剛蔵 氏の孫で熊本から駆けつけた佐々木定さん、孫といっても76歳ですが、長身で、 とてもお優しい人柄でした。そして案内役は、韓国近代医学史に真正面から取り 組む医師で研究者の石田純郎さん(59)、この日昼前、この集まりに参加するため、 それぞれ日本から駆けつけていました。筋書きのないドラマというべきでしょう か、僕もその一員に加わっていました。その経緯は、前回の通りです。なんと、 ロビーに流れるBGMは、僕のお気に入りのツルノリヒロさんのバイオリンのオリ ジナル曲でした。なんとも憂いあるこのメロディーはこの場面にお似合いでした ね。


黒川さんと佐々木さん、そこに僕が間に入って佐々木さんの履歴をお聞きして いると、この日のゲストの3人、当時京城医学専門学校校長だった佐藤氏の教え 子が姿をみせました。唯一顔見知りの黒川さんがにこやかに出迎えて、「こちら が、佐藤剛蔵校長のお孫さんです」と紹介しました。


するとどうでしょう、その人はソフト帽を取って佐々木さんと向かい合って、 突然、「校長先生!」って親しみを込めて叫んだのです。なんだか、目の前のお 孫さんに恩師の面影を感じ取ったのでしょうか。佐々木さんは緊張の表情でした。 そして「遅ればせながら、お待たせしましたが、これが京城医専のマークに使わ れていたものです。どうぞ…」と化粧箱に入った記念の品を佐々木さんにプレゼ ントしていました。


聞くと、それは1989年10月の開かれた同窓会を記念して制作したもので、京城 医専の校旗や校章のモチーフに描かれた「医」の文字を浮き出させたクリスタル の置物でした。



京城医専の校旗


ひと通り挨拶を済ませて、さっそくホテルから近くの韓国の家庭料理の店に入 りました。この店を設定したのが、韓国通の石田さんでした。安くておいしい店 でという気遣いは、郷に入っては郷に従えの教えに習って、韓国では割り勘とい う習慣はなくどこでも長老格が支払うというのです。石田さんそこで人数も多い し韓国の方々のご負担になってはならないので、比較的リーズナブルな店を選ん だ、という。その2階のひと部屋を借り切っての懇談です。豚の焼肉がメインで 総菜やキムチがさらに並んでいました。仕上げの冷麺は、やや細くとっても美味 でした。本場の冷麺は別物でしたね。


●校長先生への思慕の念
 さて、韓国の方々はどのような人かというと、まず朱軫淳氏、韓国学術院副会 長で高麗大学名誉教授、医学博士の86歳、中学を卒業した後、国民学校の教師を 務めそれから京城医専に入学したという。ご専門が栄養学、長寿の秘訣をお聞き すれば「腹八分」と明快でした。



左から石田さん、佐々木さん、朱先生、黒川先生。


そもそもは、3年前のことでした。当時、韓国学術院の招きでソウルを訪れた 日本学術会議会長の黒川さんが講演の後、朱先生から韓国医学教育に尽力し、韓 国や日本の差別なく熱心に教育に専心された佐藤剛蔵氏の存在を耳にしたところ から始まりました。その後、どういう経過でこの日を迎えたかは後で詳述します。 やはり実際に聞いてみないと分からないところが多いものです。


朱さんの他、実直で終始にこやかな笑顔を浮かべていたのが開業医で医学博士 の劉在勳氏、もう一人が元韓国政府の局長で医学博士の李柱源氏でともに元気な 83歳でした。恵まれた境涯にあるようでした。朱さんら3人は同級生で、佐藤剛 蔵氏が校長を務めていた終戦までの3年間、佐藤校長の下で教育を受けたという。



開業医の劉博士


席が向かい合った李さんは、戦前、日本大学卒の父親が政府の鉄道局に入って いたという関係で6歳から17歳まで日本で暮らし、その間、東京・目白の獨協学 園を卒業したという。えぇ…それは大学ですけれど僕の先輩ですねって言うと、 たちまち表情を変えて、帰りに家によってください、今度来たら家に泊めてあげ る、と俄かに話が弾んでいました。今度、お邪魔しようかしら〜。


さて、懇談が始まりました。すると、すっと佐々木さんが席を立って挨拶を始 めました。これも予定にないことでした。



獨協中学卒の李博士


〜みなさん、私はソウルで生まれました。ソウルは故郷です。祖父の剛蔵は母 方の父で、祖父が連れ合いを早くに亡くしたため、京城医専の官舎に一緒に生活 していました。戦後、日本に帰ってから息子が療養していた京都の家に住んで80 歳の天寿を全うしました。77歳の喜寿のお祝いで、それに韓国医学の本を残して おり同窓生から依頼があって色紙50枚ほどに書いていたのを記憶しています。そ こに「日々新」と揮ごうしていたことを思い起こしました。終戦後、日本に引き 上げてからなかなかくることができませんでしたが、62年ぶりにソウルの土を踏 んでみて懐かしさとうれしさで、とても感激しています。韓国の医専の皆様、祖 父が大変お世話になりました。厚く御礼を申し上げます。カムサハムニダ〜。


佐々木さんの心を込めた万感のスピーチでした。途中、朱さんが「校長先生、 どうぞお座りください」と促す場面もあり、繰り返し校長先生を口にしていまし た。佐藤校長への思慕の念の表れだったのかもしれませんね。


●偉大な教育者、人格者、そして…佐藤剛蔵氏の人物像
 その韓国の教え子から尊崇されている佐藤剛蔵氏とは、どんな人物だったの か?そしてどんな教育を行っていたのか?


その答えの一つが、剛蔵氏が1956年5月の喜寿の記念に刊行した『朝鮮醫育 史』にしっかり記述されていました。黒川さんから、その本の複製したものを送 ったよね、って問われて、いいえ、別の冊子でした―などとやり取りしていると、 朱さんがきりっと目を大きく見開いて席を立ち、「これですね、これ!」と一冊 の本をかばんから取り出して見せながら、「君にあげる」と僕に差し出してくれ ました。貴重な当時の体験や史実を綴った唯一の記録本ですから、黒川さんの発 案で20冊を複製したのだという。それがその1部でした。表紙に題名と佐藤剛蔵 の名前が本人直筆で書かれていました。見事な書体です。


この本の内容は、佐藤剛蔵氏の38年間の朝鮮半島で医学教育に関わった経験を すべて網羅していました。現在のソウル大学医学部の前身となる京城帝大医学部 や京城医学専門学校、さらにその前身の朝鮮総督医院、さらに明治40年ごろの韓 国近代医学の黎明を告げる大韓医院の人事や施策、医育の変遷をエッセー風に丹 念に綴っていました。それらを読むと、実に佐藤剛蔵氏の人柄がほうふつとして きます。


「笈を負うて来た医学徒」という項があります。


〜明治41年春、平壌にいた時ですから同仁会から派遣されて間もない頃の話で す。うすら寒い日早朝でした。その講義をしていた洋室の窓の外から大声で呼ぶ 者がいました。見れば、白い朝鮮服に黒い朝鮮帽をかぶった大男でした。その荷 物を斜めに背中にしばりつけた格好で、単刀直入に「こちらは大へん熱心に医学 を教えてくれるそうだが、自分もこちらで医学を学びたいから何とか都合して入 学させてくれぬか」という。


その頃、汽車はなかったので、遠く咸鏡南道咸興から徒歩でやってきたと話し ていました。「笈を負うて」ということばがあるが、私にはその言葉通りその儘 の姿でその青年がやってきたような感じがしてならなかった。直ちに入学させて やった。


この青年はすごく心掛けがよく韓国併合後、平壌慈恵医院医学徒に継承せられ、 後に京城の総督府医院付属医学講習所給費生として転入し、卒業してからは郷里 で開業し、その地方において信用を得て有力者になりました。当時の朝鮮青年の 向上心が盛んな地方といえば、京城以北では平壌と咸興であった〜。


ふむ〜。なんと度量の大きいことでしょう。「笈(きゅう)」とは、修行する時 に仏像や供物、経文などを入れて背負う箱で、修験者に欠かせない法具でもあっ たという。この場合は、背負うように作られている本箱で、笈を背負って旅をす る、つまり遠方に遊学することを指すのだそうだ。いい話ですね。


韓国料理がテーブルいっぱいに並び、そして和気あいあいとした歓談も盛り上 がりをみせていました。そこでいくつか記憶に残る剛蔵校長の印象を朱さんに質 問しました。


朱さんは、間髪入れず、「円満」という言葉を口にしました。思慮が深い、ど んな時でもどんな場合でも変わらぬ姿勢を淡々と貫き通していた、という。黒川 さんは、「何事も本質を見抜くことを忘れないことなのでしょう」とコメントし ていました。当時の入学定員の割合は、日本人が4分の3、韓国人が4分の1とい う決めごとを、あの佐藤校長はその枠を必ず持った。最初から最後までそれを守 り通した。そして優秀な卒業生を差別なく教師に採用しました。もうひとつ、教 育者と思っていたら、京城医学専門学校の設備や予算などの面で経済や行政的な 手腕を発揮し、充実した医育環境を整えていました、という。佐藤の名をもじっ て、シュガーというあだ名が付けられていたらしい。


●「いつでも態度が変わらない、じいちゃんでしたー」
 それを聞いた佐々木さんは、そういえば、じいちゃんはいつも態度がかわらな いし、大声を出したり怒ったりすることはなかった。また、じいちゃんと一緒に 暮らした10年間、官舎で朝ごはんを食べた記憶はあるが、晩御飯は少しもない。 じいちゃん、きっと夜は、政治や経済の方面であっちこっち飛び回って忙しくし ていたのかもしれない、としみじみ当時を振り返っていました。



歴史的邂逅となった佐々木氏と朱先生


その本にはその記憶を裏付けるようなこんな記述も見に留まりました。「朝鮮 の医療施設の体系整備と医育」からの引用です。


〜医療と医学と医育の3つは不離一体であり、三位一体のもので三つ巴のよう に持合いの姿であるといってよい。先ず、医療設備が漸次完備されていくと必ず 医学の研究も盛んになる。また、逆に医学の研究熱が起こってくると医療施設も 改善進歩向上する。またそれとなく医育機構も漸次芽生えてくる。医育機構の初 めは不備なものでも医学の研究を伴う性質のものであり幾多の変遷を経て年月を 重ねる従い整備発達して、医専にもなり医科大学にも進展していく〜。


最後の「筆を措くにあたり」では〜私はこれら医育事業に参画した在鮮38年6 ケ月の歳月は実は夢の間に流れた。私は、朝鮮医育が芽生えてから、幹が伸び、 葉が繁り、花が咲き実を結んだ現実を目撃した嬉しさを、心ゆくまで味わうこと ができた〜とその充実ぶりを率直に語っていました。


そんな人柄だからこそ、朱さんはじめ卒業生ではなく在校生にまで慕われる所 以なのでしょう。佐々木さんによると、剛蔵氏は終戦直後、韓国の次の責任者に 京城医学専門学校などの引き継ぎを済ませて12月下旬に日本に引き上げるのです が、混乱の最中、韓国の教え子らがソウル(京城)から釜山へと連携して剛蔵氏を 守り、無事帰国させたという。


佐々木さんにはもう一人、韓国に渡った学者の祖父がいてこの本にも登場しま す。母親のハツさんの父が剛蔵氏ですが、ソウルで国税の税務監督の立場にあっ た父親の東(はじめ)さんの父、もう一人の祖父が佐々木四方志氏で、やはり同仁 会の薦めで東大卒後の明治39年に、剛蔵氏より一年早く朝鮮半島に渡り、大韓医 院の衛生部長などを務めており、剛蔵氏と深い親交を結んで居たことが伺えます。



写真:佐々木四方志 大正元年45歳 京城の竜山同人病院長時代
*写真提供 佐々木定氏


参考までに、剛蔵氏の略歴は〜1906年京都帝国大学医科大学卒、1907年6月7日、 財団法人同仁会から派遣された平壌の同仁会医院長として赴任、日韓併合の年の 1910年9月21日に大韓医院医務の嘱託、同年10月、大韓医院が朝鮮総督府医院に なって朝鮮総督府医院教官、同時に医育課長に就任、31歳でした。それから1916 年4月1日に京城医学専門学校教授、欧米に出張後、1921年6月21日、医学博士の 学位を授与、1925年12月に京城帝国大学創設に関する事務の嘱託を拝命、1926年 4月1日、京城帝国大学教授、兼務で京城医学専門学校教授、1927年6月28日、京 城医学専門学校長就任、それ以降終戦まで校長を務め、兼務で京城帝国大学教授 もこなしていました。これは『朝鮮医育史』の冒頭に書かれています。


●韓国医学生の累計は3340人というデータ
 それと僕が着目したのは、朝鮮の医育で終戦時まで各医育機関から何人の医者 が誕生したのか−というデータでした。この本に書かれていますが、京城大学医 学部(定員80人)では日本人750人、韓国人250人に対して剛蔵氏が校長を務める京 城医専(定員80人)は日本人1200人、韓国人1100人とほぼ拮抗していました。他の、 例えばセブランス医専は韓国人1000人の医者を輩出しているなど当時の6つの医 育機関で合計6500人の医者を生み、そのうちの半数を超える3340人が韓国人であ った、という統計が掲載されていました。


剛蔵氏は、これに触れて「これは朝鮮医育の著しき進展向上といえるであろう が、私は私の渡鮮当時の低級なる医育事情を顧みて誠に今昔の感に堪えぬものが ある」と書き残していました。


いやあ、本日は大変、感動的でした。ソウルにきて本当によかった、と佐々木 さん。なぜ、62年ぶりのソウルなのか、終戦後、役人というだけで拘束された父 親の苦衷、それに…いろいろ事情があったようです。それらが今回の旅で吹っ切 れた様子でした。事情通の石田さんの案内で、祖父と暮らした官舎跡、妹とよじ 登って園遊会の様子を眺め見た韓国塀が当時のまま残っていたことを嬉しそうに 語っていました。


●歴史的建造物として現存、その往時を伝える大韓医院
 さて、翌日14日は朝から別行動でした。ソウル市内の東大門から数キロ北の大 学路を走ると、広大な敷地に近代的で相当規模のソウル大学病院があります。入 口付近から坂道を登れば、赤い煉瓦づくりの瀟洒な東京駅に似た建物が目に入り ます。そこが韓国近代医学の発祥の歴史を今に伝える、重要文化財の大韓医院が 当時のままの姿で残っていました。古く明治32年には官立京城医学校として開校 し、日韓併合時には朝鮮総督府付属医学講習所と名を変え、そして京城医学専門 学校へと引き継がれていく。佐々木さんの2人の祖父が入れ替わりここで仕事を していたのですね。



100年前の大韓医院(上)と現在の歴史博物館(下)


この日は日曜で休館でしたが、裏手からエントランスホールを伺っていると、 係りの人が近づいてドアの鍵を開けてくれました。どうぞ、という。職員はキム さんという。ガイドと一緒にキムさんの後を追って、2階の展示室付近に差し掛 かると、そこに大きめの記帳のノートが開いていました。


なんと、そこに黒川清さんの名前をみつけました。その前のページに石田さん、 その前が佐々木さんという順番でした。まだ人の肌のぬくもりが感じられました。 この日の朝、やはりここを訪れていたそうです。なんだか、うれしい気分になっ てきました。


今回の旅の経緯を少し付け加えます。前回のメルマガでも書きましたが、週刊 新潮の掲示板に掲載した小さな問いかけでした。2年前の12月、「佐藤剛蔵先生 のご家族を探しています」と。そうして12月30日、熊本の佐々木さんの家に、剛 蔵氏の墓がある新潟県長岡市の寺の住職から、記事を読んだ檀家から連絡があっ た、といって黒川さんという人があなたを探しているそうだ、との電話をもらっ た。年が明けた1月4日に黒川先生のオフィスに佐々木さんから連絡を入れ、そし て東京で初めて会うことになったのが昨年の秋。黒川さんからソウルにいきませ んか、こんな誘いを受けて今回の旅となったという。


●「人は記憶の中に生きる」
 メモリアルな余韻に浸っています。2泊3日の旅は、僕にとってもうひとつの韓 流ドラマを見ているようでした。人は記憶の中に生きる、というのはどうも本当 らしい気がしてきました。その郷愁を誘う舞台が、それぞれの遠い記憶を呼び戻 すのでしょう。しかし、ひとりの人物をめぐって時を超えその記憶を紡ぐ、こん な不思議な出会いの場でメモを取って原稿を書いていると、さて、人生にとって 何が大事なのか−その輪郭がうっすら透けて見えてくるようです。



※韓国の医育史メモ:1876年の朝鮮の開国、そして同時に日本海軍が釜山に開 院した官立済生医院の紆余曲折があって、これは現在の釜山大学校医科大学の前 身なのですが、1885年にソウルにいち早く建てられた王立広済院が、アメリカの 宣教師ら北長老会派によって1905年にセブランス病院・セブランス医学校(のち にセブランス総合医専)に、ソウルにはまた1899年に大韓帝国政府によって官立 医学校が置かれ、韓国近代医学の父と敬われる池錫永が初代の校長に就任する、 やがてそこは1907年に大韓医院付属医学校に、1910年の日韓併合時には朝鮮総督 府付属医学講習所になって1916年には京城医学専門学校(1945年まで存在)、さら に1924年には京城帝国大学医学部に昇格し、終戦前は朝鮮の医学教育機関は、京 城帝大、京城医専、セブランス総合医専、大邱医専、平壌医専、京城女子医専、 光州医専などを数えていたという。 


【お願い】佐藤剛蔵氏や京城医専など韓国近代医学に関する、関係者の現在の消息をはじめ、書籍や写真、手紙等の歴史的資料を集めております。ご存知の方がいらっしゃれば、DNDメディア局編集部までお知らせください。寄せられた資料やご意見は、このたび佐藤剛蔵氏の功績や存在を世に問うきっかけとなった前日本学術会議会長で政策研究大学院大学教授の黒川清先生にお伝えすることになります。
ご連絡先:韓国近代医学史に関する資料準備室
電話090-9007-0215
E-mail :info@dndi.jp
DNDメディア局編集長  出口俊一

記憶を記録に!DNDメディア塾
http://dndi.jp/media/index.html

このコラムへのご意見や、感想は以下のメールアドレスまでご連絡をお願いします。
DND(デジタルニューディール事務局)メルマガ担当 dndmail@dndi.jp