DND事務局の出口です。近くの川べりに築かれた桜堤。うららかな陽気が続 いて、いきなり春爛漫。綿菓子のようにこんもりした満開の桜を眺めていると、 音もなく風もなく、一瞬、時間が静止するような錯覚に捉われてしまいました。 しかし、関東近県はここ数日、花散らしの雨が続き、路上の花びらを濡らしてい ます。桜は、一瞬の美なのかもしれません。そこかしこに若葉が見え隠れして、 気の毒なほど色褪せてしまいました。
桜といえば、ソメイヨシノが一般的ですが、それを「満艦飾の女」と忌避し、 それに対比してヤマザクラを「素顔の乙女の風情」と賛嘆したのは、詩人で洋画 家の岡田昌壽(まさひさ)さんでした。
岡田さんの書いた数ある書物のうち、手元に3冊あります。もう絶版になって しまっているようですから、宝物のように扱って、何度も繰り返し読んで、その 都度、新鮮な気分にさせられ、悦楽のひと時を味わっています。
そのひとつ、「クールちゃん」(朝日出版社)。副題にアトリエ随想とあります から、創作活動の日常を題材に綴ったエッセイをまとめたものでした。クールち ゃんは、飼育していた「トキサカオウム」に付けた名から採用していました。岡 田さんとクールちゃんの交歓の物語は、悲しくも、なんとも微笑ましい。それら 全部で50編余りは、どれをとっても珠玉でした。昭和60年ごろの発刊でした。
〜花樹や草花の中には、心をひかれるものが無数にあるが、最も好きな花は桜
である。桜といっても、私が好きなのは、「‥‥‥朝日ににほふ山ざくら花」
(宣長)と詠まれ、
「うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山ざくら花」(牧水)
と歌われたヤマザクラであって、現今もてはやされているソメイヨシノではない
〜というくだりは、その「桜とソメイヨシノ」の項に書かれていました。
続けて、「風土」著の和辻哲郎さんを引き合いに出して、「山桜の魅力につい て、驚くべき綿密さで明晰な論旨を展開しつつ、これを賞賛する一方、ソメイヨ シノの通俗的な華麗さを排し、桜といえば山桜よりもソメイヨシノをもてはやす ようになって以来、日本人の美意識は堕落した、と断言しているが、私は全く同 感である」と同調し、山桜は、天然自然の清楚な気品があり、人間に例えれば、 素顔の乙女の風情だという。逆に、明治維新直前に、東京染井の植木屋によって 作出された、とされるソメイヨシノについては、「確かに華麗ではあるが、どこ か人工交配によって作られた園芸種にありがちな、おもねるような気配が感じら れる」して、桜好きな国民性とあいまって、今も昔も公園や並木に植えられる桜 はほとんどがソメイヨシノで、「なぜ、山桜を採用せぬのだろうと残念でならな い」と訴えているようでした。
職場に近い隅田川付近や自宅のある越谷の桜堤あたりのソメイヨシノは、満開 の時は、ふんわり浮かんでくるような一塊(ひとかたまり)の桜の花から、絢爛豪 華な感じがしていました。特に今年は、豊満で肉感的な印象を受けました。つい 4、5日前のことでした。
〜桜の下で死ぬ風流を、持ち合せていなかった。花の下に立って見上げると、 空の青が透いて見えるような薄い脆(もろい)い花弁である。日は高く、風は暖か く、地上に花の影が重なって、揺れていた〜は、大岡昇平の名作「花影」(かえ い)の一節です。
「中の千本が満開なころで‥」という記述がありますから、題材の吉野山への旅 は、ちょうど今頃だったと想像できます。本の解説で、杉森久英氏は、この一節 は、おそらく作品の中の最も美しい部分といい、「よく読むと、これは散りやす い花に事よせて一瞬の美を惜しむ、日本人の伝統的な心情が込められている」と 論評していました。初版は昭和38年でした。
思いついて、吉野町の観光課に電話を入れると、応対の女性がやわらかな言葉 で、「まもなく上千本が満開となり、そして奥千本へと続き、20日過ぎまで飽 きさせません。みんな、シロヤマザクラですから、可憐で可愛い花をつけていま す」と説明してくれました。
200種3万本の山桜が、杉木立を背景にしていて、そのコントラストが美し く、若葉と同時に開花し、ひらひらと吹雪のように散っていく様は、凛として気 品がある‐というから、たぶん、岡田さんが愛でた桜は、そんなイメージだった のかもしれません。
平成2年に出版した「仰臥随想」(そうぶん社出版)にも、「春の歌」の項に、 桜を詠んだ数多い詩歌のなかで、あえて好きなものをひとつだけ挙げるならばと して、短歌では、若山牧水の、「水の音に似て鳴く鳥よ山ざくら松にまじれるみ 山の昼を」そして、俳句の方では、石塚友二の、「思い寝の目覚めては遠し花の 雨」を選びたい、として、「桜が最も美しく眺められるのは、松や杉や檜等の常 緑樹の濃緑色をバックにした場合であって、作者はこの辺の事情を十分にのみこ んでいるようだ」といい、俳句については、どうかその句を三読されたい。なん と品格の高い句境ではないか」と絶賛し、恋愛をモチーフにする作品につきもの の、感傷や、甘さや、生臭さの一切が払拭されつくしていて、終始静謐な諦念に 基づく大人の感慨が吐露されているーとの解釈を加えていました。詩歌を愛でる ほどの素養もなければ、創作の資質もない小生にとっては、なかなか理解するま でにはいきませんが、「心が遠のいていくような寂寥感」は感じとれます。
もう一冊は詩集です。「岡田昌壽詩集」(朝日出版社)。ハードカバーの丁寧な 装丁で、昭和54年の発行となっていました。数えると133編の詩が収められ ていました。西山多喜江さんの素描39点が加えられていました。その中に、 「櫻が桜に」のタイトルの詩がありました。
「櫻」が「桜」に変えられたころ
アメリカシロヒトリが上陸して
さくらの葉っぱをたべてしまった
「櫻」が「桜」に変わってから
みるみる自動車が増えだして
排気ガスがさくらを枯らしてしまった
さくらが「櫻」であったころは
さくらはどこでも咲いていて
文字の中にさえ匂っていたのに
「櫻」が「桜」に変わってからは
どの木もどの木も※天狗の巣となり
さくらはさくらではなくなってしまった
※天狗巣病のこと
栃木県の国語の高校の教師から、画業に転進した岡田さんは、小山市の在住な
がら、遠出して関東近県の里山を歩いていました。その画風は、静寂な沼の水面
に映る紅葉の山々、そのシンメトリーな風景が象徴するように、繊細で平明でし
た。一陣の風が吹き抜けて、その景色を掻き消してしましそうな虚ろな印象があ
りました。奥日光の白樺やカラマツ林をモチーフにした多くの作品がありました。
ずっと以前に、取材し、彼のデビューを飾った作品のスケッチ現場に立会ったこ
とがありました。沼の岸に屈んで、懐からウイスキーの小瓶を取り出して、注い
でいました。せめてもの感謝の気持ちを表現していたようです。物静かで、一緒
に麻雀の卓を囲んでもゆったりしていました。
毎年、春の桜の季節になると、なぜか岡田さんのことが懐かしく思い出されま す。昭和3年生まれでしたから、今年喜寿になる、ならばそのお祝いをーと思っ て、先日、自宅に電話すると、「現在使われていません」のコール、胸騒ぎがし て産経新聞の支局や知人に所在を確かめても分からない。ネットで検索してみる と、「岡田昌壽さん死亡」の文字が目に飛び込んできました。遅かった。
友人の下野新聞社の飯島一彦さんに連絡して、その死去を伝えるわずか数行の 記事をファックスしてもらいました。岡田さんは昨年の2月に病気で亡くなって いました。享年75歳でした。どんな活躍をしてきたのか、そういう評伝は見当 たりませんでした。
このメルマガが、十分ではないものの、生前の岡田さんのことを伝える唯一の 媒体となってしまったようです。自分の作品や著作を伝える手段として、イン ターネットを活用していれば、岡田さんの世界がより広がったかもしれない。 孤高の詩人、神秘の洋画家‥そして、澄んだ心と眼で捉えた作品は、新作からす でに巨匠の域に達していたようです。