第8回 「ドイツ回想」の巻
この11月は、ベルリンの壁が崩壊してから20周年に当たるため、それに関連したTV番組が数多く放映されています。当時の私は、通商産業省で地域振興担当の課長補佐を務めていましたが、毎日午前様の状態であり、恥ずかしながら、ベルリンの壁の崩壊の事は、深夜に、くたびれた身体を休めつつその日の新聞に目をやって初めて知ったという状況でした。"そうかあ、ドイツが一つになるのかあ。"という感想だけがありました。
大学の卒業直前に、当時の西ドイツに行きました。宿泊予定の小さな町を目指して鉄道を乗り継ごうとしたところ、週末の間引き運転で、乗車予定の列車がありません。駅の構内で困惑していると、紳士に声をかけられました。事情を話す(間違いなくドイツ語ではなく、英語で)と、「自分は、その方向に帰るところだから、送ってあげよう。」と言って車に乗せて下さいました。車中で身の上話となり、翌月からの就職先を話すと、「おー、MITIか。知っている。良い仕事をして下さい。」と言われ、とても嬉しかったです。おかげで到達できた小さな町や、翌日散策した大学町ハイデルベルクは、いずれも美しく、ドイツは良い国だというのが最初の出会いでの印象でした。
ベルリンの壁崩壊から約3年半後、米国留学中の夏休みに、2回目のドイツに行きました。デンマークから夜行列車でベルリンに入ったのですが、予定では、旧西ベルリン側に着くはずが、旧東ベルリン側に着いてしまい、重いバックパックを背負ったまま、乗り換えの電車を聞いても(英語で)、通勤途上の旧東側の人々には完全に無視され、急速に印象悪化。このとき、ベルリンの壁崩壊のニュースで見たブランデンブルグ門の偉容を初めて見上げ、さらにウンターデンリンデンの真っ直ぐな道を歩いて、フンボルト大学を見たりしましたが、6月だったけれど、黒々とした寒い街だなあと言う印象でした。それから、ライン川下りをしたり、行く先々の町で地ビールを楽しんだりして、印象は再向上していたのですが、有名なロマンティック街道に行ってから再悪化。要するに、接客の人々が、皆愛想が無いのです。米国の大学院でヨーロッパ政治の単位を取得直後であった私は、これは、旧東ドイツの人が接客の仕事に参入しているためか、あるいは、ドイツ統一により負担が増した旧西ドイツの人に余裕が無くなってきているためではないかと勝手に分析しましたが、単なる観光客ずれだったのかもしれません。ミュンヘンでは一泊する予定でしたが、ヒトラーがナチス旗揚げを行ったと言われるホーフブロイハウスでビールを飲んでいるうちに、もうドイツはいいかという気持ちになり、夜行列車で脱出しました。
その後、仕事で行く機会も無かったので、もう15年以上もドイツには足を踏み入れていません。けれども、このところ、ベルリンの壁崩壊関連のTV番組を色々と見ているうちに、前世紀に2度の大戦を引き起こし、40年余にわたって分断され、再統一を果たした国家の新世紀における姿を見てみたい、特に、ベルリンの壁崩壊の導火線となった市民デモが行われたライプチヒをはじめとする旧東ドイツのまだ訪れていない都市に行ってみたいという思いが湧いてきました。京都のように、思い立ったらすぐ行けるという訳ではありませんが、であるからこそ、むしろ時間をかけて、再度歴史を勉強し、さらには、大学2年生以来、全くさよならしていたドイツ語に再チャレンジした上で。では次回、また会える時まで、Auf Wiedersehen.
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