◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2005/09/14 http://dndi.jp/

風に吹かれて

DND事務局の出口です。人間らしく扱われるためには、どれだけの道を歩けば いいのだろう、砂の上で鳩がゆっくり眠るためには、どれだけ海を越えればいい のだろう、その答えは、やっぱり、風の中に、風に吹かれて舞っている‥その悲 しげな問いの言葉や、それへの漠とした答えが、時代の共感を広げたのでしょう か。


 「風に吹かれて」(Blowin’in the wind)は、その曲を歌うシンガー・ソン グライターの名前と共に、その時代を席巻していました。「勝利を我等に」(We shall overcome)と重なって、反戦運動に走った団塊の世代を象徴するような歌でした。みんな知っていて、みんなで声を上げていました。やや遅れの僕らの世代でも歌ったことがない人を捜すのは、難しい。改めて、その歌詞を翻訳してみると、どこかもどかしいく、違和感がありますね。


 新聞の書評欄をめくっていると、まず目に飛び込んできたのが、青木昌彦・米スタンフォード大学名誉教授の名前でした。その文字に魔法のような特別の力があるらしく、凛とした表情と細い体をやや丸めて歩く独特のスタイルが、ほうふつとしてきました。


  追憶の人、ボブ・ディラン再び。その[評者]としての青木先生が選んだ本が、なんと「ボブ・ディラン自伝」(ソフトバンクパブリッシング)でした。生ギター1本引っさげて登場した伝説の人、ボブ・ディランが自ら書き下ろした回顧録の翻訳本でした。訳者はディラン研究の第一人者の菅野ヘッケルさん。


 どうして青木先生が、ボブ・ディランなのか。一見、唐突な感じがしますが、 いやはや、青木先生でなければならない理由が、読み進めると、少しは、掴み取 れそうです。さっそく、書店で買い求め、中古ショップを回ってはCDを5枚入手 しました。書棚からは、随分昔に購入し、すでに赤茶けた「ボブ・ディラン」 (池央耿訳、角川文庫)を引っ張り出して読み比べて見るほどの力の入りようでし た。いやあ、これまで僕が抱いていたボブ・ディラン像とは、かなり違っていま した。


 365ページに及ぶ、ボブ・ディランのその半生は、まるで映画を観るようで 劇的なストーリーに仕上がっていました。60年代初頭のデビュー前夜のアメリ カの混沌とした状況を背景に、ボブ・ディランがミネソタからグリニッチビレッ ジへと流れていく、新人スカウトとの出会い、大手レコード会社との契約、そこ へ続くスター誕生の秘話、親身になってアドバイスしてくれる圧倒的に多くの人 との運命的な出会い、それらの場面での心情が赤裸々に綴られていました。


 当時の雑誌、ニュース、ラジオをひんぱんに露出させて、あるいは、見たまん まのボブ・ディランの視覚を通じて、そして流行の歌や、世相、事件、政治など の側面からも、セピア色に煙った近代アメリカの実像をくっきり浮かび上がらせ ていました。古い世界が後退し、新しい世界が始まりかけていた時代だったよう です。


 いやぁ〜ともかく、読ませます。これは、回顧録としては出色ですね。全3巻 のうち今回は、「自伝1」。すでに全米で50万部突破というから、もう火がつ いた感じです。第2巻の発売が心待ち状態です。


 ディランと言えば、日本では団塊の世代には、「風に吹かれて」、「時代は変 わる」に代表されるプロテストソングのシンガー・ソングライターとして記憶さ れ、その後の世代にとっては、「オー・マーシー」や「ラブ・アンド・セフト」 などの玄人好みのアルバムを時折作る孤高なミュージシャンというところだろう か。だが、アメリカでは、音楽界はともかく、アカデミアやメディアの世界でも、 20世紀後半における詩人の最高峰(の一人)に位置づける人が少なくない‐と 青木さんは、その新聞書評(朝日新聞)で紹介していました。


 新鮮な言葉と音によってベトナム戦争の時代を揺さぶるが、反戦運動のシンボ ルとなることを拒んだのは、「そうした一時の出来事を越えていたものが見えて いた彼には場違いだったのだろう」との解釈は、先生らしい。


 自伝の本文からいくつか、印象深い一節を拾い上げてみると‐『アメリカじゅ うを猛烈な怒りがおおい、大学生が駐車中の車を破壊し、窓を割っていた。ヴェ トナム戦争が国を深い憂鬱に陥れていた。(中略)新たな世界観が社会を変化さ せ、何もかもが猛烈なスピードで動いていた―ストロボ、ブラックライト、幻覚 体験、未来からの波。学生は大学の管理権を獲得しようとし、反戦活動家は強硬 論を戦わせた。マスコミは、火種をつくって興奮を煽り立ててばかりいた。その ころのニュースを読めば、アメリカ全体が炎に包まれていたと思うにちがいな い』


 と、その指摘の通り、マスコミへの批判を加え、自身に向けられた、風聞や風 評に怒りを露わにしていました。例えば、こんな記述もありました。


 『私には、世界の何ものより愛している妻と子がいる。彼らの生活を支え、危 険から守ろうとしているだけなのに、うるさいマスコミが世代の代弁者だ、世代 の良心だのと触れ回る。おかしいではないか。率直に新しい現実を歌にして表現 しただけなのに。故郷を出て10年しかたっていない私は、だれかの考えを声高 く叫んだりはしていなかった』と。


 しかし、これは、ボブ・ディランの口から初めて語られた真実のようですから、 当時の世評と現実の彼との認識のズレは、相当の開きがあり、そこに苦悩し続け たことなども詳しく綴られていました。思い出せば、ボブ・ディランは反戦の闘 士だったと勝手に思い込んでいましたし、それを疑う余地はありませんでした。


 棚からひっぱり出した、角川文庫のもうひとつの「ボブ・ディラン」には、 『彼は、もはやビレッジだけの人間ではなかった。彼は、アメリカの音楽的良心 であった。彼は、北部の公民権運動における最も偉大な自由の歌「風に吹かれ て」の作者だった。彼は「はげしい雨が降る」によって、核爆弾禁止運動の急先 鋒に立ち、「戦争の親玉」によって平和運動の主役となった。かつての風来坊 (ボブ・ディラン)は虐げられた者たちの擁護者となり、不正に対する闘士、体 制に対する挑戦者となっていた‥』と、ボブ・ディランの胸の内とは裏腹の事が 書かれていました。当時は、みんなそんな認識だったかもしれません。


 知人の家で読み漁った「君主論」、「社会契約論」などの古典から哲学、自伝、 文学の数々、アメリカを代表する桂冠詩人のマクリーシュ、草原と都市の詩人で あるカール・サンドバーグ、暗い瞑想の詩人のロバート・フロストなどの詩の遍 歴、芸術映画専門館では、フランス、イタリア、ドイツ映画が上映されていて、 イタリアのフェリーニの映画「道」、「甘い生活」の2本を真剣に見たと述懐し ていました。憧れのシンガー、ウディ・ガスリーの幻のレコードを聞きに、知人、 友人の家々を回っていました。いやあ、ネットでダウンロードが手軽な今日の音 楽配信事情からすれば隔世の感があります。ボブ・ディランの名前の由来にも触 れていました。


 個人的に興味を引いたのが、彼の原点となるニューオーリンズへのこだわり、 その地に抱く望郷のスケッチの数々でした。が、それも「カトリーナ」の猛威で 無残にも水没したままの状況に思いを寄せながら読むと、なんとも涙が止まりま せん。


 『昔の魔法が消えてしまっているほかの多くの街とは違って、ニューオーリン ズにはまだ、たくさんの魔法がある。夜は人をおおいつくし、しかも悲しませる ことがない。どの角にも、新しくてすばらしいももの可能性があり、すでにそれ が進行中だ。全てのドアの奥にみだらな歓喜があるが、両手で頭を抱えて泣く人 がいる。夢のような空気のなかからゆったりとしたリズムが立ち上がる。(中 略)いつもだれかが力尽きて倒れていく。だれもが古風な南部の一族の出である か、外国人であるように思える。私はこの街のそういうところが好きだった』


 『ここ(ニューオーリンズ)では、どんな行動でも不適切にみえない。街自体 が、一篇の長大な詩なのだ。パンジー、ピンクのペチュニア、麻酔薬でいっぱい の庭。花を飾り立てた霊廟、白いギンバイカ、ブーゲンビリア、紫の夾竹桃が感 覚に働きかけ、穏やかで澄み切った気持ちにさせる。ニューオーリンズのあらゆ るものが素晴らしい。安っぽく飾り立てた聖堂風のコテージと荘厳な大聖堂が肩 を並べる。一戸建ての家と大邸宅、優雅な建造物。雨の中で長く連なるイタリア 様式、ゴシック様式、ロマネスク様式、ギリシャ復興様式。カトリック教会の美 術。大きく張り出したポーチ、小塔、鋳鉄製のバルコニー、三十フィートの大柱 が並ぶ華麗な柱廊、二方に傾斜した屋根―世界中から建築物が集められ、ここに とどめられている。おまけに公開処刑が行われた広場もある』


 『悪魔も嘆く街。ニューオーリンズ。このうえなくすばらしい旧弊な街。別人 になって暮らすにうってつけの場所。ここでは、差し出されたものを飲めば、そ れでいい。親しい相手をつくるにも、なにもせずにいるにも、うってつけの場所。 賢くなることを願ってやってくる場所―とにかく私はそう思っていた』


 ボブ・ディラン自身が語るニューオーリンズ賛歌は、まだまだ、続いていまし た。彼が、記憶の全てを引っ張り出して、綴るニューオーリンズの一端を知れば 知るほど、どんどん悲しくなって、胸が締め付けられる思いです。


 好きな曲は、「風に吹かれて」です。生ギターからエレキに変えて 、歌い方 も渋く、絞り出すような癖のある訛りがより強烈で、粗野な感じがして、戸惑っ てしまった時期がありました。同じ曲、同じシンガーとは思えませんでした。し かし、その自伝読んで、その長年の疑問というか、シコリが解けたような気がし ました。


 スランプに陥ったボブ・ディランがリハーサル会場を抜けでて入った小さな バーの壇上で、年輩の男がジャズバラッドをやっていて、その歌を聴いた時でし た。彼に閃きが突き抜けたようです。


 「迫力はなかったが、リラックスしてのんびりと、しかし、生まれつき賦与さ れた自然な力を込めて歌っていた。このシンガーが私の魂に向かって、心の窓を 開いて見せたように思った」と書いていました。


 青木先生が選んで評した、ボブ・ディラン自伝。書評には詳しくは書かれてい ませんでしたが、その世代でしか分かり得ない、いやあ、青木先生ならではの時 代への共感、それとやがて訪れる時代の予感、そんな秘めた共通の価値観が書評 の底流に流れているような気がしてきます。見出しには、「時代を貫いて求めた 詩と音楽と真実」とありました。青木先生に、その「真実」2文字が重なってく るのでしょうか。


 実は、青木先生が所長を務めておられた(独)経済産業研究所時代の後半の2 年間、縁あって研究所に在籍していました。とはいえ、研究員ではありませんで したから、残念ながら先生に直接、指導を受けるチャンスは巡ってきません。し かし、同じフロアーでしたから、先生、それに研究員ら門下が醸し出すアカデミ ックな空気は、あちこちに充満していました。


 いつも、青木先生の周辺は、知的で有能な国際派の学者らが慕うように取り巻 いて、笑い声が弾んで、自由の風が吹いているようでした。専門を極める女性の 学者も多く、こんな世界があることに驚き、なんとも羨ましさを感じていました。 何かの懇談の席で、青木先生は、何かのテーマや課題について、意見や考えを表 明する時は「帰属組織や立場にこだわらない、闊達で自由な自身の信念に基づい てください」という趣旨の発言を繰り返していました。


 穏やかで、心地よい研究環境に配慮されながらも、確かな研究姿勢を心がけて いるようでした。ノーベル経済学賞に一番近い日本人との評判通り、「学問」へ の妥協は許さなかったかもしれません。産学連携の場面では、早くから大学の役 割はあくまで教育と研究にあるとし、社会のイノベーション創造の遅れが大学、 あるいは研究者の責任という一方的な指摘には、強く反論していたと、記憶して います。どんな場面でも、青木先生らしさを貫いていたように見えました。


 研究所の運営をめぐって、ちょっとした行き違いから、逆風が吹き荒れた時に は、枯葉が舞うように、あっけなくその責任を取って辞職されました。なぜ?っ て、みんな思いましたが、それに対する釈明はされないまま、静かに研究所を後 にしていました。



記憶を記録に!DNDメディア塾
http://dndi.jp/media/index.html

このコラムへのご意見や、感想は以下のメールアドレスまでご連絡をお願いします。
DND(デジタルニューディール事務局)メルマガ担当 dndmail@dndi.jp