DND事務局の出口です。「夢・志・仲間」−もう一度、その原点に立ち返り、少し緊張して襟を正し、また新たな一歩を踏み出します。通算100号。多くの皆様から、とっても嬉しいお祝いメッセージを戴き、心から感謝しつつ何度も繰り返し読んでしまいました。
それと、メルマガに登場した方々の名前を一覧にした「人名索引」にざっと400人。産学官連携のステージに立つ、その顔ぶれは、多士済々、壮観です。上下に何度もスクロールしながら眺めていると、あの人この人の表情がリアルに浮かんできて、その時々の場面が鮮やかに甦ってきます。誇り高く、堂々としていて、知的で、頼もしい。
例えば、「い」の行。いやはや、すご〜い面々です。さしずめ、メルマガ出場回数トップは、経済産業省大臣官房総務課長の石黒憲彦さんの9回。いま、国会の開催中ですから、神経ピリピリでしょうか。盟友で同総務課長補佐の吉本豊さんの伝を借りると、「(石黒さんは)デジタルニューディールの名付け親で、DNDのボス的存在でしたから、それは必然でしょう。その理念と方向性は確かですから、後は出口さんの肩にかかっています。それにしても、その索引はまさに、DNDのネットワークの広がりを感じさせてくれますね。期待していますよ」と、ポンと背中を押されたようで、いつもながら卒がない。
「い」の中のこの人は、紹介しないわけには行きません。元経済産業省のキャリアで先般の新潟県知事選に当選した泉田裕彦さん。42歳の全国最年少知事の誕生!そのサプライズは、泉田さん、実は、DNDの初代事務局長的存在で、今日の基礎を築いた功労者のひとりという経緯もあって、立候補の前後から周辺では、とびっきりの話題となっていました。祝、おめでとうございます。立場は変わっても、今までと同じ泉田さんでいてくださいネ。
さてさて、もうひとり、特記すべきは、池田庭子(ていこ)さん。不思議なご縁です。つい最近まで面識がありませんでした。ウェブ上に展開するバーチャルな世界での、コミュニケーションのツールは、主にメールが日常となります。ところが、1本のメールがお互いの琴線に触れ、何度かメールのやり取りを繰り返しているうちに、もうすっかり旧知の間柄のような親近感を覚えてしまうケースも珍しいことではありません。池田さんはそういう感じの方でした。
初めてのメールは、6月10日、VOL81(5月26日配信)で取り上げた「神崎ひで貴・地唄舞への葬送」への投稿からでした。
「はじめまして、静岡の池田庭子です」との書き出しで始まり、1990年11月、静岡の料亭「あなごや」の能舞台で開かれた舞の会での出会いから、以来、14年に及ぶ、その密な交遊の記録を送ってくださいました。そして、ひで貴さんが今年1月、三島がんセンターに再入院した際には、友人らとローテーションを組んで交代で看病にあたり、水も喉に通らないほど衰弱していたひで貴さんに、蜂蜜をすくって口元に含ませたことや「なんとしてもこの病魔を克服して、もう一度、舞台に立ってほしい」と必死に祈り続けた様子が、仔細に綴られていました。
読みながら、熱いものが込み上げてきました。ひで貴さんとのお付き合いの深さに驚き、病床での看病の記述に心を打たれました。命の絆―それを結ぶ珠玉のドラマを見るようでした。
その池田さん、ごく平凡な家庭の人から、一転、新入社員研修のインストラクター、県教育委員会ハロー電話「ともしび」の相談員、はたまた平田オリザさん脚本の「忠臣蔵」のオーデションを受けて参加するなど、懸命に走りぬき、そして、50歳過ぎてからは、静岡市内にある、常葉学園大学の社会人入試に挑戦して合格、専攻は「生涯学習」。その1期生。
5年に及ぶ在学中に、20代のクラスメートらと「NPOとこは生涯学習支援センター」を設立し、静岡市栃沢の里山にそのNPO法人の実践の場となる、子供らが自然に溶け込んで遊べる施設「たぬき村」を開いていました。開村に延べ900人近い学生らのボランティアが参加していたようです。少額ながら、NPO法人の賛助会員を申し出ると、御礼の手紙とともに、たぬき村で収穫した野菜や地元産の無農薬のお茶を贈っていただきました。
ひとつひとつ真心のこもった対応に恐縮し、その真摯な姿勢に、限りないエールを送りたい‐と願わずにいられません。池田さんの了承を得て、いくつかのメールを紹介します。
夏のメール。「昨日は、村の梅を収穫して梅酒をつくりました。バイオトイレもつくりました。今後、川原に露天風呂をつくります。いま、ホタルがでています。清流にはヤマメもいます。夏休み、学生と一緒に泊まりはいかがでしょうか。あまりの貧乏でびっくりしますが、かっこよく言えば、清貧、寝袋持参です。予備はあります」。
秋のメール。「たぬき村は、夕日がきれいで、沢の音がして、今は蕎麦の花が咲いて、夜は漆黒の闇になります。沢にしつらえた露天風呂につかると、出るに出られない気持ちで、私にとっては贅沢な時間となりますが、あまりの貧しさに驚かれるかもしれません」。
そして、先週末の出張の帰りに、静岡駅で途中下車しました。新幹線の改札をでると、にこやかなに近づいてきた小柄な女性、初対面の池田庭子さんでした。
帽子にもんぺ姿、リュックを背負い、両手に重そうな布袋。挨拶もそこそこに、バスの時間が間もなくです‐と、せかされるように後をついてバス停へ。日向行き。のどかな田園と茶畑が広がる山間を抜けて、1時間。下車して、たぬき村のある栃沢地区に入ると、勾配のきつい坂道が延々と続く。15分ほど歩いて息が苦しく、ギブアップ。携帯はすでに圏外の表示。道が、幾重にも重なる山並みの奥に消えていました。
目的のたぬき村までは、通りがかりの車に便乗させてもらって、やっとの思いで到着。周辺は、石垣を組んだ段々の茶畑が広がり、つくりのしっかりした農家の屋敷が点在しています。そこは、遠い昔、すでに忘れかけた日本の原風景が、息づいているようでした。ふっと、肩の力がぬけるような安らぎと落ち着きが感じられました。沢の清流が、水量を増し、轟くばかりの音を上げていました。
築100年の廃屋を修理したたぬき村の拠点には、仲間のご婦人らが囲炉裏を囲んでいました。季節、季節に県内の小学生らを招いて、自然に触れ合いながら宿泊体験をさせているという。マキを割って火をおこし、山の青竹を切って食事用の器をつくり、沢からヤマメを釣り畑から季節の野菜を取って調理する‐という生活体験は、話を聞くだけでわくわくしてきます。
ジッと腰をかがめて火の番をしていると、心が休まります。ナタを使ってのマキ割り、カーンという乾いた音を響かせて飛び散って、都会の生活でのストレスも一緒に消えていくようでした。スローライフというより、生活のための日常という人間本来のあり方を考えさせられました。
池田さん、「ごはんを食べる準備だけで、一日が終わります。子供たちの目に精彩が戻り、生き生きして帰っていきます」と話していました。漆黒の闇、空に満天の星‥。
平家落人伝説から1000年の歴史を刻む、その栃沢地区に38世帯、人口100人余り、65歳以上が半分を占め、20代、30代の若者はいない典型の山村過疎で、その行く末に不安はあるようです。が、お茶、ワサビの栽培農家の皆さんには、屈託がない。池田さんの手引きで、3軒の家へ訪問させていただきましたが、その中の1軒、「山水園」の銘柄で極上の茶を生産・販売している内野清己さん、40代でしょうか、自慢の製造工場を案内しながら、いくらパソコンでデータ処理して管理しても、その年の気候、葉に含まれる水分量、その日その日の湿気、温度、あるいは風の向きによって、微妙に変わる‐といい、究極の茶をなんとしてもつくりたい‐と目を輝かせていました。お茶を一服、濃く甘い〜、思わず、「これがお茶ですか?」、お茶うけに山栗の渋皮煮、これも絶品でした。
たぬき村の裏手のなだらから丘陵地に、一軒の名刹がありました。静岡の茶の祖とうたわれた聖一国師の生家、そこの裏庭に、枝垂桜の巨木が見事な枝振りを見せていました。
「あの桜が咲く頃、それを背景にして、あそこの石段あたりで、ひで貴さんの舞の会を実現したかった。ご本人も、いい、いいっ!ていってくれていたんです」と、池田さん。なんとも、清貧というより、気高く豊かな山村の恵みを堪能していらっしゃる。古風な美人です。
帰宅した翌朝、松井秀喜選手が登場している米大リーグのア・優勝決定シリーズが雨で中止になり、ぼんやりNHKのBSをみていたら、土曜インタビューに歌手の加藤登紀子さんが、出ていました。場所は、千葉・鴨川、農事組合法人「鴨川自然王国」でした。一昨年7月に亡くなった夫の藤本敏夫さんが、設立した農場でした。敏夫さんの追憶を語りながら、「営む、生活を営む、そういう営むための生活がここにあります」という意味のことを話していました。
「夫のいない日々」に触れて、「ここにいたら、そこのなかに居てていいわ、という安らぎがあります。(略)山、土、畑は永遠です」とも語っていました。
静岡の、かくれ里は、癒しの里、また、たぬき村に行こうかな〜。