DND事務局の出口です。新聞の投稿欄から、最近、印象に残っているのを紹介 します。それは、2月13日付の朝日新聞朝刊に掲載されていました。岡山市在 住の村瀬里香さん(42)からで、題名に「春を告げる手紙」とありました。
「我が家の6歳の次女は自閉症」という書き出しで始まり、成長に伴い、娘の言 動に対して「異端児」と受け止める友達も出てきたそうです。クスクス笑われた り、からかわれたり。娘が近づくだけで逃げる男の子も見かけるようになった、 といい、「いまひとつ、ピンときていない本人以上に、親の私はいたたまれず、 悲しかった。冬の木枯らしに、心の中まで冷え冷えさせられる思いだった」とそ の苦衷を吐露していました。
そんなある日のことです。その娘さんが友達から手紙をもらって帰ってきまし た。普段あまり、遊ぶことのない女の子からでした。
「きのうはすごかったね グループのなまえをきめるとき じゃんけんでまけた のに よくがまんできたね フワフワラビちゃんってゆうなまえ よくかんがえ たね。いつまでもともだちだよ」って、かわいい字で書かれていたそうです。
「何度も読み返しては、泣いた。こんなに優しく見守ってくれている子もいるん だと思うと、急にうれしくなって、あたたかい気持ちに包まれた」とその時の喜 びを率直に語り、「私の心に春がやってきそうな予感がしている」と結んでいま した。読む側の多くの人の心にもジ〜ンと響いたに違いない。
句点を数えて80字の、短くも、ひと文字の無駄のない起承転結のしっかりし た手紙でした。「いつまでもともだちだよ」のメッセージは、明快で力強く清々 しい。学校から帰って、机の前に座り、ともだちを思いやりながら一字一字綴る 健気なその子の姿が目に浮かんでくるようです。豊かな生活の一端がほうふつと してきます。読んだ後に投稿のタイトルのように、気分は春めいています。
ふと、日常のなかで気がついたことを文章にする、友達や知人への手紙、ある いは新聞投稿、また電子メールという形ででもいい。その人、それだけのために 時間をとって心を砕く。う〜む、と唸りながらでも、手作りの自分らしい表現は、 なにより素晴らしいし、きっと伝わる、と確信したい。
52歳の誕生日をはさんで出張していた沖縄県那覇市で、仕事の後に知人に連れ られて立ち寄ったカラオケスナック「茶色の小瓶」。マスターは同年代の仲里尚 英さん、律儀に蝶ネクタイ姿で現れ、誕生日と聞いて、お祝いに自慢のオカリナ をそばで披露してくれました。オリジナル曲「星になって」は、天空を駆け抜け るような壮大なイメージの曲でした。心に染み入る音色でした。
いくらか酔いにまかせて、目をつむって聴いていると、奥深い山里で孤高を保 っていた、ある音楽家のことが思い出されてきました。あの人もオカリナを焼き、 演奏もしていました。
栃木県田沼町飛駒の里。フジテレビの宇都宮支局長だった音楽通の先輩が、 「出口君、不思議な人がいるけど、一緒にいってみない?」との誘いから、実は、 担当の取材エリアを越境して、その川底のような険しい林道を急ぎ、そのジープ に便乗していました。もう27、8年も前の事でした。
辿り着いた先は、質素というより、気の毒なくらいの暮らしぶりなのですが、 待ち構えていた人は、実に堂々として、威厳があり、神々しいほどの印象をうけ ました。火山久さんでした。左腕のギブスと包帯が痛々しく見えました。が、よ く伸びた黒いふさふさの髪、野太く響く声、その存在感には、終始圧倒されてい ました。あのオカリナ奏者、宗次郎さんの師匠といえばわかりやすいのかもしれ ませんが、しかし、ミサ曲やレクイエムなど祈りの曲を数多く作り、そして中世 バロック音楽研究の第一人者という風が正確かもしれません。あえていえば、森 永製菓のCMソングの後に続く「ピッポッポッピィ」のメロディーは、火山さんの オカリナ演奏によるもののようです。「この人に弟子入りしたい」と思ったのは、 宋次郎さんばかりではありませんでした。強く心が動きました。本当に不思議な 人でした。
当時の取材記事などから、そのひととなりをひも解くと、本名、渡辺久三郎。 香山久とも名乗っていました。1925年、スイス生まれ。まず、この辺が謎め いているんです。ピアニストの母、音楽家の父という家系の影響からスイスに行 っていたのかもしれません。申し合わせたように、上野音楽学校(現東京芸術大 学)に進み、ピアニストを目指していました。
が、10万人の犠牲を出した凄惨な東京大空襲。その3月10日未明の爆撃で20 歳の火山さんは、右手小指を損傷してしまいました。その後遺症でピアニストの 道は断念せざるを得ませんでした。痛ましい話しです。あれから、明日でちょう ど60年ですか‥。
が、親から譲りうけた音楽の遺伝子は、健在で、天性の才能は作曲家として開 花したようです。1967年にモントリオール万博の音楽作曲部門で銀賞、69 年にはフィンランド・シベリウス音楽祭でグランプリを獲得するなど教会音楽の 作曲家として、国際的にその名声が高まっていきました。その後、チェロ奏者と して活躍することになるのですが、ここでもまた災難に見舞われました。不慮の 交通事故で左腕を骨折し、チェロ奏者の道も絶たれてしまい、どん底に‥。そん な折に行きついたのが、オカリナだったようです。1975年あたりから、栃木・田 沼町に移り住んで工房を開いていたようです。最初に訪問したのはそれから数年 後のことでした。
自然の風の音を響かせたい、と、確かにそう言ったと記憶しています。玄関や くつろぎのソファーの周辺に大き目の素焼きツボが並び、一様に底がくり抜かれ ていました。風の通り道に、この素焼きを吊るしたらどんな音を奏でるのだろう か、あるいは、あの山間の丘陵地にいっぱい素焼きを並べて、季節の風を聴く、 そんなこともしたいなあ、音は風の振動だから、と目を細めていました。
本当の自慢は、自家焙煎した特製コーヒーでした。コーヒーミルもカップも火 山流の手作りでした。渋味のある琥珀の色のコーヒーがいつも用意されていまし た。裏の納屋にコーヒー豆の袋いくつも吊るされていました。
また、ボランティアで始めた、地元の村の青年の消防団へのオカリナの制作と 教育の指導‥。宋次郎さんもその中の一人でした。そばに可憐な一輪の花のよう な令夫人がこまめに気を配っていらっしゃいました。酒を持参して、何度も通い ました。酒の肴は、とっておきの山菜、珍味が用意されていました。
先生と呼んでいた当時、しきりと「個性」の大切さを強調されていたように思 います。これといった教訓めいた言葉の記憶はありません。不覚にも一度、烈火 の如く叱られたのは、「どのように生活していらっしゃるのですか?」の警戒心 のない質問を発した時でした。「それが君にどれほどの意味があることなの か?」と‥。しかし、それが後に、どれほど失礼で無神経な事かと思い知ること になるわけですが、その時の痛い思いは、今に至るまで、傷跡のように消えるこ とはありませんでした。
それから何年かたって、偶然、火山さんとばったり会ったのは、足利市内にあ るお好み焼き「きんこ」でした。東洋の魔女を産んだバレーの名門、ユニチカの 往年の選手のひとりが切り盛りしていたお店です。そこで、火山さんは、足利短 期大学で音楽を教えているーと話していました。一緒に何人もの教え子を連れて いました。
焼き加減がいい具合になってくると、持参の鞄から、やおら醤油をビンごと取 り出して、ジュッ〜っとやるんです。
「このね、醤油の焼ける音と匂い、これがたまらない。焼けすぎるといけない。 その加減が結構、難しいんですよ。この醤油、かなりいけますよ。良かったらど うぞ」と、ビンごと差し出してくれていました。四国のどこかの島の特産の醤油 と記憶しています。普段通り自然で、風のように自在なスタイルを崩しませんで した。
いま、どうしているんだろう‐ってぼんやり、その追憶に浸っていると、演奏 を終えたばかりのマスター、仲里さんが席に戻り、お礼を言った後のオカリナ談 義は、第一人者の宋次郎さんへと進み、そして、火山さんのことに触れていまし た。
「残念ですよね、火山さんはお亡くなりになりましたね」というから、心臓が止 まりそうなくらいの驚きを禁じえませんでした。「火山さんが死んだ」−の言葉 を何度も反すうしていました。知らなかったのは残念でなりません。
全国に多くのオカリナのファンがいます。作陶したり、演奏したり‥その間で は、奏者としての火山さんは、すでに伝説になっているようでした。ご専門をお 聞きした時は、「バロック音楽」と言い切っていました。目指したのは、中世の 熟成した芸術・音楽、奔放で艶やかな空想美だとしたら、オカリナ奏者としての 火山さんは、仮の姿だったかもしれません。
沖縄から帰って調べると、1997年5月に逝去されていました。享年72歳 でした。天分に恵まれた孤独な音楽家、火山久さん、とんでもない不幸が連続し ていたのに、表情にその片鱗も見せず、いつも楽しそうに遊んでいる風でしたか ら、不思議な人なんです。
宗次郎さんの実兄で、宋次郎さんを火山さんに紹介するきっかけとなったのが、 親友のタウン誌編集長の野村幸男さん。電話すると、「亡くなりましたね、本名 の渡辺さんの名前で新聞に出ていたみたいでしたので、気がつかなかったかもし れません」と話していました。静かに逝ったのかもしれません。もう一度、お会 いしたい、そんな思いに駆られています。
昨日から、スタッフと都内のCDショップ、レコード店をあちこち走り回って 火山さんが残したオカリナのCD「土の詩」を探しています。せめて、その旋律 を聴きながら、供養としたいものです。