DND事務局の出口です。どこまでも限りなく続く石段は、天空への道のよう で、緑の丘から澄んだ青空に向かってゆるやかに伸び、それはやがて果てしない 未来へと繋がっているようにも見えます。
広大な札幌市の近郊に、この夏完成した「モエレ沼公園」、そのシンボル的なピラミッド風のプレイマウンテンは、写真で見ていても胸がすくような眺望が広がり、ひと際、異彩を放っていました。
俯瞰すれば、ナスカの地上絵。公園には違いないが、パブリックアートでもあり、広大な庭園でもあり、周辺に住宅や商業施設があれば、夢のような都市設計のモデルのようにも思えてきます。設計は、世界的な彫刻家、イサム・ノグチ氏、監修は、イサム・ノグチ財団、ジョージ・サダオ氏、そして設計総括には、建築家集団のアーキテクトファイブが関わっていました。
世代を超え、人種を越え、そして対立を超えて、誰もが自由に遊びを見つけられる環境芸術をモチーフにしたノグチ氏のアーティストとしての真髄が十分に発揮されているようです。それは、彼の最後の作品であり、84年の生涯の集大成とも評されています。落成式の行われた7月には、予想をはるかに超える15万人以上の人が全国各地から訪れ、ノグチ氏のスケールの大きい偉業に絶賛の声を上げていたようです。
ノグチ氏デザインの遊具を配置したサクラの森、約90基のカラフルな遊具に3000本のサクラ。景観の美しさに加えて冬には寒さをしのぐ暖かい施設となるガラスのピラミッドは、別名、HIDAMARI。周辺の平坦地に巨大な傾斜地を造成したモエレ山は、冬季は地元ちびっ子らのスキー場に。水遊び用のモエレビーチは、浜辺に似せて珊瑚で舗装。そして、完成したばかりの海の噴水は、高さ25メートルにも水を噴き上げる、という。スポーツ施設は、15面のテニスコート(1時間640円)、レンタサイクル、野球場、陸上競技場、野外ステージなど、各施設や機能の充実ぶりは、ほんと、凄いらしい。総工費250億円。
「モエレ」は、フランス語の響きですが、それはアイヌ語で「ゆったりと流れる」意味だという。札幌市内を流れる豊平川の河跡湖が、お堀のようになって周辺をぐるりと囲む、その特異な景観は、実は270万トンもの廃棄物で埋められた総面積約190ヘクタールに及ぶ処分場でした。そこを札幌市が「環状夢のグリーンベルト」構想に伴う公園整備と、雨水貯留の治水事業のふたつの目的を持って周辺の整備が実施されていました。
さ〜て、この続き、どこから書こうか、と迷ってしまいます、ってパソコンで打っていましたら、札幌市役所に勤務する、小生の竹馬の友、三浦龍一さん、いや、龍ちゃんからメールが入り、「モエレ沼公園関連年表」が添付されていました。「モエレ沼公園」の経過の概要が知りたい、と龍ちゃんに連絡していたからですが、ずっと抱いていた疑問は、なぜ、イサム・ノグチだったのか、彼と「モエレ沼公園」の接点は、どこにあったのか、そして、その答えを導くには、あまりに運命的ないくつかの偶然を解き明かさなければならないようです。
イサム・ノグチに関する書籍や資料を調べていて、最も受けた衝撃は、「モエレ沼公園」のマスタープランや模型が完成したばかりの1ケ月の後に、ノグチ氏が死去していたことでした。1988年12月30日、入院中のニューヨークの病院で肺炎から心臓発作を併発、死因は心不全でした。
それから17年の歳月が流れています。いつ計画が破綻しても不思議はないのに、粛々と事が進んで行ったように見受けられました。
ノグチ氏が初めて札幌を訪れたのは、1988年3月29日、雨まじりの寒い日でした。現在「モエレ沼公園」の園長で、当時、札幌市の造園課環状緑地係長で担当の山本仁さんは、ノグチ氏に同行して案内役を務めていました。ノグチ氏に提案をしてもらう予定の候補地を3箇所用意し、モエレ沼は本命から外れた、いわば第3の候補でした。しかし、モエレの現地に足を踏み入れると、「ここは僕の仕事です」と、不確かな日本語ながら、はっきりとそう言い放ったという。
どうも北海道は、ノグチ氏にとって、胸中故郷と言っていいほどの思慕さえ抱いていた節があります。山本さんによれば、彼が14歳の時に横浜から単身渡米した先の、インディアナ州北部の風景とよく似ていたらしく、気候も自然も、それに他の地域から移住してきた北海道の人たちの率直な物言いが、フロンティア精神とあわせて、アメリカの国民性に似ていたのではないか?と推測していました。
やはり同行者に設計総括を担う、アーキテクトファイブの共同主宰の一人で建築家の川村純一さんは、ノグチ氏は現場に立った瞬間、「私が仕事をすべき場所だ」と言ったという。表現は、微妙に違いますが、それほどノグチ氏がそこを気に入ったに違いない。川村さんによると、現場を歩き回るノグチの頭の中で瞬く間に壮大なプランが出来上がっていきました、と過日のNHK教育テレビ番組で語っていました。
このアーキテクトファイブ、実は、ここが「モエレ沼公園」とイサム・ノグチをつなぐ最初の窓口の役割を果たしていました。まあ、それからずっと設計統括という責任ある立場で、ノグチ氏の描いた設計に基づいたプランを忠実にしかも、それ以上にプランでは描ききれていない微細なところまでを、まるでノグチ氏が指揮したかのように丁寧に具現化した功績と、その完成度の高い洗練された仕事ぶりは、お見事の一言です。
流石、世界的な建築家、丹下健三門下です。アーキテクトファイブは、4人の建築家の集まりで旗揚げし、いずれも丹下健三都市建築設計研究所で、東京都の新都杜庁、パリ市のイタリー広場の第7芸術センターなど国内外の大きなプロジェクトを手がけていた実力派の建築家ぞろいです。松岡拓公雄さん、堀越英嗣さん、そして年長の城戸崎博孝さん。城戸崎さんは、丹下研究所の副社長でしたから、当時、シンガポールのOUBセンターやナイアン工科大学などの案件の責任者で、私も個人的にお付き合いさせていただいていました。ちょっと、披れきすると、城戸崎さんの自宅は、現在世界的に活躍する建築家、安藤忠雄さんの設計 でした。
丹下事務所、いわば、丹下氏とノグチ氏は、旧知の仲、建築家と彫刻家としてお互い一緒にパートナーを組んでいたようです。有名なのは、いまも祈りが絶えない広島の原爆ドーム周辺の「広島ピースセンター」の復興整備です。
1952年、丹下氏の設計で進められることになりますが、丹下氏の希望でノグチ氏に平和記念公園の脇に掛かる、ふたつの橋のデザインと原爆慰霊碑を依頼していました。しかし、ノグチ氏は、ご存知の通り、父は詩人の野口米次郎、母は作家、レオニー・ギルモアの日系アメリカ人としてロサンゼルスで生まれていた事情から、丹下氏の恩師、東大教授の岸田日出刀氏から丹下氏は「原爆を落としたのはアメリカだ。ノグチはアメリカ人であることを忘れないでほしい」と強く迫られた‐という。橋は、完成をみましたが、ノグチ氏の原爆慰霊碑は、そのため拒絶されてしまいました。丹下氏は生前、「建築家がすることと、彫刻家ができることを分けて考えなくてはいけない」と話していました。
ちょっと横道にそれましたが、さて、ここで、とんでもないところに行き着きました。「モエレ沼公園」とノグチ氏を結ぶ、もうひとつの接点は、大学発ベンチャーといったら、やはりこれも驚きでしょうか。1977年10月、ソフトウエアハウスBUGは、北海道大学大学院工学研究科在学の4人の学生が設立し、3年後の1980年に株式会社ビー・ユー・ジー設立へと発展させていました。現在は、資本金3億6500万円、売上16億1000万円(2004年9月期)、従業員100人と飛躍と遂げています。
で、代表取締役社長の服部裕之さんが、若い時から凄い動きを見せていました。1985年秋、まだ会社設立間もない時期に、大胆にも自社ビルの建設を計画し、その設計の依頼先が、実はやはり旗揚げしたばかりのアーキテクトファイブでした。両者の会社の同級生つながりが縁だったようです。
服部さんは、アーキテクトファイブの紹介で1987年11月、香川県・牟礼にあるノグチ氏のアトリエで開かれるノグチ氏の誕生日会に行って、ノグチ氏に初めて面会することになりますが、気に入られたようで、招かれてその翌1988年の新年1月6日にニューヨークにあるプライベートなノグチ氏の美術館、イサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアムで再会していました。
そこで見せられたのがベネチアの公園にも置いてあるという、石の滑り台でした。「札幌にもこんな滑り台が欲しいですね」と尋ねてみると、「場所によってはいいよ」と思いも寄らぬ快諾をいただいたそうです。ここからだったようです。すべては‥。
服部さん、札幌市役所の工業課の知人に、その場から国際電話をかけて詳細 を説明し、市側の対応を依頼していました。話はとんとん拍子に進み、当時の桂信雄助役(後の市長)にまで話が入り、1月30日には、ノグチ氏の札幌市の事業への協力可能なプロジェクトの検討に入っていました。早いなあ〜。そして、候補地を選するなど、ノグチ氏の受け入れ体勢を整えていました。
3月29日の最初の訪問では、当時の板垣武四市長への表敬、翌30日にモエレ沼公園視察―という具合に発展したそうです。5月には2度目の来札で模型を提示、説明を加えていました。その際、モエレ沼公園にかかる、送電線の撤去を条件として提示した、という。
6月には、記者会見して発表していました。送電線の問題は、北海道電力らが解決に動いていました。基本設計の委託業務契約の締結は7月6日でした。ノグチ氏への契約金額は3000万円だったそうです。そして、84歳の誕生日を迎えた1988年11月17日には、香川県の牟礼での誕生日会、その席上、モレ沼公園の2000分の1の模型とマスタープランの完成が確認され、笑顔のノグチ氏が多くの人の輪の中にありました。しかし、まさかその年の暮れに‥。
その年の7月には、札幌市でイサム・ノグチ氏の偲ぶ会が開催されていましたし、アーキテクトファイブが札幌市とモエレ沼公園の実施設計業務契約を結び、ノグチ氏の遺志を継ぐことになっていました。まあ、服部さんの「札幌にも欲しい」という一言が、こんなドラマを生むことになったわけです。
付け加えると、原点は、1976年の北海道大学のマイコン研究会にまでさかのぼっていきます。サッポロバレーの生みの親、北海道大学工学研究科教授で、青木研究室の青木由直さんから端を発していました。BUGの服部さんらにとって青木さんは、マイコン研究会の師匠だったようです。その青木さんが1981年、札幌商工会議所が公募した「北海道経済自立論文」に応募し、最優秀作に選ばれました。「高い技術力を持った情報産業企業群を興すため、人材確保や技術移転を可能にする産・学・官の協力が不可欠である」と主張していたようです。産学官連携の先駆けですね。その青木提言が、今日の札幌テクノパーク構想の青写真となったわけです。
その弟子の服部さん、彼らの自社ビルは、アーキテクトファイブの設計でその札幌テクノパーク内に設立していました。連環です。みんなつながっています。この建物内には、ノグチ氏から贈られた、茶室のつくばい(手水鉢)の形をした石の彫刻が置かれ、いまでも石の中心から水が湧き出て、心地よい音を響かせている、という。ノグチ氏は、このつくばいの製作にあたってギリシャのデルフィ遺跡のアポロン神殿の「地球のヘソ」を表すオンファロスという石組みに触発されて創作したらしい。最高裁の中庭にあるノグチ作のつくばいと同じなのかもしれません。
ニッポンとアメリカ。人と人の融和を人一倍強く願い、二つの祖国を背負って生きたノグチ氏。平和を願うモニュメントでも、人々の集う遊びの場でも、常に求め続けたのは、対立を超えた融和でした‐というのは、NHK教育の「新日曜美術館」、そのシリーズ戦後60年の特集番組「イサム・ノグチ。幻の原爆慰霊碑」でした。
番組のレギュラー司会者でNHKの看板アナ、山根甚代さんのそのナレーションの場面では、画面に写真家、三木淳氏の撮影によるノグチ氏の晩年の横顔が大写しになっていました。彫刻のように幾本も刻み込まれた皺が、なんとも淋しげ気な憂いを漂わせていました。人の心を射抜くような切れ長の眼は、ずっと遠くを見ているようです。
「最終的には世界の融和にたどりつくわけですが、やはり戦争の体験があったからでしょうかね」。山根さんの静かな語り口に呼応して、「イサム・ノグチ、宿命の越境者」(講談社)の著者で、ゲスト出演していたノンフィクション作家、ドウス昌代さんが「20世紀を具現した人生でした。20世紀の日米関係、そのものはノグチさんの人生、生き方に反映していて、その時は、打ちのめされても非常に肯定的に、そこからいつも立ち上がって、進んでいって‥で、その、われわれの人類の前進に不可欠なのは、異文化の融合であるという、そのうたい文句を全うしたのだと思います」とノグチ氏の人生に深い理解を寄せていました。
番組のナレーションが続きます。「ノグチの死後17年、今年7月1日ようやくモエレ沼公園が完成しました。彼の思いが後を継ぐ人々の手によって実現したのです。広さ190ヘクタールの公園全体をノグチがデザインしました。高さ50メートルのモエレ山。石を彫刻したノグチが、石がつながる大地そのものを彫刻しています。実はノグチは公園の中に50年前から構想していたあるアイディアを実現させています。それはニューヨークのセントラルパークに作ろうとしていた遊び山、プレイマウンテンです。人々の生活を豊かにしたいと考案したもの の、当時はまったくかえりみられることはありませんでした。」
ノグチ氏は、この慰霊碑を平和のモニュメントとしてワシントンやニューヨークでも建設しようとしましたが、実現はしませんでした。拒否された大きな理由は、ノグチが真珠湾を攻撃した日本人であることでした。広島ではアメリカ人だからと拒否された原爆慰霊碑。それは20世紀、日米の歴史に翻弄されたノグチの宿命の象徴でした。が、私の創作に対する情熱の根底にあるものは、役に立つということだと思います、とのメッセージは、なによりも力強い。
まもなく戦後60年、胸の内に仕舞い込んだままの、多くの人の苦衷の叫びが、ノグチ氏の遺作となった渾身の平和のモニュメントの完成で、ほんの少しでも癒
されることを祈りたい。