第9回 インド知財の行方を決める2つのイノベーション戦略の拮抗
しばらくぶり(1年弱)に、このコーナーの記事を更新します。今回はインドです。今年2012年は、日本とインドの国交樹立60周年にあたります。中国と並ぶ新興国インドは、アジア第 3 位のGDPを有し,高い経済成長を維持していることに加え、1947年の独立以来、政党政治による民主主義が定着しており、12 億人の人口を擁する"世界最大の民主主義国家"とも呼ばれています。その点で、経済だけでなく日本と価値観を共有できる国として期待されています。このような背景から、昨年2011年12月の日印共同声明「国交樹立60周年を迎える日インド戦略的グローバル・パートナーシップの強化に向けたビジョン」では、「日印関係は民主主義,人権,法の支配等の普遍的価値並びに幅広い戦略的及び経済的利益に基づいている」との認識に立った交流の発展が唄われています(@)。経済面では、昨年は日印経済連携協定(EPA)が正式に発効しており、今後10年間で日本への輸入品は97%、インドへの輸出品は90%の関税が撤廃されるなど、日本の産業とのつながりもより緊密化していくことが予想されます。
このように、日本との関係強化が期待されるインドの知財の状況については関心が高まっており、昨年から今年(2012年)にかけては、日本の産業界や政府機関から多くのミッションが派遣されて、様々な調査が行なわれました。このコーナーでも取り上げた中国の知財の動向については、多くの日本企業が現地で現実にトラブルに巻き込まれるなど、実態に触れる機会も多く、その状況は概ね理解されつつあるのに対して、インドの知財の制度や実情はあまり知られていないといえます。このようななか、経済的なつながりの拡大を契機にして、知財面での調査の必要性が高まったものといえるでしょう。
実際インドの知財の制度は一見してわかりにくい部分も少なくなく、例えばインド特許庁は,一箇所ではなく、本庁のコルカタのほかニューデリー,チェンナイ,及びムンバイの4箇所にあって審査等の実務は各庁が独立して行っていますが、様々な分担もあって、せっかく訪問して担当していない業務について聞いても「担当している特許庁に行ってもらわないとわかりません」と答えられてしまうという話も聞きました。このような仕組みは商標局に関しても同様です(ムンバイに本局,デリー,コルカタ,アーメダバード,及びチェンナイに支局がある)。またインドの知財制度そのものについても、かなり特徴を有するといってよいでしょう。インドではかつては物質特許制度が存在しませんでしたが、WTOに加盟にあわせて、2005年の特許法を改正したことによって、現在では物質特許制度が導入されています。しかし現在でも特許権者による権利行使は容易ではないばかりか、かねてより政府関連機関によって強制実施権の行使も検討されているとされていましたが(A)、実際に2012年3月にインド特許庁が現行特許法で初めての強制実施権を発動し、独バイエルが販売する抗癌剤の後発品の製造許可をナトコ社に与えるという判断がなされています(B)。
しかし新興国の知財実務に詳しい専門家に聞いてみても、インドにおける日本企業の知財面でのトラブルや具体的な相談案件も中国などに比べれば圧倒的に少なく、それほど問題は生じていないのではないかという意見も聞きます。この点では現地を含めた専門家の意見が分かれています。「潜在的には問題は少なくなく、いずれ中国と同様、制度的な問題やそれに起因する訴訟も増え、日本企業にとっての知財面での問題が急増するようになるだろう」というものと、「中国とインドでは産業構造も異なるので、知財面でも事情は大きく異なるものになり、医薬品分野などを除いて、中国のような知財面での問題が多発することはないだろう」とする意見とに大きく分かれます。
図1 デリーの繁華街にて(2012年3月著者撮影
例えば、特許出願数等が激増している中国と比べてみると、インド特許庁への特許出願数は増加してはいるものの、2010年に40万件弱となった中国と比べればそれほど多くなく、2010年で4万件(C)以下に過ぎません。さらに内国人からの出願も全体の23%程度(D)と、まだ少ないことを見ても、中国のように知財大国化を予感させるような、インド企業による活発な知財活動は見当たらないように見えます。インドではそもそも製造業がそれほど盛んではなく、他のアジア諸国では25%から34%の比率を占めているのに対して、1980年からGDPの15%から16%程度を推移しており、著しく少なく停滞しているといえます。モノづくりが盛んで、製造業中心のイノベーション戦略を有している中国と、基本的には農業社会で、工業といってもITなどをベースとしたサービス産業中心のインドとは、その知財戦略も異なっていて当然というところでしょうか。インドでも、アジアの特徴である製造業を成長させることを意図するイノベーション戦略と、農村社会を反映したインド独特のイノベーション戦略の2つの異なる方向性を有するイノベーションの考え方があって、それぞれが知財制度や知財戦略に影響を与えようとしているように見えます。
少し以前にとったデータですが、図2は2010年7月にGoogleの検索エンジンを用いて、各国における様々なイノベーション戦略に関するキーワードとして、オープンイノベーションやユーザーイノベーション、プロパテント、科学技術等の用語を検索した際のヒット数を集計し、米国におけるヒットを基準とした相対値をレーダーチャートにプロットしたものです。キーワードは英語で検索していますので、各国の言葉で議論されている頻度とは異なる可能性も高く、誤差を相当含むとはいえますが、その国でどのようなイノベーションが盛んに議論されているかどうかが多少は反映されているのではないかと考えて調査を行なったものです。結果は日本、韓国、中国で、レーダーチャートの形はそれほど大きく変わらず、傾向は相違していないと思われたのに対して、インドでは突出してGrassroots Innovationについてのヒット件数が多かったことが注目されました。
ここで、インドのヒット件数が多いGrassroots Innovationとは、どのようなイノベーションの考え方なのでしょうか。日本語では「草の根イノベーション」とでも訳すのが適切ではないかと思いますが、日本ではほとんど知られていないと思います。実は、プロパテントやオープンイノベーション、ユーザーイノベーション等の用語が、もともとは欧米で生まれたイノベーション戦略であるのに対して、このGrassroots Innovationという考え方は、インドで最近生まれた新しいイノベーション戦略の考え方なのです。そしてこの考え方は現在ブラジル、南アフリカや最近では中国などでも広く紹介され、それぞれの国のイノベーション政策に影響を与えつつあります。そしてこのイノベーション戦略は、それぞれの国の知財制度にも影響を与える可能性があると考えています。次回はこのGrassroots Innovationという考え方が、いったいどのようなものか、そして誰によって、どのようにして生まれたか、そしてそれが知財戦略にどう影響する可能性があるのかについて、述べたいと思います。
図2 各国のウェブサイトに現れたイノベーションに関する用語のヒット件数の頻度
@)外務省ホームページ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/ji60/index.html
A)久保研介「特許制度改革後のインド医薬品市場をめぐる政策動向」、ジェトロ海外研究員レポート、2011年6月 http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Overseas_report/1106_kubo.html
B)薬事日報ウェブサイト2012年3月26日 http://www.yakuji.co.jp/entry25931.html
C)2009年で3万7千件で過去最高だったが2010年は世界的景気低迷のため3万4千件に減少した。
D)2010年の統計
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