第3回 中国の「万里の長城知財戦略(Great Wall Patent Strategy)」 続編
前回、中国のライセンス契約が急増した2008年のライセンサーのおよそ3分の2は個人の特許だったと述べました。このことを2009年の最新のデータで示したのが図1です。ライセンス契約に見られるライセンサーの属性(各属性が特許権に占める割合)を示したものですが、半分強が個人からのライセンスであることがわかります。2008年よりも少し比率は減少していると見られますが、依然多くのライセンサーが個人であることが分かります。このように個人のライセンサーが異様に多く見出された当初は、個人発明家が権利を移転したのであろうと考えたのですが、発明者についてインターネットで調査したところ、ほとんどのケースで、個人名義で保有していた特許を、経営している企業に移し替えていたことがわかったのです。
中国では従業員が業務に関係する発明をおこなった場合は、法人に特許を受ける権利が発生する制度になっていますが、経営者の場合自分の経営する会社に発明等を帰属させると、会社が破たんしたような場合、財産でもある特許が失われてしまう可能性があるので、個人帰属にしているケースが多かったようです。しかし現地で調査したところ、この状況に変化が生じたのは、自主創新政策の一環として、税制上の優遇措置を受けることができる「ハイテク企業認定管理弁法」という制度が2008に施行されたことに関係していることがわかりました。この認定要件としては、直近3年間において、自主開発又は5年以上の実施許諾を通じて、製品の核心技術に対して自主知財権を有することなどの要件を満たす必要があるとされています。自社がもとから特許を保有している場合に加えて、独占契約でライセンスされた場合も認定要件に含まれているため、この制度改正の年以降、経営者個人帰属の特許が経営する会社に独占ライセンスされる件数が急増したものと見ることができます。
このこと自身は、外国企業にとっては望ましいことです。経営者個人帰属になっていたのでは、その企業が実際に保有している権利が調査しても分からないということになり、その企業との商談等を検討する際など、正しい情報が得られないことで問題が生じます。また権利を保有している経営者に関しても、特許調査だけでは個人発明家と区別がつきませんので、それが重要な権利であれば対応の方針に影響を与えます。実際中国の特許の多くが個人帰属であるという外見的な状況に対して、問題のある特許が発見されても、企業ではないのでクロスライセンスができないため、いわゆるパテントトロールのような行動を起こす可能性があるとして、外国企業は戸惑っていた面があります。このような不安定な状態が、契約ではっきりすることは歓迎すべきことです。そしてこのような現象は、ハイテク企業認定制度によって、中国企業の遅れた形態の知財管理が、先進国と同じような形に近づく変化が一挙に進んだと見ることができます。中国政府がこの結果を事前に予測していたかどうかはわかりませんし、このこと自身はイノベーション政策の主たる目的とは言えないでしょう。しかしさらにデータを良く見ると、同時に本来政府が意図したと思われる、中国企業のイノベーションに向かう知財管理の現代化も同時に生じていることが分かります。
つまり2008年以降、中国企業同士のライセンス契約と大学からのライセンス契約も急増しているのです。中国企業のライセンスした特許件数は5063件、大学では1664件となっています。日本の企業間のライセンス件数がどの程度あるかについてのデータはないのですが、日本の大学では多い年でも新たな契約1000件程度であったことと比較すれば、既にかなりの件数です。中国の大学特許もかなりの頻度で技術移転が始まっていると考えられるデータです。最近では中国の大学の特許出願は、日本の大学の4倍以上になっていますが、それが実際技術移転につながっているのかどうかは議論があったところです。しかし今回2009年のデータでは大学から数多くのライセンス契約が確認されたことで、中国大学の出願が、一定比率でライセンスに結び付き始めたことが確認できました。データを詳細にみていくと、地方大学のライセンス契約では独占契約が多いことと比べると、清華大学等の有力大学のライセンス契約では普通契約(非独占契約)が多いことが分かります。有力な特許技術を有している大学が、契約も有利に進めていることが伺えて興味深いといえます。
これらのライセンスの件数が本当にイノベーション活動に関係しているのかどうか、統計的な分析をおこなって確認して見ました。この分析はライセンスが行われた地域毎に取引を分類して、その地域のイノベーション活動がどの程度盛んであるかどうか、弱い産業を補助金などで保護する傾向(保護主義的傾向)がどの程度強いか、経済が輸出に依存する傾向がどの程度強いかなどの因子を、地域の統計で算出して、これらの因子とライセンスの件数とのあいだに相関性があるかを検定しました。この結果、個人から経営する企業へのライセンスを含めて中国企業が関与するライセンス活動はすべて、その地域のイノベーション活動と高い相関が認められました。またライセンスを受ける企業数に関していえば、経済が輸出依存の傾向が高いほど多くなる傾向も見出されました。これは安い人件費に支えられた安価な製品を輸出していた沿岸部の企業などが、独自技術の獲得のために特許ライセンスを受けていることを示唆しています。さらに、保護主義的傾向がある地域においては、特許出願はある程度行われていてもライセンス活動は少なくなる傾向が示されました。すなわち個人から経営する企業への移転も含めて、中国の最近のライセンス活動は、保護主義的な地域では多少抑制されてはいるものの、自主技術が乏しい中国企業のニーズに牽引され、かつイノベーション活動によって強力にドライブされて活発化しているのです。
特許のライセンスに関係して、このデータとは別に、2010年6月に発表された中国知的財産権局による特許運用状況についての特別アンケート調査も参考になります。2008年に権利を付与した中国国内の特許についてのアンケート結果によれば、企業の特許実施率はおよそ80%で、大学でも40%弱となっていると報告しています。企業の実施の場合およそ20%は譲渡またはライセンスによる活用であるとしています。日本でも同様のアンケートがありますが、企業の特許の活用の頻度は50%以下ですから、この数値も前回触れた中国の技術取引所で成約した契約金額と同様、先進国並みまたはそれ以上に中国では特許が活用されていることが示唆されるデータです。
実を言うと、このアンケート結果や科学技術統計年鑑の技術取引所のデータと、今までお話ししてきたライセンス契約の登録データとの整合性はあまり良くありません。法律では登録が義務付けられているライセンス契約が、実際は登録されていないなどで、実際より少なくカウントされている可能性と、アンケート結果等が何かの理由で多めに回答されている可能性の双方が原因としてありえます。しかしこれらを勘案したとしても、現在の中国の特許をめぐる状況は、出願の急増だけではなく、ライセンスなどの活用の急増期を迎えつつあると言えるでしょう。
このような変化はハイテク企業認定制度をはじめとする優遇施策によって半ば強引に引き起こされている変化でもあります。そのために個人から経営する企業へのライセンスなどに示されるように、同時にいろいろなことが生じているため、現象は一見複雑に見えます。振り返ってみれば、中国の知財の環境変化は、1985年の中国特許法制定から25年、2001年WTO加盟から10年の間にすべてが起こっているわけで、これは極めて急激な変化であるといえます。あまりに急速な知財政策の推進に、中国各地域の実態が追い付かず、知財保護水準が同じ国としては例をみないほど、企業間、地域間で大きく異なってしまっています。知財の活用が盛んになっている一方で、保護主義的傾向によって温存されている模倣品や海賊版にかかわる産業も存在しています。日本企業が頭を悩ますこれらの問題も一向に解決する兆しがない状況が続いているのです。「模倣品の跋扈」と「特許の活用の活発化」の2つの状態が共存するのは、一見矛盾するように見えます。これも13億人の大きく多様な国土で、急速にプロパテントに移行しようとしている中国で、必然的に生じている状況かもしれません。
中国のGreat Wall Patent Strategyは、その名の通り、短期間の急激な変化や、広大な国土ゆえに生じる様々な矛盾を、強力なイノベーション政策でそのまま覆い尽くして発展させようとする戦略のように見えます。中国はこのGreat Wall Patent Strategyを通じて、矛盾を抱えつつも、短期間に「世界の工場」から「知識社会の覇者」への変貌を目指しているのだといえるかもしれません。実際Great Wall Patent Strategyは国内知財戦略だけにとどまってはいないようです。直近の2009年の特許法改正では、国際出願に対する助成制度が設けられたことで、現在既に世界5位まで増加している国際出願はさらに加速するだろうと予測されます。中国企業の知財戦略は短期間でグローバル化していくでしょうし、グローバル市場で知財を活用する中国企業は必然的にプロパテントに転じていくだろうと思われます。このような状況の中で日本企業としては、今までの「アンチパテントの中国」に加えて、「プロパテント中国」にも備えなければならなくなったといえるでしょう。
中国の将来を担う自主創新政策、その戦略としてのGreat Wall Patent Strategyによる変化に、今後も注目していきたいと思います。
【参考文献】
渡部俊也, 李聖浩, "中国の技術流通市場",研究技術計画学会第25 回年次学術大会要旨集, (2010).
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