DND事務局の出口です。う〜む。置かれた環境が、決して不遇ではないはずなのに、ひょっとして確かな成功へ階段を登っていたらしいのに、ある時、なにかの拍子に弾けて「辞表」、そして渡米。そして、いま、時代の風をうけて米国東海岸を舞台に活躍する彼らが、なんとも清々しく、晴れやかなのは、「なぜ?」。
服部健一さん。ワシントンに法律事務所を構える米国特許弁護士。並み居る弁護士の数は70から80万人といわれる米国ながら、特許弁護士となれば、全米でも希少、それも日本人第1号というから、一体、服部さんの人生に何があったのか―。
その果敢な挑戦のサクセスストーリーは、服部さん自身による「アメリカンドリーム、3000日間闘争記」(The Japan Times社刊)に、詳細は譲るとして、その冒頭の一節は、是非、ご紹介したい。
「人生は一度しかない。だれでも何か変わったことをしてみたいとか、自分の能力の限界に挑戦してみたいと思うのは当然だろう。しかし、希望はあってもなかなかできることではない。(中略)ある日、ふと、気がついたことは、自分にはとにかくひといちばい体力があるということである。通産省特許庁時代に徹夜しようが、平気の平左‥」。
そうなんです。通産省特許庁、それも足掛け17年のキャリアを捨てて、39歳での決断。後3年在籍していれば、恩給がつくのを尻目に、日米特許戦争の摩擦の解消に役に立つなら‥の志は、当時、日刊工業新聞に顔写真入りで、取り上げられていました。
特許紛争の訴訟に関わる特許弁護士の資格取得は、バージニア州立大学のロースクールの夜学4年に及び、そして掴んだ執念の司法試験突破―そのくだりは、90年10月の日経産業新聞で記事にされていました。
「地球大通り」の朝日新聞ワシントン発のコラムでは、服部さんを舞台回しに、米国は80年代の後半から、工業製品の生産では日本で勝てない代わりに、特許などの知的財産権で対抗しようという国家戦略が芽生え、実際の特許事件でも、特許が高額なものとみなされるようになった−として、「米国の流れをみれば、日本でも特許などの知的財産権が企業の利益ともっと直結したものとして、評価されるものになるでしょう」との服部さんの予見を引き出していました。これが、99年11月。世を挙げて、知財戦略に走る昨今の現状をみれば、服部さんの予見は、ピタリ的中です。
米国ミッション視察の初日、底冷えのワシントンDCのオフィス街の一角、用意された広めの地下会議室。ミッション参加者がみんな揃ったところに、いくぶんリラックスした感じの服部さんが、ふらり、現れました。
「あれっ!」。事前の個人ファイルでは、還暦近いはずじゃなかったかな〜って思っていたら、濃い目のふさふさ髪で、いかにも精悍。開口一番、青色LEDの特許権を巡る東京地裁の200億円判決の新聞コピーを手に、「さて、この裁判の問題があるとすれば、何?」。おずおずと挙手した小生の答えは、別にして(そっちに置いといて‥)、「契約の前提が成功時のみだ、ということで失敗した場合のリスク勘案されていない」と、前提となる契約条件の問題をさらり、指摘していました。
教師が生徒を諭すような、懐深い丁寧な応対には、質問者への深い理解が感じられました。起業家教育を専門のテーマにしているミッションメンバーからの、質問趣旨を素早く感じられたらしく、先回りして、その場から、携帯で事務所になにやら連絡、そして数十分、事務所から息を切らした青年が、服部さんに渡した資料は、「20歳から始まる人生設計」というタイトルの一枚のマトリックスでした。
その表には、生活力、仕事力、魅力などの項目を年代別に特徴を列記してあり、まさに人生の手引き。欄外に「幸せになるためには目的を達成すること以上に、不幸な材料を除去するように努力することが重要」とのメッセージが付け加えられていました。
弁護士ながら、若い人を育てる−教育への見識の一端を垣間見せていました。「これは、母校で講演する時に使う予定です」という。子供らが、きっとキラキラ目を輝かせるにちがいない。彼らの人生の師になるかもしれない―そんな深い印象を受けました。
帰国して、「憶えていらっしゃるでしょうか?顔の大きい、不遜?な感じの者です」との御礼のメールを入れましたら、「出口様にお会いし、お話しましたら、忘れる人はそういないのでは、と思います。ご安心ください」との返事、洒脱というより、軽妙でウイットに富んでました。ニヤリ。
メールでのお願い趣旨の件は、即レスポンスで、快諾いただきました。「日米特許最前線」をテーマに、服部さんの企画連載が、DNDのサイト上でスタートすることになりました。
憧憬と共感。服部さんに、勇者の誇りを感じます。御礼。多謝。