DND事務局の出口です。初夏、まぶしいほどの光が差し込んできます。衣替え、 そして人事異動‥新聞に載る、各新聞社やテレビ局の人事は、ページを開いて2 面の右中央に掲載されます。どこの新聞社がどんな人事を発令したか、その内示 情報はそこを見ていれば、見落とすことはありません。
眺めていると、いやはや、ちょっと複雑な気分にさせられてしまいます。掲載 されるポストは、局長以上の場合が多いから、それは昇進人事であり、社内での いわば、勝ち組と見るのが、ほぼ正しい。
その人事情報の一覧に、かつての同僚や他社で同じ入社時期のライバル記者ら が、ようやく局長ポストを得て、出世の舞台に踊り出てきたようです。喜ばしい 限りですが、祝電のひとつでも届けなければならない、と思いつつも、そのポス トに不安がよぎって、是非、そこでなんとか踏ん張って欲しい、と願わずにはい られません。
同期入社ながら年輩で兄貴分のM氏は、関連媒体の営業局長に昇進です。が、 かつて社会部記者として、数々の特ダネをモノにしてきた敏腕記者が、ついに編 集部門から姿を消してしまいました。
また、同窓で新聞協会賞受賞のライバル記者は、販売局に管理職として身を転 じ、いまは嬉々として社会部以上の活躍をしている、と聞いています。警察庁へ の人脈を持つ、某紙の社会部長は事業局長に昇進し、水を得た魚のように全国を 飛び回っているようです。
編集現場で築いた経験や人脈、それらのネットワークを引きずりながら、社運 を背負って、今度は、新聞経営の根幹となる広告の営業、イベント・協賛の事業、 そして部数拡張の販売などの収益部門への転進となります。その現場で問われる のは、不偏不党の論理でも弱者への視点でもなく、ごく一般の会社で行われてい る予算達成−という数字のハードルです。有能で見識高いベテラン記者らが取材 現場を離れ、経営部門のラインに次々と吸い込まれていく現実をどのように理解 すればいいのでしょう。
振り返ると、私の場合も編集部門でのスタートながら、中堅の40歳を境に営 業や販売の部長を経験しました。社の戦略部門の総合企画室時代は、電子新聞研 究会を立ち上げてインターネット事業への専門組織を提案し開設、やがて電子メ ディア専門の局へと拡大し、今日の新聞社のネットビジネスの一翼を担ってくれ ています。また、フリーペーパーの創刊を提案し、毎月1500万円を超える広告や 協賛金のお願いに走り、堂々部数50万部、創刊から2年間の新規ビジネスのテ イクオフを仕切りました。
やれば、素人なりに意外とできてしまいます、というのは、大いなる勘違いで した。やはり悩みましたね。編集、とりわけ新聞記者という職業へのこだわり、 志を持って新聞社に入社した経緯からすれば、営業部門への関わりは、なんとか 避けたい、というのが正直なところでした。
苦痛だったのは案外、逆に営業にこられる相手の方だったかもしれません。最 初の行き先は、記者時代の知人が多く「いやぁ〜デグチさんじゃ、嫌とは言えな いでしょう」と苦笑いの連続で、困り果てた様子もないわけではない。
そんな空気は伝わります。そこを察して「無理しなくてもいいですよ、他をあ たりますから‥」とさり気なく言ったつもりが、嫌味に聞こえるらしく、「いや あ、そんな‥なんとかします」と言って予算をとってくれていました。
入社以来ずっと営業現場のプロに言わせると、そりゃ、1回や2回はご祝儀で すから、お付き合いしますが、それが継続するかといったら、そんなやさしいも のではない、とズバリ、本音で切り込んできました。
確かに、その通りで、新聞記者時代は、民間の企業の相手は、なんでもありの 広報部(室)、なんとか自社の記事を良く書いてもらいたいから、相手は腰が低い。 が、営業部門となれば、行く先は予算を握る強面の宣伝部、こっちは結構、渋い 部署ですし、事前にアポなしでは、時間をとってくれません。ある業界トップの 飲料メーカーの会社、その広報とは馴染みでしたから部下を4人引き連れて、時 間通りに伺うと、30分待たされた挙句、応対にでた相手は20代後半で、名前 が同じ「俊一」さん、これはラッキーと小躍りしていたら、表情が硬くわずか数 分で席を立ち、「あとでFAXしてください」と言い残して、さっと振り向きもせ ず、消えていきましたね。あれっ!という肩透かしを食らわされた感じでした。
どういうわけ?と、その失礼なあしらいに腹を立てたら「出口さん、我々、営 業はこういうのが日常です。会ってもらっただけでもいいじゃないですか、怒る ような話しじゃないですよ、帰ってFAXすればいいんです」という、その部下の 説明に、返す言葉がありませんでした。
大いなる誤算は、ズサンな請求業務と入金確認。電通にいた大学の先輩Mさん からの一言、「記者のように、記事をその日に書けば、それで終わるということ ではない。営業は、集金して初めて、完結する。そこを忘れるな」−というのは 至言、その教えは大変役にたっています。
もっと腰を低くしないと営業にはならないーという営業部門の先輩からのアド バイスで、両手揃えて屈伸するように礼を取ると、先方が目を丸くして立ち上が り、慌てて制止していました。思えば、数字は上がりましたが、この大きい顔で、 記者風をいっぱい吹かし、傲慢で失礼な営業だったようです。
ロスの特派員を終えて帰ったばかりの先輩Tさんが「行政ネタで定評の敏腕・ 出口君が、営業で名を挙げているというのは、寂しい話だ」と、表情を曇らせて いました。新聞社には、そういった編集一筋の頑なな記者もいて、実力がありな がら出世街道から遠ざけられてしまうケースも少なくありません。
新聞社での記者の多くは、編集委員や論説委員の一部を除いて、管理職ポス トへの登用と同時に筆を置いてしまいます。若くして編集部門から収益部門への 異動を余儀なくされるケースもあります。就職といっても就社ですから、人事へ の不満は、聞いてもらえるわけもなく、従順にならざるを得ないのは、一般の企 業となんら変わらない。
しかし、新聞記者が一人前になるには25年の経験が必要とされる‐といいま す。せっかくそこまで育てて、成長していながら、書かない、書くポジションに いない。40後半のベテランが筆をもつのは、ごく稀です。だから、記事が薄い、 軽い、きちっとした論調が少ない‐と批判を受けるのかもしれません。
この数日、大騒ぎのミンダナオ島での旧日本兵の発見という未確認情報の一連 の取り扱いを見ると、混乱しています。大使館側の対応に原因があるような一方 的な書き方に軌道修正しているように感じます。その国情を理解すれば、背景に 胡散臭い日本人が金目当ての現地人と組んで、どんなことでもやりかねないーと いうのは、マニラで頻発した保険金殺人事件、あるいはかつての三井物産マニラ 支店長の若王子信行さん(当時53歳)の誘拐事件などでも経験していました。そし て、また現地の情報欲しさに、金銭で釣る日本のマスコミ、そんな噂も取沙汰さ れているようです。
20年近くなりますが、マニラ支店長誘拐事件に際しては、偶然、取材に来て いたシンガポールに社会部長から電話が入り、急きょ、マニラに飛び取材にあた っていました。
「居場所に連れていくから、ガソリン代を出して欲しい」、「居場所を突き止 めた。教えるからその情報にいくら払う」などとの裏のオファーが複数、交渉に 訪ねてきていました。現職の警察官もいました。デマや怪情報、詐欺や盗難が巷 間、日常に溢れかえっていました。
余談ですが、マニラでの保険金殺人事件を追って、主犯格の事情を知る仲間の 所在確認のため、都内のマンションを一軒一軒歩き、聞き込みを続けていました。 あるマンション1階管理人室で、中年の管理人とちゃぶ台を挟んで向き合ってい ると、どこかで見たことがある女性が、部屋の小窓に向かって軽く会釈し、さっ と風のように小走りに通り抜けていきました。聞くと、当時、日本テレビ「きょ うの出来事」のニュースキャスターを務めていた櫻井よしこさんでした。あの当 時から、白のスーツ姿で颯爽としていました。
最近は、あの気品のある丁寧な言葉遣いで、政治の、企業の、官僚の、そして マスコミの、その歪んだ断面に鋭く切り込んで、知的で抑えの効いた論陣を随所 で展開していらっしゃいます。真のジャーナリズムを体現されているようです。 その櫻井さんの「日本のマスコミよ あるべき姿に立ち返れ」(ウェッジ6月号 羅針盤)の原稿では、ジャーナリズムの本質を語るうえで極めて重大な論点を浮 かび上がらせていました。
「健全なジャーナリズムの存在は、その国、その組織、その社会を構成する個 人個人を、あえて言えば"賢く育てる"力につながっていく」と、情報を伝えるメ ディアと記者の役割に期待を寄せながら、思い込みや偏見から、時に特定のイデ オロギーによって情報が歪曲されている現実問題を具体的に俎上に乗せて断罪し、 鉄槌を加えていました。
そして、この稿の前段で紹介した記者のキャリアパスに関わる人事制度に言及 して、「優秀な記者が優秀な記者のままキャリアを重ねることを許さず、彼らは 現場から離れ、出世して経営陣の一員となる。いつまでも現場で記事を書き続け ることは、記者としては本来素晴らしいのだが、日本では、そのような人物は" 出世できない"人間としか見てもらえない。このような視点で記者を評価するの は、日本にとって大きな損失である」と、断じていました。その通りです。
近著に自伝風の「何があっても大丈夫」(新潮社刊)が評判のようです。帯に 「強く願えば、想いは叶う」のコピーが印象的でした。表紙は、少女時代の櫻井 さんのセピアの写真をモチーフにしていました。清楚で聡明、はにかむような微 笑がなんとも美しい。
それをめくると、90歳を過ぎて一層、柔和で誠実な人柄がにじむ実母、以志 さんとのツーショットの写真が納められていました。きちんと生きていないと、 このように澄み切った雰囲気は伝わるものではない。
本文の最後の章の「キャスターから、また一歩」の項の一節に、言論人として 次ぎの段階に踏み込む時の、覚悟に似た強い想いのいくつかを書き留めていまし た。その全部を紹介すると、読む楽しみがなくなりますから、心打たれたうちの、 そのひとつに「誠実で優しい人々の集団である日本が、国民の誠実さと愛を真に 反映する国になれるように、問題提起をしていきたい。」というのがありました。 その言葉通りのご活躍です。
本のタイトルは、以志さんの、櫻井さんら娘に言い聞かせてきた言葉から選り すぐって、付けたようです。その「何があっても大丈夫よ‥」からは、ふつふつ として、ほのかな希望が湧いてきます。そして「持てる力と時間を、いつも、全 て、前向きに使うのよ」と続ける以志さんのメッセージは、読む者の心に、泉の ように潤いを与えてくれるようです。いつの時代でも、普通にしていながら、円 熟の域に達した母親の言葉は、珠玉です。