DND事務局の出口です。寒波、大雪の気候の影響も多少はあるかもしれませ んが、このところ周辺で訃報が相次いでいます。叔父、友人の奥さん、職場の先 輩‥50歳を過ぎると、身近なところでの悲しい知らせが多く舞い込んでくるよ うな感じがします。ふと、いつ何が起きても不思議ではない年齢の、実の父母、 義理の両親の万が一の時の備えについて、きちんと考えておかなくては‐と、そ んな気持ちを強く持ったのは、ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんの以下の 文章からでした。
「子供のころ、朝早く起きなくてはならないことがあると、私は父によく頼ん だものだった。『明日の朝、起こしてくれる?』。私は起こしてもらうたびに不 思議に思ったものだった。お父さんはどうしてこんなに早い時間に起きられるの だろう?」
「あるいは、私の食卓での記憶にこんなものがある。食べ盛りの私のおかずの 皿に何もなくなってしまうと、母が自分の皿から肉や魚を私の皿に移してくれて、 言う。『食べなさい』。」
日経新聞の終面の文化欄に「いのち」の記憶‐と題した沢木さんの寄稿文の、 その書き出しの一部です。父、母の子供への情愛の深さは、義務でなく、喜びで あり、睡眠や食物を削ることは自分の「いのち」を削って子に与える、それがな んでもないことのように行われて、「いのち」が自然と伝わる、と。が、たぶん、 子供を虐待する父親や母親は、自分が親から「いのち」を与えられた記憶が希薄 な人たちなのだろう‐と心を痛め、親から「いのち」を与えられた記憶は、自分 の子へ「いのち」を与える行為につながり、つまり、それは「いのち」をめぐる 記憶の連鎖というべきものであり、もし、その記憶の連鎖が途切れたら、人間に とって何よりも大切なはずの「いのち」の連鎖もまた途絶えてしまうのかもしれ ない‐と、近年、各地で頻発する親の子供への虐待の病巣の根の深さに言及して いました。
沢木さんのその文章の、ありふれたごく日常のいくつかの風景から、人間にと って根源的な「いのち」をめぐる親と子の関係を「記憶の連鎖」とするあたり、 その表現の巧みさに感じ入りながら、何度と読み返していて、どこかその文章の 裏に隠された「死への畏怖」を予感せざるを得ませんでした。
文の後半部分には、「夜中にふと目が覚め、もしお父さんやお母さんが死んで しまったらどうなるのだろう、と途方に暮れつつ思いを巡らせたことはないだろ うか」という下りが、妙に引っかかり、幼い時の記憶とだぶって現実味を帯びて、 脳裏からはなれなくなっていました。
偶然でした。ふいに家の電話が鳴り、めったにかかってこない電話の市外局番 の表示から、「死んだのかな‥」と、受話器を取ると、案の定、叔父の死の知ら せでした。
その日は、確か先月23日の寒い日曜の朝で、沢木さんの寄稿の掲載日と心配 していた叔父の死の知らせが重なり、それらがごっちゃになってしまって、今年 喜寿を迎える父と、リュウマチの病で入退院を繰り返す母に対して、これまで何 もしてあげられなかった自分の不甲斐なさを痛切に感じてしましました。父のこ と、母のこと、詳しく聞いてもいないし、実は本当によく知らない、このままで は‥と、落ち着かなくなってきました。
沢木さんからは、ものを書くこと、あるいは、書く題材の見つけ方などに、か なりの影響を受けてきました。その著作は、ほとんど楽しみながら読んできまし た。「テロルの決算」、「路上の視野」、「人の砂漠」などなど。沢木さんの新 聞での、いわば原稿をしっかり読んだのは、それは余りに個人的な感想ですけれ ど、10年以上?も前の朝日新聞紙上での「彼らの流儀」以来かもしれませ ん。そして、最近、読んでズッシンと衝撃をうけたのが、「無名」(幻冬舎刊)で した。
「不思議なことに、夏から秋にかけて、立てつづけに親しい人が亡くなってい た。新聞記者、編集者、弁護士、企業経営者‥そのすべてが早すぎる死だった。 しかし、そうした大事な人たちの、どの葬儀にも出られなかった。なぜなら、も うひとりの、そして私にとって最も近いひとりの死が間近に迫っていたからだ」。 「私はいつかじっくり聞いておこうと思っていたが、切れ目なく続く仕事の忙し さにかまけてその機会を捉えられずにいた。他人からは、その人生について、肉 親以上の根気よさで聞いているのに、身内である父の話をまったく聞いていない。 そこに罪悪感のようなものを覚えていたのだ」。
もう上の二つの引用だけでもどんな内容かが、その沢木さんの狙いが見えてき ます。そして‥。
「あれは私が何歳の頃だったろう。父は、購読している新聞に連載されていた 山川惣治の『少年ケニア』を切り抜き、日曜になると1週間分をまとめて読んで くれていた。花八手(はなやつで)のある庭の、縁側に座っている父と私。記憶で は、そこにはなぜかいつも柔らかい秋か冬の陽光が差し込んでいる‥」。
「父が松原団地の病院に入院して、私が初めてひとりで看病することになった 夜だった。(略)父と二人だけの行動というのがどれくらいあったか。父と二人で 旅したことは‥ない。父と二人で凧を揚げたことは‥ある。父と二人で歌を歌っ たことは‥ない。父と二人で呑んだことは‥ある。父と二人で女の話をしたこと は‥ない。父と二人で野球を見たことは‥ある。そして父と二人で映画を見たこ とは‥あるのだ」。
実父、二郎さんの入院から死去に至る、夫人、姉妹ら家族総出の健気な看護の 日々の様子を淡々と綴り、幼い日の、あるいは青春期の父と子の想いや記憶、そ してその後の邂逅‥。本の帯に、‥秋の静けさの中に消えてゆこうとする父。無 数の記憶によって甦らせようとする私。父と過ごした最後の日々‥‥。自らの父 の死を正面から見据えた、沢木文学の到達点、とありましたが、死んだ日の激し く揺れた心の動きを五七五の文字にした瞬間の、後半の下りは一気に涙が溢れて きました。
それは、「深夜特急」(新潮社)で書いた、沢木さんが26歳の時から約一年、 ユーラシア大陸を旅した際に、密かにわが子の行く末を案じていた父が綴ってい た句「聖夜なり雪なくばせめて星光れ」に対する、「いのちの記憶」であり、い のちをめぐる「記憶の連鎖」の証しと読み取れました。いやあ〜鳥肌がたってき ていました。その句?どうぞ、本を手にとってお読みください。ここが一番大事 なところですから‥。
手元に沢木耕太郎ノンフィクション作品集成全9巻のうちの[第\巻観戦記]の 「酒杯を乾(ほ)して」(文藝春秋刊)の最後のページの最後の行に、こういうのが ありました。
読むことを続け、見ることを続け、調べることを続けた果てに、薄暮の海に小 さな氷山としての作品が浮かぶ。書かれることのなかった膨大な記憶と事実の断 片の上に、と。