◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2006/2/8 http://dndi.jp/

DNDメルマガの読者近影

DND事務局の出口です。やっと梅の蕾が少しほころんで、皇室での新たな命の 吉報を祝福するかのような、朝から早春の明るい空が広がっています。久々に心 が落ち着いてくるようです。


 「梅二月ひかりは風とともにあり」(西島麦南)。


 そんな晴れた日は、ややっこしい時代の世の喧騒を離れて、まっすぐで楽しげ な人たちの、最近のDND往復メール交換の一端をご紹介しましょう。


 前回は、福井県、福井大学をまるごと特集した「哀愁の北陸路に雪が降る」で した。どこか演歌調ですが、手の内を明かせば、作家・椎名誠さんの「哀愁の町 に霧が降るのだ」(新潮文庫)のパクリなんですが、いやあ、多くの方からさっそ く感想メールが飛んできていました。



【富山県庁の研究者から】


 【冨田正吾さん】《富山県商工労働部新産業科学技術班副主幹、工学博士(兼) 富山県立大学(担当)》「いつも、DNDメルマガを楽しく拝読させていただいてお ります。ウィットに富む文章でついつい引き込まれてしまいます。小生、現在は 御覧のとおり、事務職に就いておりますがもともと研究者ですので、出口さんの 執筆文章に励まされたり、共感するところも多いです。特に日経ビジネスで叩か れた補助金を活用したベンチャー企業の記事には興味をそそりました。また、先 日の福井でのフォーラムの記事では、『福井にやられたか!』とやや悔しい思い をしました。富山もがんばっているということをお知らせする機会を得たいと思 っております。今後とも産学官連携のけん引役としてご活躍されますことをお祈 りします」(2月2日受信)。


 いやあ〜なんとも率直で心のこもったメールです。冨田さんのお人柄がほうふ つとしてきます。冨田さんの、「福井にやられた!」の無念さは、僕がきっと晴 らしてみせましょう〜。で、その返信は、以下の感じでした。


 「心温まるメール拝受しました。こんな風に捉えていただけると、(メルマガ を)続けてきて良かった‐と素直に思います。感激しています。実は、富山には 知人もいて、時折、地元紙に掲載の大学関連の記事を送ってもらっています。何 かの機会に是非、足を運びますね。福井は、引き続いて強烈なアプローチがあり、 またおじゃまする予定です。その途中か、帰りに顔をだします。いろいろ情報を お待ちしています。では」(2月3日返信)


 すると、冨田さんからは‐。「富山のことをご存知とはありがたいです。ご承 知のように、昨年(やっと)県内国立大学が統合され、これからも産学連携が進む のではと思っております。少しずつですが大学と行政ともお付き合いが進みつつ あり、昨年11月には富山大学と県が包括連携協定を締結し、アクションプラン を作り、18年度予算に反映すべく当方では作業を進めているところです。研究 者としても思うのですが、あまり行政が急き立てても産学官連携は上手く進まな いし、双方がもっと知り合うことが大事かなと思います〜」(2月3日受信)とい う富山県の産学連携のまっすぐな取り組みの状況が伝えられてきました。


 冨田さんの気持ちを汲んで、地元の北日本新聞から記事を抜粋すれば、「富山 発次世代エコカー、国内初の産学連携車」の見出しで、ミニカー製造販売のタケ オカ自動車工芸(富山市、武岡栄一社長)は、この4月に漆芸工芸家で富山大学芸 術文化学部教授の林曉(さとる)氏らのグループと共同開発した一人乗り電気自動 車を市場投入する‐という。国土交通省によると、産学共同開発の市販車は国内 に例がなく、林教授は、地域の「ものづくり」に貢献することを志としており、 武岡社長は、「地域に貢献する大学が、富山にあり本当に感謝している」と談話 を寄せていました。これは1月1日付けの記事でした。


 そして同紙の3日付け朝刊は、魚津漁協が、地元魚津市などの水産加工業3社 と共同出資し、水産庁の補助を受けて水産加工施設を整備し、冨田さんの富山県 立大学の技術協力で、「富山湾の海洋深層水を活用した高度衛生施設」を1月中 に稼動させて、魚体を除菌し鮮度を保持した「魚津の魚」をブランド化し、関東 のエリアに流通させる、という。これも産学官連携での取組みは全国初らしい。 まあ、こんな具合に、全国初の事例が豊富で、もっとユニークな話題がわんさか あるようです。長くなるから、とりあえずここまで‥。


 富山は必ず行きます。今年の豪雪はさぞ、大変だったですね。本日も北陸路は 大雪のようで、まだまだこれからが本番でしょうから、十分に気をつけてくださ い。


 顔も名前も何も知らない、しかし、そんな人からのメールのやりとりでも案外、 心が通じ会うものです。これを電脳社会のひとつのコミュニケーションのあり方 かもしれません。「味気ないメール」(8日付の産経新聞の産経抄)と言って片付 けてほしくはないなあ〜。それにしてもなんとも不思議なこととなんでしょう。 こんなメールもありました。



【川村学園女子大学の先生から】


《竹端瞭一さん》【川村学園女子大学】


「はじめて おたより さしあげます。
 くちくかん『さかき』ほかの ちちゅうかいに おける ゆうかんな はたら きに くゎんして、たった いま まことにまじめな かたりくちの じゃうは うを はいけんしました。ありがたう ございます。
 1945ねん,せんさうが をはった とき,ボクは 10さいの せうこく みんでした。たいわんに すんで をりました。このやうな ひらがなぶんを  かいて をりますが、わたくしは ないちじん(にほん ほんどじん)です。せ んさうの あまりの くるしさ,ひさんさに,われわれは にほんの れきし  と せんさうの すべてを ひていするやうな きもちを いだいて くびを  すくめていきて まゐりました。
 やうやく ちかごろ れきしの ほんたうの すがたを みなほす かんがへ かたを する ひとが ふえて きました。ただ、すこし 勇み足にて、『新し い歴史教科書』はじめの はんに、まるで くちくかん「さかき」が ぎょらい の まへへ みづから とつにふしたか の やうに かいて ありました。
じじつは,『まつ』に のりくんで ゐた かたおか ちゅうじゃうの くゎい さうろくを みれば わかる とほりです。せうねんの わたくしが みて ゐ た ほんの 60ねん まへの ことどもすら、すっかり ちがった かたちで  つたへられる のですから、だい1じ せかい たいせんの ちちゅうかいは  あまりにも はるかな 「げんば」です。それでも、みなさまの やうに ニ ッポンに たいする あいじゃうと まごころを もって しんじつを おもと めに なる かたがたの いらっしゃる ことに かんどういたしました。


 すうねんまへ,マルタに ゆき,かいぐんの きねんひに おまゐりして き ました。英軍霊園の ちかくには はなやさん なんぞも ない ので,どうか  ヴァレッタや ヴィットリオーサで はなたばをよういなさる ことを おす すめ します。」(2月2日受信)。


 これは、なんと昨年2月に配信した「マルタの風」(VOL.116号)、「続マルタ: 駆逐艦『榊』の真実」(VOL.117号)と題した2回続きのDNDメルマガへの感想で した。全文ひらがなで、しかも熟達の旧仮名遣いに、うむ〜と唸ってしまいま した。調べると、日本語学の権威、竹端瞭一さんからでした。


 恐る恐る、緊張しながら次のような趣旨のメールを返しました。
「竹端瞭一先生 心温まる、誠意のメールを拝受しました。小生の拙文に過分の 評価を賜り、感激しております。マルタは遠く、地中海の果ての島国ですが、伝 統の騎士団の誉れが息づいていて、それでいて、心のやさしい親日的な人々に、 かつて食べ物を分け合って共に生きていた、これも遠い過去の日本の原風景を見 た思いでした。胸中故郷というのでしょうか。


 かつてここで日本海軍の無名の軍人さんが、人のために死すという誇り高い生 き様を貫き、そういう涙なくして語れない日本人の本当の姿を象徴する、そうい う史実のほとんどが歪曲され、そして封印されてしまったことは、不幸の極みと 断じざるをえない気持ちにさせられて、誤解を恐れながら一気に書き上げたもの でございます。(中略)厳寒のマルタは、波浪高く、身を切るような冷気が襲って いました。地中海の守り神とはいえ、旧日本海軍の先達の、覚悟の殉死に思わず、 涙してしまいました。この度は、本当に嬉しいメールでした。心から感謝申し上 げます。」(2月2日返信)。


 すると、今度は、竹端先生からのメールは以下の通りです。


「出口俊一様   あのやうに読み取りにくい(であらむ)お便りを差し上げましたのに、かく もお速いご返事を賜はるとは、思ひがけない喜びです。ありがたうございます。 70歳の中年教員は、川村学園女子大学ニッポン文化学科を定年で間もなく離れ る日々を送ってをります。
日本語学、日本語史、日本語教授法などを受け持ってをりましたから、できるだ け旧字体と歴史的仮名遣ひを示して見せてをりました。
 伊勢物語や土左日記なども若い人たちに連綿体でよむやうに指導しました。日 本語の歴史を学ぶには、歴史的仮名遣ひや旧字体の基礎知識がなければなりませ ん。ひらがなだけの文章では、ご迷惑をおかけしました。(中略)妻とおとづれた 折は、12月のクリスマス・イルミネーションの季節でしたが、暑いぐらゐのの どかな日和でした。偶然エレベーターとゴゾ島へわたる船のなかで、大統領夫人 と出会ったり、霊園の帰り道、これまた偶然ヴィットリオーサの街角でマルタ人 の知人と遭遇したり、お墓参りの霊験あらたかな思ひをいだきました。(中略)お たよりの感動して、Takeba  Ryooiti」(2月3日受信)。


 いやあ、なんとも読ませます。このようなメールをひとり占めしてはいけませ ん。竹端先生からは、本日のメルマガでの紹介の可否について問い合わせていま したら、つい先ほど、こんな返事が届きました。その一部〜。


 「メルマガに ごしょうかい くださるとの こと、わたくしの つまらぬ  発言の どの あたりか、しんぱいでは ありますが、光栄に ぞんじます。  (中略)毎日の じゅぎょう と きょうざいづくりに 追われて、また、それが  たのしくて、ついつい 『いっしょう』が すぎて しまいました(中略)古 典 や 漢文が すきなので、全面的 ローマ字化には 反対の ヘンな ロー マ字ろんしゃとして、いまでも 会員である Nippon-no-Ro^mazi-Sya の きか んしに 『にほんごの あゆみ』と いう よみものを 書いて おります。ガ ロンを よみとって いただけそうな 号を おおくり いたします。 Ro^maz iなので よみにくい こと うけあいですが、ごショーランあれ。第2公用語 としての ローマ字日本語を 利用しよう という かんがえです。
 ワープロ、パソコンの なかった 時代、帝國海軍や 乃木大将が 日本式 ローマ字に 関心を よせたのは、 西洋に まけない じょうほう でんたつ の てだてとして のうりつてきな にほんごを ひつようと かんがえたから です。パソコンの ある こんにちでも、この 漢字まじり文を まなびとるの には たいへんな てま と ひま と おかねが かかります。みじかい あ いだ たいざいする 外国人や きかいの あつかいを まなぶ けんしゅうせ い などの ための ぶんしょうを ローマ字に しては どうかと おもう  しだいです。
                                                        たけば りょういち 」
(2月8日受信)



  【役に立つ落語の著者から】


《山田敏之さん》【学校法人ソニー学園、湘北短期大学学長。「役に立つ落語」 (新潮社)の著者】DNDのメルマガを読んでいらっしゃれば、もうご存知と思いま す。今年の1月7日付けの朝日新聞にも山田さんの本が紹介されていて、このと ころ随分と売上を伸ばしているそうです。で、前説はこのくらいにしてさて本題 へ。「出口様 さすがですね、『大学発ベンチャーの傾向と対策、貴方ならどう する?』の語り口は。まくらでしっかりと聴衆の心をつかみ、自分の話に引き込 んでいくテクニックはまさに上手な落語家そのままです。やはり落語は役に立ち ますね。


 ちなみに私は、DNDの発足までは、日本工学アカデミーの立場とソニーの立 場の両面でかかわりましたが、できた後のユーザーとしては残念ながらあまり機 能しませんでした。『DNDの当初からのユーザー』とあったのでひとこと申し添 えます。ところでメルマガのタイトルもいいですね。なんだか演歌のイントロナ レーションみたいです。


 『哀愁の北陸路に降りしきる雪、また雪。雪のはだえを紅に染めて燃える女の 心を切々と歌い上げるのは、この春デビューしたばかりの新進演歌歌手、出口俊 一。《福井のひと》です』てな具合に。失礼!」(2月1日受信)。


 いやあ、洒脱というのでしょうか。落語に精通すると、ひとつの言葉からイ メージが膨らんで、こんな楽しいやり取りになるんですね。実は、その山田さん とは、メールの交換はすでに100通近くになるんですが、お会いしたのはたった 1回だけでした。それでもこんな明るいノリになってしまうから、不思議ですよ ね。その返信は、演歌歌手としてデビューした出口俊一になりきって〜。


 「では、唄います。福井の人。
♯♭燈る街の灯 ゆら〜り揺れ あなた恋しや旅の人
  夜が更ければ ふわ〜り揺れ あなた愛しい風の人
  あ〜あ、切ない福井のひと〜よ 二度と会えない、逢わない別れ
  抱いて抱かれる、夢追い人の  悲しい未練を許してください〜
  儚い想いを消してください〜 あ〜あ、切ない福井のひと〜よ
   ジャンジャン〜作詞:舟着亭両国、作曲:屋形亭小舟」(2月2日返信)


  ちょっと、遊んでしまいましたね。しかし、すると〜 「出口様 これはまたすごいですね。新進演歌歌手は作詞もされるのですね。 いつものメルマガの健筆ぶりを見ると、これくらいは朝飯前なのでしょう。私は もう夕食後ですが、ちょっと雪を降らせてみました。


 ♯♭まんじともえと 振りしく雪に 偲ぶおもかげ旅の人
   遠く霞むは 越前岬 夢の逢う瀬の風の人
   あ〜あ 哀しい福井のひと〜よ 雪は降る降る 涙は凍る
   冷えたからだに 恨みも凍る  消えぬ未練を許してください 
   見果てぬ夢をかなえてください あ〜あ、恋しい福井のひと〜よ
うふふ・・・なんだか変ですね。急ごしらえなので勘弁してください。いったい この福井のひとは男性なのでしょうか、女性なのでしょうか。(以下略)」(2月2日受信)。


 もうこれ以上の話しの続きは、お酒が入らないとなんだか収拾がつかないみた いで、3月のいい日に再会を約束いたしました。それにしても山田学長の演歌は、 五七五の哀調がジーンときて、なんだか胸が詰まってきそうです。



【NPO法人理事長からの感想】
 《池田庭子さん》【静岡で生涯学習の「たぬき村」を主宰し、NPO法人を運営 する理事長】
「身ともに寒いときは熱燗が一番と、先週、お酒を飲みながらメルマガを読んで いました。2月1のなが〜いメルマガは、ノッテイル出口さんがいて、どうにもと まらない。いやー、出口さんのノリに落語家もびっくりでしたね(以下略)」 (2月4日受信)。


 メールの文面から、そのいつもの元気な池田さんらしさが伝わってきましたが、 その添付のワード文章は、それとは裏腹に切ないほどの追悼文でした。 「たぬき村登り窯が出来て、楽しみというときにご指導・ご支援をいただいてき た先生が急逝されました。そのときの驚きを書きました」‐と添え書きがありま した。


 青島津一先生。常葉学園大学の陶芸の授業で、池田さんらに「しずはた焼」を 教えていました。「賤機焼(しずはた焼)」はかつて、徳川家康より徳川家の御 用窯として朱印地と賤機焼の称号を貰い、数百年にわたって栄えた歴史があり、 明治に入り静岡県の郷土産業として再興し、現在は4代目の青島津一氏が継承し ていた、という。


 昨年夏、池田さんのたぬき村に登り窯築き、今年から初窯の準備をしている最 中の逝去だったようです。その時のショックを綴っていました。その文章の一部 を紹介します。


 「(中略)12月25青島先生は一日中たぬき村で初窯の準備で600度まで上げ陶 芸登り窯の馴らし焼きをしました。この日は今までの寒気と違って暖かな日でし た。青島先生は半袖のTシャツ姿で薪焚きをし、昼はいつものようにお酒を飲ん で昼寝をし、夕方、先生、たぬき村で夕食ごいっしょに、とお勧めしますと、 『お酒を飲みたいからこのまま家に帰るよ。この次の馴らし焼きは2月4日(土) で1000度まで上げるから薪だけ用意しておいてくれ』といって帰られました。そ の10時間後に亡くなったとは、信じられません。絶句でした。訃報を聞いて駆け つけた先生のお顔は、赤くお酒を飲んだような色で肌が艶々で、『アーよく寝 た』と今にも目を開けそうな健康そうな色でした。これが亡くなったということ なの?先生!起きて!起きて!先生に今、お線香なんか立てたくないよ。私は叫 んでいました。(以下略)」。


 いろいろあるんですね。そんな折にメルマガの感想を送っていただき本当に申 し訳ない気持ちです。青島先生のご冥福を心からお祈りいたします。



【筑波学園都市の文化を語る〜花山さんからのメール】


 その他、勿論、題材の福井県、福井大学関係者から身に余る御礼のメールや次 回の打ち合わせ日程調整から福井大学VBLの新しい年報の原稿依頼までどっさり、 それにしてもみんな温かい。


 変った内容では、筑波出版会代表の花山亘さんから、もう20年数年前に発刊し ていた筑波研究学園都市情報誌『Open』((株)チーム刊)で、『銀河系最後 の都市筑波都市文化を語る。川喜田二郎 青木彰 村松剛』を特集し、その中で、 前回のメルマガの後半の余談で取り上げた読売新聞の名物記者、高木健夫さんの ことについて触れている箇所を書き写し、メールで送ってくれていました。


 川喜田さんは文化人類学者、村松剛さんは小林秀雄論や三島由紀夫論で知られ る文芸評論家、そして青木彰さんは元産経新聞社取締役編集局長で筑波大学の学 生にマスコミ人養成の私塾「青木塾」を開いて多くのマスコミ人を輩出している ことは、何回かメルマガで取り上げました。著名なこの3人は当時、いずれも筑 波大学教授という縁で、雑誌での座談となったようです。


 そこに筑波大学の夜明け前夜の様子が詳細に語られているので、今となっては 貴重な証言集です。その雑誌の新春座談の一部です。


青木;(中略)こないだ、ちっと読んでいましたらね、読売に高木健夫さんと言 うのがいたでしょ。彼が、昭和のまさに初期に、彼は、国民新聞に入りましたね、 土浦通信部にまず配属されたんですね。


村松;国民新聞て、徳富蘇峰の?


青木;で、その彼がね、土浦通信部に来て、彼の仕事っていうのが何だったかっ ていうとね、当時、土浦に航空隊というのができたんですね。で、山本五十六が、 航空隊の司令で、そこで月月火水の、猛特訓をやって、彼が行った時は、山本さ んが他に移られた後だったらしいんですけれども、その猛特訓だけが残ってて、 当然、猛特訓ですからね、飛行機おっこちますわ、殉職者が出ますわ。と、土浦 通信部の仕事ってのはね、要するに、今日も飛行機が落ちましたと、誰と誰々が 死にましたと、そういう記事を送るのが、土浦通信部の仕事だったわけですよ。 で、彼は、それが、イヤでたまんなくて、で、なんとかその、彼は、北京に行き たかった。それで、時事新報かなんかに替わりたいということだったらしいです けども、ま、結局かわらないで、東京へ帰って、それから、読売に入ったんです けどね。その時に、彼が書いていた、要するに土浦という地域のね、当時の、や っぱりまさに昭和の初期の、日本の、なんといいますか、エネルギーってのは、 その、毎日の航空事故に象徴されるような、何かがあったわけですね。今日筑波 を含めての、じゃマスメディアの関心てのは、何かと言うと、学生が騒いだとか、 不正投票があったとかいう程度の、まさにその、社会的な事象、低次元の社会的 な事象でしかない。ここから本来、何かやっぱり、全国ニュースとして広がって いくようなものがなきゃいけないと思うんですよね。まさにここに、学園都市と いうものができた以上は、やっぱり、全日本にくまなく伝えられるような何かが、 本当になければならないという感じがしますけどね(以下略)」。


 さっそく、それの記事を金沢市に住む前読売新聞記者、小塩偵さんに転送する と、「早いね、凄いね、嬉しいね。その編集者の人に会いたいな〜」とのメール を返してくれていました。駆け出し当時の高木さんの様子を思い起こさせる唯一 の記述でした。高木健夫さんの、戦争を極度に忌み嫌う思潮の一端を垣間見る思 いです。


 暗く重い歴史を引きずる戦前、マスコミ業界の末席を汚す元記者の立場からす れば、戦時下最大の言論弾圧事件「横浜事件」の再審判決が9日、午後1時から横 浜地裁で言い渡されます。60年前のレッドパージ、拷問につぐ拷問を受けて獄中 死した、数多くの無実の編集者、あるいは教育者や思想家らを弔うのは、一体誰 なんでしょうか。この一連の記事をフォローしてきたのは、朝日新聞でした。ず っと新聞の切り抜きしてきましたが、その最終章がいよいよ明日に迫ってきて、 どうにも心臓の高鳴りが押さえ切れません。


 ひとつのメルマガが波紋を呼んで連鎖し、遠く人の心の奥まで伝播していく〜 今回は、そんなDNDメルマガの最新事情をお伝えしました。皆様のご感想やご意 見をお待ちしています。




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