◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2006/3/15 http://dndi.jp/

御意見無用のレクイエム

DND事務局の出口です。猛者(もさ)、こんな言葉はすっかり遠く忘れ去られ たのかもしれない。読み方だって馴染みが薄いし、勇ましく無頼の意味に似合わ ずその響きがどことなく、くぐもってやぼったい。


 しかし、戦後昭和の裏面史を覆う、国家の幾多の策謀に粘りの調査報道で挑ん で正義のバトンを手渡しながら、不慮の事故や無念の病に倒れた数多くの社会部 記者、そんな凄い猛者らがどんな記事を書いたか、あまり知られていない。


 「毎日新聞社会部」(河出書房新社刊)。つい最近、2月28日の発行で、その 著者の名に驚いて迷わず買い求めていました。毎日新聞の元社会部長で、司法キ ャップ時代にはロッキード事件の「田中角栄逮捕」の予告記事などをスクープし た、往年の司法記者の、あの山本祐司さんでした。


 帰属会社も年齢も違って面識はないけれど、元警視庁担当の経験からすれば、 憧れの伝説の人です。略歴に1936年山口生まれ、とあるから今年で70歳を迎える のでしょうか。それにしても、なんという筆力でしょう。


 「もはや私の新聞記者時代は遠くに去った」というエピローグでは、毎日新聞 社会部の、それと山本さんの、その半世紀に及ぶ歴史と回想を余す事なく書き終 えて、やっと荷を降ろしたような安堵感が伝わってくるようです。半身不随の不 自由な体でこれほどの枚数を、どんな思いで、そして誰のために書き綴ったのだ ろうか。


 全12章。その冒頭の第1章が「下山事件の謀略」。実は、下山国鉄総裁の轢死 体を自殺という真実の毎日新聞の報道が、時のGHQや権力の策謀で、あやふやな 状態で否定されたうえ、社内では誤報への懲罰人事が断行されるなど、その不可 解極まる経緯の全容を執念に近い詳細な史実や見聞で見事に浮かび上がらせてい ました。ひどい話があったもんだ〜。


 これはほんの一例。恐ろしい権力の策謀に敢然と立ち向かっていく記者魂、福 島支局勤務で2年目の倉島康記者が「列車転覆の松川事件」で掴んだ「諏訪メモ 発見」のスクープ報道は、死刑から全員無罪へと逆転判決に結びつくことになる、 その知られていない事実を克明に描いた第4章の「松川事件をひっくり返した記 者」。


 これも身震いするような迫真のドキュメントで、冤罪を晴らすスクープ記事が 全国版では握りつぶされる恐れを感じて、福島県版のトップニュースで処理する 慎重さであった、というから、誰を信用していいかわからない。この記事が、松 川事件の2審判決で死刑を言い渡され上告中の佐藤一被告のアリバイを立証し、 その結果、死刑宣告の佐藤被告の仲間の多くを死の淵から生還させることにつな がりました。


 凄い記者がいたんですね。その倉島記者が福島県最後の年に全司法の専従書記 の女性と結婚することになります。仲人は、前述の下川事件を手がけた記者、平 正一さん、「誤報」の制裁で社会部から熊本支局長に左遷させられていましたが、 やがて平さんは東京本社地方部長に昇進、そこで平さんと倉島さんがめぐり合う ことになりますが、下山総裁は自殺だった、ことをライフワークとして取組んで いた平さんは1967年1月に他界しました。


 それから18年後、下山総裁の死が自殺であったことを示す重要資料がアメリカ 国立公文書館に実在することがわかり、捻じ曲げられた真実がようやく明るみに 出ることになります。下山事件から38年の歳月が経っていました。


 猛者記者らの得た成果や代償は、どんなものだったのか。無冠なればこそ、そ れ以上の勲章はない。そこにジャーナリズムの真髄があります。にわかフリー記 者のガセメール騒動や、なんとかの論文や学芸発表の世界をジャーナルと呼んで も、ジャーナリズムと一緒にしてはいけない。


 第6章「サツマワリ登場」、第7章「児童文学は少し待て」、第8章「地下水 脈」、第9章「謀略西山事件」。入社からサツマワリ、そして社会部での人事異 動や担当の配置、企画をこなし、事件を追う錚々たる記者らがその実名で登場し、 その人となりも丁寧に描かれていました。


 少し、知っている名前も出てきます。その頃、社会部遊軍内外にはユニークな 記者が揃っていた、として、石谷竜生、鳥井守幸、坂巻熙、原剛、早瀬圭一郎、 鳥越俊太郎、小島一夫、四方洋、取違孝昭、佐藤哲朗の猛者記者が名を連ね、 「宗教を現代に問う」で宗教記者としてその境地を開いた佐藤健、その生き様は 壮絶でした。


 東京社会部と大阪のそれとの人事交流のくだりでは、デスク、第一線の優秀な 記者を送り込み、そのなかには、遊軍の八木亜夫、横田三郎(のちの新聞協会賞 受賞)、岩見隆夫(日本記者クラブ賞)、伊藤光彦(エッセイストクラブ賞)、


 大阪本社の大物・稲野治兵衛が東京の社会部長になって、遊軍記者・吉野正弘、 事件記者・山崎宗次らを起用した「組織暴力の実態」が日本新聞協会賞に輝き、 翌年には大森実外信部長が「泥と炎のインドシナ」でその賞を射止め、2年連続、 大阪社会部出身が報道界の最高栄誉に輝いたーという。「組織暴力の実態」は神戸の山口組組長三代目・田岡組長、関東稲川組の稲川組長ら暴力団組長の懐に飛び込んでの突撃インタビューを行っていました。その山崎さん、稀有な特ダネ記者ながら警視庁キャップ時代、「多忙な記者生活の中で続けた山崎塾、まさに八面六臂の人」で、いわば寺小屋のようなマスコミ志望の学生が集ったーという。NHKの『事件記者』、「山さん」は山崎さんがモデルでした。


 一切無料、来るものは拒まず去るものは追わない。山崎塾は、毎日、朝日、読 売、日経、共同、時事、北海道、中日、西日本、産経、報知、NHK、TBS、日本テ レビ、関西ラジオ、講談社に合格者を出し、合格者が増え始めて「就職ジャーナ ル」が「山崎塾は合格率120パーセント(一人で複数合格)」と書き、朝日新聞 が「山崎塾」を取り上げるに及んで、一気に人気塾となっていました。


 なぜ、塾生が実力を持つようになったか。山崎式作文術7原則と人間的な情熱 が実力を発揮させた、という。その秘訣を「カンカラコモデケア」という、お呪 いのような暗号を、その7要素を文章にちりばめてこそ、現代の文章は生きるー というのが山崎塾長の指摘する根本精神らしい。


 じゃ、その7つは、「カン」(感動)、「カラ」(カラフル)、「コ」(今日 性)、「モ」(物語性)、「デ」(データ)、「ケ」(決意)、「ア」(明る さ)という。その山崎塾は、総計600人というから凄い。それも毎日新聞だけで はない、という一点でそれはもう、物語性に富んでいて感動的です。これは、マ スコミ志望の学生の専売特許にするには、もったいない。う〜む、天晴れです。


 圧巻は、第10章「ロッキード事件」、第11章「経営危機」、第12章「田中角栄 崩壊」の結びの3章です。歴代の社長を見ても、政治、経済、外信の3つ「硬 派」出身であり、なぜか、社会部は呼ばれない。しかし、毎日の社会部こそ、稀 有な実力を秘めた本当の新聞記者だと思っている。硬・軟派の書き方に通じ、 「生涯一記者」に徹したことがなんと多いことか。「彼らこそ正真正銘の猛者な のだ」と断じていました。なんか、この辺は、精一杯の我慢というか、悔しさが 滲みでているように感じてしまいます。


 山本さんがそして社会部長として全権指揮を執る、部長就任直後に日航ボーイ ング747ジャンボ旅客機が群馬県の御巣鷹山に墜落する大惨事が発生、社会部 運輸担当の菊池卓也記者が、事故原因を「圧力隔壁破裂」の衝撃スクープをもの にし、三浦正己記者が乗客の遺品として発見された機内の写真「緊迫の墜落直 前」4枚をスクープしていました。


 と、そんな時、殺人的な多忙の渦中にある社会部長、山本さんは、睡眠不足に なり、「悪魔がすぐ近くまで忍び寄っていることを知らなかった」と述懐してい ました。


 〜血圧が高かった。激務の部長を降りたら、精密検査を受けようと考えていた。 そんな矢先、私は脳溢血で倒れた。身長177センチ、体重は100キロ近い。睡眠は 5時間足らず。「ああこれで死ぬな。まだしなければならないことがあるん だ!」と叫んだつもりだったが、意識が遠ざかっていったから。意識不明3ケ月、 入院10ケ月、身障1級、右半身不随、相手が話す半分も分からない純粋語聾とい う19世紀後半から国内で20例、世界でも80例しか報告がない稀有な症状が残った ‐という。それは奇跡の生還じゃないですか。


 「エピローグ」は、なんだか猛者記者のレクイエムのようでした。山本さんが 脳溢血で倒れ、半身不随になった1986年11月、その年が明けて3月になってやっ と意識を回復したものの、その夏7月15日に毎日新聞きっての特ダネ記者、山崎 宗次さんが他界、仕事の付き合いゴルフ中のことで享年52歳、役員待遇になった ばかりでした。無念この上ない。


 若い時から仕事仲間で遊び友達を自認する吉野さんが「弔辞」を読むのだが、 山崎さんの1年9ケ月後、今度は吉野さんが、小田急・片瀬江ノ島駅前で妻、甥 と酒を飲んで帰る途中、暴走族と口論になり腹を蹴られて亡くなった。これは当 時、ショッキングな記事として大きく扱われました。見て見ぬふりをするか、注 意するか‐。正義感の強い、吉野さんはじっとしていられなかったに違いない。 悔しい話です。


 それから、振り返って〜他界した吉野も、山崎も、江川(晶)も、一瀬(博 明)も、佐藤(健)も、新山(恒彦)も、みんな正義派だった〜が、大半がガン に侵されて死去していました。壮絶です。「長い不規則な記者生活がガンを誘発 しやすいのだろうか」と述懐していました。


 山本祐司。その著者の、その裏にもう一人の孤高の新聞記者の名が浮かんでき ます。いや、表裏一体かもしれません。ひょっとして、この「毎日新聞社会部」 は、その人へのレクイエムのように思えてしょうがない。


 杉山康之助。同期入社で社会部、ふたりは、とても仲がよく山本さんの杉山さ んへの友情はどんな状況でもぶれることがない。この358ページに及ぶ全編の随 所に、ホッと気持ちが和む、お二人の交遊の場面が散りばめられていました。思 えば、その哀切の回想シーン、杉山さんはどんな時でもクールでダンディーに描 かれていました。


 〜同窓の杉山康之助とはよく飲んだ。幼い頃、両親を相次いで失い、父親譲り の文才(朝日新聞のコラムニスト)に恵まれ、山に登れば谷川岳一の倉沢六ルン ゼ右俣積雪期など初登攀記録を持っている。杉山は青森に赴任する。彼の口ぐせ は「御意見無用」だった。彼は男らしく浅黒くやせていた。鼻が高くスポーツ刈 りがよく似合い、孤高な雰囲気を持っていた。天涯孤独な境遇が、そんな感じに させるのだろうか。(第6章)。


 〜最高裁にある司法クラブの電話が鳴った。「山本いますか」と同期の杉山の 声だった。「ちょっと出て来い。お前もスシ屋横丁にはいろいろ世話になっただ ろう。有楽町と別れる時ぐらいでてこい」。午後8時、「ミルクワンタン」へ行 ったら、杉山の外に先輩遊軍ら3人がいた。飲むほどに酔って‥山男の杉山は珍 しく山の歌を歌った。「可愛い花にも 風吹く今宵 出て行くお前に 乱れる想 い ゆくなよ、こここそ心なごむ花園」。私も肩を組んで歌った。(第8章地下 水脈)。


 〜牧内(節夫、社会部長)は3月1日付で牧内人事を発令した。そのなかで最も 楽しみだったのは、同期の杉山康之助が遊軍キャップになったことである。アイ ツならこのロッキード事件をどう書くのだろうか。(第10章)。


 「御意見無用」の杉山康之助氏。なんだか、「毎日新聞社会部」を読んでいな がら気がつけば、ずっと杉山康之助の名を探していたようです。あれは、僕が産 経新聞に入社して、栃木県日光通信部に赴任しているときでした。昭和54年秋、 遺稿集「御意見無用」(杉山康之助著、毎日新聞社会部記者と日比谷高校OB編) の社告を毎日新聞で見つけて、申し込みました。非売品でした。


 杉山さんの文章に触れて体に衝撃が走ったことをいまだに鮮明に覚えています。 読んで、書き写して〜を何度も繰り返していましたから、ミュンヘン五輪の記事 は、もう諳んじるほどでした。杉山さんのような記事が書きたい‐って思って念 じて、ずっと社会部遊軍を志望していましたが、警視庁やら都庁キャップやらで、 ついにその機会は訪れませんでした。


 が、その本をコピーして何人もの後輩記者に譲りました。686ページのボリ ュームですから、それも大変で終には同じ名前の記者にその本を挙げてしまいま した。今となっては、とても残念で、いますぐ行って取り戻したい心境です。も う一度、杉山さんの、透明感のある、やわらかで静かな文章に浸ってみたい。い まだからこそ、いっそうそういう思いが強い。


 最終章の12章「田中角栄崩壊」には、杉山さんが不慮の事故で亡くなった状況 が、同僚、上司らの追悼文とともに3ページ半にわたって書かれていました。


 〜1979年3月15日夜10時すぎ〜「杉山、何をしたんだ」と私(山本さん)は怒 っていた。「杉山、人生今からじゃないか。お前の文章はこれからが勝負なんだ。 それなのに死ぬなんて」と私の怒りは朝刊勤務の間中続いた。(中略)。きびし さとやさしさの同居したひとなつこさは同じだった。


 それが文章にも出た。ミュンヘン五輪でソ連に敗れた女子バレーボールチーム について彼は、さりげなく(書き出しで)「彼女たちには銀色のメダルがよく似 合った」と書き、マラソンで5位に食い込んだ31歳の君原のゴールを「スタンド のあちこちを見上げ、だれかいないか、知ってる人はいないか、と探し求めてい るようだった」と書いた。それは、彼自身の投影ではなかったか、と思う。彼は 飾らない名文を残したが、どれにも温かい目があった。


 それは、ギリギリと自分をさいなむ鬼気迫るような執筆態度からは想像すらで きない。誇り高く、山と文章に命がけだった彼、独身のプロを自称し「3歳の少 女のように毅然とした女の人なら‥」と言いながら、ついに男ばかりの世界で酒 を飲みながら逝ってしまった〜涙が出て止まらなかった。


 いやあ、享年42歳。なんとも鮮烈です。毎年、彼の命日の3月20日には、神奈 川県平塚市の要法寺で、昭和36年入社の同期生で労働組合委員長だった大住広人 さんが世話役となって彼の遺徳を偲んでいました。そこには、毎日新聞社会部記 者と日比谷高校OBが集まり、それはもう27年も続いている、という。


 ネットで検索すると、元毎日新聞編集局長の牧内節男さんがホームページ「銀 座一丁目新聞」のコラム「追悼録」(5年前の3月20日号)で、「ご意見無用は杉 山君の口癖であり、生活態度でもあった。どこかニヒルで孤高の名文家にふさわ しい言葉である」と語り、その野武士のような風情に20歳の女性がほれて、先輩 らがお膳立てをしたが実らず、結婚の相手について「母親と似た人がいい」とい ってかたくなに独身を通した‐というエピソードを紹介していました。


 そういえば、知っている毎日新聞の社会部記者は、調査報道を極めた猛者が少 なくない。バーのカウンターで飲んでいてもふと、思い詰めたような表情をする のは、幾多の策謀への警戒心なのか、あるいは毎日社会部の伝統の所作なのか、 先輩記者らの孤高のDNAを連綿と引き継いでいるのかもしれない。


 そして、なごやかにしゃべり、気持ちよさそうに、よく飲む、気分のいいアイ ツが北九州・小倉からそっちへ行くよって、連絡がありました。春桜の下で、毎 日新聞社会部の続きを聞かせてもらうつもりです。




記憶を記録に!DNDメディア塾
http://dndi.jp/media/index.html

このコラムへのご意見や、感想は以下のメールアドレスまでご連絡をお願いします。
DND(デジタルニューディール事務局)メルマガ担当 dndmail@dndi.jp