ご一緒しません?来月10月13日に韓国に行きますが〜。なんの予告もそれほど 特別の説明もなく、ふいにこんな誘いをもらって即断しました。旅は道連れ、こ れも何かの縁でしょう。
あれからちょうど1ケ月、刻々とその日が近づいてなぜか、妙にテンションが あがっています。発案者は誰でしょう、そしてどんな顔ぶれがツアーを組んでい るのか〜僕を入れて4人です。勿論全員男性です。他の3人はそれぞれ面識がない というミステリアスな組み合わせの事情は、徐々に明かしていきますが、それに しても一度も顔も合わせたことがない方々が、現地集合で旅が成立する、という のも不思議でしょう。そもそもなぜソウル?
よくよく聞いて下調べしてみると、これは勿論、人気が続く韓流ブームにのる 観光ツアーの趣と違って、直観的にやや重い歴史の扉を開くことになるかもしれ ません。が、主な旅の目的は、日韓併合時代(1910年〜1945年)に韓国の近代医学 教育の発展に貢献し、当時の韓国に渡った数多くの日本人医学者の中でも特に38 年間という長期に渡って尽力した佐藤剛蔵氏(さとう・ごうぞう)の活躍に敬意を 表し、生存するその教え子らを囲んで知られざる歴史的人物の存在や当時の様子 をお聞きしようという試みです。
写真:昭和10年 55歳 京城医専校長時代
まず1人目。この旅を呼びかけたのが内閣府特別顧問でイノベーション25戦略 の推進者、DNDではコラム「学術の風」の連載などでお馴染みの黒川清さんでし た。黒川さんは、日本学術会議会長当時の05年12月8日号の週刊新潮の「掲示 板」でこんなお尋ねをしていたんです。
〜明治40年(1907)から昭和20年(1945年)の終戦後まで、朝鮮半島で近代医療を 導入し、医師の育成に尽くされた佐藤剛蔵先生のご家族を探しています。お嬢様 がお一人おられたと聞いていますが、ご存知の方、教えてください〜と。
そして黒川さんは、佐藤氏の履歴についてこんな風に紹介していました。
「佐藤先生は京都帝国大学医学部を卒業し、外科医となり、朝鮮半島に渡りま した。平壌公立同仁会病院院長として活動されながら、日本人ばかりではなく、朝鮮の若者たちに医学への道を開くなど、医師育成に力を注ぎました。韓国や北朝鮮の医師の中にも、佐藤先生をご存知の方がおられるはず。先生の遺志を彼らと共有したく、ご家族から話を伺えれば幸いです」。
そして主要な役割を担う2人目が、黒川さんの掲示板にすぐに呼応した岡山県 在住の医師で作家、そして医学史の研究を続ける石田純郎さん(59)でした。
もう30年来の韓国通で、佐藤氏らの人物像と履歴、その歴史的背景をまとめた 研究成果が一冊の論文になっていました。「韓国近代医学教育史」(1876年‐195 3年)―朝鮮の開国から朝鮮動乱まで、日韓併合時代を中心に―で、その時代を通 史として完結させた労作でした。その一冊を黒川さんから送ってもらいました。
この論文の記述によると〜佐藤は1880年(明治13年)の7月5日、新潟県長岡市の 士族、夏目洗蔵の弟として生まれ、1902年に佐藤織居の養子となった。1906年 (明治39年)に京都帝国大学医学部を卒業し、翌1907年6月にその前の年に開院の 平壌同仁医院長として韓国に渡っていた。同仁会は日本人医師を朝鮮や満州に送 ることを目的に1902年に創設、神田の一ツ橋に本部を置いていた。初代の会長が 長岡護美で、1904年に就任した2代目が大隈重信だった。佐藤が平壌に居たのは1 910年までで、当時、平壌の医院の付属の看護婦養成所は日韓共学だった。 佐藤の記述が少し紹介されていました。
〜韓国人生徒がよく勉強をし、よく覚えるので、本気で教育を行った。同医院 付属の医学校では在学生2年合わせて15、16人を通訳付きで講義をした。日韓併 合の直後の9月、この付属の医学校から8人の韓国人生徒を卒業させて、その中で 優秀な3人を新設の官立慈恵医院に就職させた〜。
翌1911年の平壌の7人の医学校生徒は、全員、朝鮮総督府医院付属医学講習所 に転入し、当時あった平壌と大邱の同仁会による医育は終了した。その後佐藤は 大韓医院医育課長、1916年京城医専教授、1924年に京城帝大医化学教授を兼任し、 1927年に京城医専の校長を1945年まで務めた。
終戦後は、京都に戻り開業はしないで芦屋の千寿製薬科学研究部長を務め、19 60年5月13日に没した。享年79歳。墓は、長岡市の善照寺にある、という。著書 に「朝鮮医育史」(1956年、佐藤先生喜寿記念会刊)。実は、黒川さんの掲示板で の呼びかけで、佐藤氏の子孫が判明しました。熊本在住で孫の佐々木定氏です。 ご自身は国税庁に長らく奉職され、晩年は熊本の酒造会社に勤められたそうです。 ソウルの旅の同行者の3人目が、佐々木さんです。
黒川さん、石田さん、そして佐々木さん、佐藤剛蔵氏のルーツを辿る旅は、ど んな縁か知りませんが、まったくこの3人に面識がない、しかし、なんだかとて つもない絆で結ばれているような気がしてなりません。なぜ、石田さんは30年 も前から韓国に行っていたのでしょうか。
先週の6日、岡山の自宅に石田さんを訪ねました。なんだか、こんな大変な作 業をコツコツまとめ上げる研究者って、どんな人なのだろう、という好奇心が疼 いたのかもしれません。うっそうと茂るキャンパス周辺のケヤキ並木のある岡山 大学を抜けた閑静な住宅街の一角、駅からタクシーで10分足らずでした。案内さ れた応接間に真新しい仏壇があり、そばに遺影の中に夫人の裕子さんが微笑んで いました。2年8ケ月に及ぶがんの闘病の末、この夏逝ったという。これまで世 界各国65回も回り、そのうち裕子さんとも随分御一緒し、遺影はシリアに旅した 時のスナップだという。49日の法要が済んでようやく落ち着きを取り戻したよう でした。
この時期、実際にどのくらいの数の医師や教授らが韓国に渡って教育や医療に 従事したのでしょう。石田さんによると、すでにこれまで400人の履歴を調べ上 げているが、延べ人数にすればその10倍、4000人はなんらかの形でかかわってい たと思います、という。来月はソウル大学校医科大学大会で開催される大韓医師 学会で、京城帝国大学医学部と京城医学専門学校の約140人の日本人医学教師た ち、という論文を発表する予定という。
その冒頭の文末に、「当時、朝鮮で教鞭を執った医学教師の水準は、同じ時期 の内地の医学水準と比べて、そん色がなく、良い水準の医学教師が朝鮮で教鞭を 執っていたといえる。引き揚げ後、日本の大学で医学部長や学長を勤めた者も多 いことが、それを証明するであろう」と断じていました。
石田さんは奥の書斎からこんな本を持ってきて見せてくれました。1998年に出 版の「日帝統治期〜韓国醫師教育史研究」(李忠浩著)でした。グラビアをめくる と、数枚のモノクロの写真が掲載されていました。全文ハングルで読めませんが、 写真のキャプションは日本語でした。さすがに鮮明ではありませんが、恰幅がよ く口ひげをたくわえた威厳のある姿が目に留まりました。佐藤氏だという。ふ〜 む、こんな人だったんだあ。
写真:佐藤剛蔵氏 昭和2年 47歳 昭和天皇即位礼の時
1928年5月の付属医院の地鎮祭での記念撮影で、説明に藤田・芳賀両先生来校 記念とありました。場所は、京城帝国大学医化学教室で、上下2段に合計20人の 医師らが写っていました。正面中央に藤田嗣章、右となりが芳賀榮次郎、左隣り が志賀潔、そしてその横に佐藤が控えていました。錚々たる面々のようですね。
藤田嗣章(ふじた・つぐあきら)は当時の朝鮮総督府医院の初代院長で、全生徒 に週1回修身を教え、佐藤は生理学や医化学を教えたという。藤田は後に森鴎外 の後任として陸軍軍医総監に就任、そしてその名が示す通りフランスに留学して 名をはせた洋画家の藤田嗣治は彼の末っ子という。志賀潔は日本の帝国大学で6 番目に創設された京城帝大の総長を務めるが、北里柴三郎門下の細菌学者で、世 界の医学史にその名を後世に残すのは、石田さんによれば、北里柴三郎、志賀潔、 野口英世、秦佐八郎の4人である、という。
志賀に「朝鮮の医生について」という論文があり、医生には、草根木皮を使っ た薬種商で韓方(原文では漢方)の開業者もいて、日韓併合後も開業しており、朝 鮮の主要な診療機関となっていた。その数、ざっと5000人と称されていた。これ に対して、近代医学の教育を受けた医師は1500人に過ぎなかった、と興味深い記 録が紹介されていました。
石田さんがポツリと漏らしました。僕の先祖は、石田三成です、と。そして今 なお、日韓併合中には仏蘭西教会と呼ばれた現在の明洞大聖堂前の小高い丘には、 文禄の役の際に石田三成が陣を敷いた場所がある、という。復刻の古地図を参照 しながら、これまで繰り返し歩き回り当時の事跡を辿っている、のだという。愛 妻を亡くした今、韓国の医学教育の黎明から発展の系譜、医学専門機関韓国の医 学史をライフワークとして、韓国に渡ってその研究をさらに深めたいという気持 ちが強い。日本の6番目の帝国大学として創立された京城帝国大学や他の医療機 関での人事消息、卒業生らの動向などを調べていく過程で出会った韓国の人に、 石田三成の祖先といっても特段厳しい目でみられることはなく極めて親日的で研 究にも協力的だ、という。
さて、それでは、実際どのような教育が行われていたのか、それが当時の学生 の目にどのように映っていたのか、それから60年以上も歳月が経った今、当時を 振り返って印象に残るものは何か〜生存する佐藤氏の教え子らの記憶を記録する ことが、この旅に参加する僕の大事な務めです。
教え子といってももうはるかに80歳を超えているでしょう。皆さんがお元気な うちに、ひとつひとつの史実を留めておこう、という焦りが関係者らから強く感 じられました。そこが呼びかけ人、黒川さんの動機だったようです。黒川さんは 祖父の代から数えて3代目の医者、そして学者、石田さんも3代目という。佐々 木さんは父方、母方のそれぞれの祖父がやはり医者という系譜でした。不思議な ご縁ですね。いよいよその旅が実現します。
次回のメルマガは、その最新の韓国生情報を含めて"教え子の真実"をレポート する予定です。