第49回 安全学のすすめ−放射能と原発のリスクを考える


(牛乳は安全か)

 アムステルダムのオランダ国立美術館で最も人気のある絵画のひとつがフェルメールの「牛乳を注ぐ女」です。(写真はWikipediaから。)フェルメールは17世紀の中庸に生きた画家で、生涯に残した作品が、本人作かどうか疑問が残るものをいれても30数点しかないといわれていますが、その数少ないそれぞれの作品が高く評価されています。筆者がこの画家の絵を初めて目にしたのは、アムステルダム国立美術館の代表所蔵作品であるこの絵です。使用人と思われる質素な服装な女性が、壺から牛乳を深皿に注いでいる構図ですが、柔らかい光が、窓から壁一面に広がり、台所のこまごました食材や道具などがしっかりと存在感を示していて、見ていてとても気持ちが落ち着く作品です。

 さて、この注がれている牛乳はおいしそうに見えますが、果たしてそのまま飲んでも安全なのでしょうか。17世紀といえば、オランダは世界をまたにかけた通商で富をなし、遠く日本にも出島を造って貿易を行い、また蘭学として西洋文明を日本に紹介した国ですが、だとしても、当時には食品衛生法規はないだろうと思います。市民は、それまでの長い経験に基づいて牛乳を冷暗場所に置き、「未だ飲める」「もう飲むとおなかをこわす」といって管理していたのでしょうか。なまじ「飲んでもに健康被害はない」とよくわからない説明を聞くより自分で判断せざるを得ない時代の方が良かったようにも思えます。急性毒性、慢性毒性、もしかしたら放射能の危険もあったかどうか。レントゲンやベクレルが活躍したのは19世紀末ですから、当時は「放射能」という概念が生まれる前です。それでは、このミルクをきっかけとして安全とは何か、考えてみましょう(少々強引ですね)。


(失敗学と安全学の二碩学)

 福島の事故調査委員会が畑村洋太郎委員長のもと、動き出しました。畑村先生の失敗学には筆者も啓発され、先生と意気投合して、いつだったか忘れましたが、先生の失敗学会か何かの会合で講演したことを覚えています。失敗学もMOTの一分野であると認識していました。畑村先生の「失敗学」では、数多く起きている失敗の事象から、何故これが起きたかを深く掘り下げて研究されています。


 一方、これも筆者の長い知己である明治大学理工学部の前学部長、向殿政男教授は、「安全学」を提唱されています。向殿先生は、元々機械安全の権威ですが、様々な分野の安全について、横串となる哲学、すなわち「安全学」を極めておられ、政府の様々な安全に関する委員会の委員を歴任されています。偽装マンション、エレベーター、回転ドアさらにはこんにゃくの安全性まで、およそ世の中を騒がせた安全問題のほとんどに関与されて(させられて?)おられます。


(ハイボールの意味)

 向殿先生の安全学に関するキーワードのひとつは、フェールセーフです。これは、ハイボールのことです。??


 ハイボールの語源は、英国の鉄道からとの説があります。英国紳士達は、昔は駅でスコッチを片手に汽車を待っていました。そこで、信号機で信号を示すボールがハイつまり一番上の青信号になって汽車の到着を知らせたとき、紳士達はスコッチをソーダで薄めて、急いでぐっと飲み干して汽車に向かったというのです。つまり、ハイボールは信号を示すボールが一番上にある、ということです。何故ハイ、か。それは、何らかの不具合でボールが下に落ちても赤信号になるので、汽車は止まり、安全が確保される、つまり故障時(フェール時)に安全(セーフ)という設計思想からなのです。詳しくはこちらの向殿先生のHPをどうぞ。フェールセーフの要点をこの向殿先生の文章から一部引用します。


 「私たちの日常生活でも、失敗しても大丈夫という構造を前もって組み込んでおけば、安心して物事に集中し、努力することができると思います。そういえば、人間は間違えるものですので、人間が間違えても大丈夫なようにするフールプルーフという技術、すなわち、フール(馬鹿な間違えをしても)プルーフ(防止する)技術の方が日常生活には関係が深いかもしれません。フェールセーフ技術やフールプルーフ技術は、技術で安全を守るために最初に考えるべき基本的な技術です。そして、信号機やしゃ断機などのフェールセーフ技術に見るように、安全を技術的に確保するには、構造と原理があります。たしかに新しさは感じられないかもしれませんが、安全技術の専門家は、まず、この勉強から始めるべきしょう。安全装置やコンピュータを用いて“止める技術”の前に、本質的安全設計である“止まる技術”をあらゆる安全の分野で、もっと真剣に検討すべきであると考えます。」


 原発が結果的にはフェールセーフでなかったことは今回の事故の顛末でも明らかになりました。何重もの安全装置が、大津波の前に消え去りました。フェールセーフを設計思想に十分に加えていれば、全電源が落ちたとき、重力の力で自動的に燃料遮蔽板が燃料棒を遮断するか、大量の冷却水が落ちてきて、放っておいても原子炉が低温停止する、そのような自然に安全に傾く用に仕組まれたシステムは、(コストをかければ)設計可能のように思われます。(すいません、素人考えではありますが。)


(安全性とは)

 今回の放射能汚染の安全性について先生と議論した事柄があります。それは、「電車のホームで、猛スピードで走る通過列車のそばを子供が立っていることの安全性の問題と比べれば、今回議論されている放射能の安全基準は、ホームの端から100メートル離れるのか、10メートルがいいのか、という議論に聞こえる」という話です。


 筆者の薄弱な知識ではありますが、これまで年間200ミリシーベルト以下の被爆量での医学的データは極めて少なく、有意な死亡例等は報告されていないということでした。これを、同じ発ガン性、つまりDNAを傷つけるおそれのある化学物質の慢性毒性の安全性の議論を引いてくると次の通りです。


 「安全性」への考え方については、放射能にしても、化学物質にしても、安全性において取られている科学的立場は、「危害(ハザード)」と「その可能性」の組み合わせです。放射性物質の発ガン性に対するリスクも、基本的のこの両者の組み合わせを考慮して決められます。この考えについて、筆者が以前東京農工大学の学部生に行ったバイオの安全性に関する講義資料から抜粋すると以下のようになります。


リスクとは

 ・危害がおこったときの結果の大きさと、その結果が起こる可能性の組み合わせであり、危害の潜在的悪影響の大きさ(可能性を含んだ累積的総和)を表す概念

 ・経済活動の問題に当てはめれば、個々の活動、商取引には必ず問題があるが(ハザード)、知識、経験などを適切に組み合わせて対処することにより決まる


 先ほどのホームの子供を例に取れば、スピードを出している電車にぶつかればその危害の程度はほぼ即時に死に至るほど極めて高い「ハザード」であり、また可能性にうち手は、何もさえぎるもののないホームの端近くに子供がいれば、事故の可能性は極めて高くなり、結果としてリスクは大変大きいことになります。一方、白線の後ろ、またはホームの端から(仮に)1メートル程度以上離れていれば、危害が起きる可能性はある程度低くなり、リスクは小さくなります。これを5メートル、10メートルと離れていっても、少ないリスクがもっと低くなってゼロになるわけではありません。無視できる違いだと言うことが直観できるでしょう。ここで、仮に1メートルとした値が「閾値」で、これ以上下げてもあまりリスクには関係のないという境目の値になります。実際はホームの幅が上限になりますが、ホームの反対側にいても、ホームに1メートル程度に近寄ってもリスクはほとんど変わらないということです。


(放射能の安全性)

 これを、比較的低レベルの放射能のリスク(@)にあてはめると、それらを被爆したときのリスクは、単純に言えば、

 ・放射線源によりおこりうるガンの危害の大きさと、ガンとなる可能性の組み合わせ

 ということです。広域の放射能汚染について当初発表されたことは、放射性ヨードの濃度が、(乳児が長期摂取するときの)基準値を超えている、ということが主なものです。またその基準値が乳児の甲状腺ガン発症の可能性によるものとすれば、次の様な説明になります。

 ・「放射性ヨードを摂取すると甲状腺ガンになりやすいとされる乳児期の児童が、一年間摂取してもガンにならないとされる基準値を超えた値が原乳(または、水道水)から発見された」


 しかし、実際、疫学的に証明された閾値はないようですので、便宜的にこれまでリスクが高いとされた放射能量の下限に安全係数という数字を掛け合わせて求めたのが基準値、ということでしょう。この安全係数という考え方は、土木や機械の安全の世界でよく使われますが、経験的なもので、またコストも勘案して設定されるものです。放射能汚染の経験は必ずしも多くないので、安全係数の決め方は難しかったでしょうね。


 現在報道されている我がふるさと、静岡のお茶の汚染など、生産者や県の担当者は、飲用すれば問題ない基準となる、とコメントしていますが、一方で風評被害を防ぐために、基準値を超えた茶葉の出荷を止めているとしています。大変なご苦労です。ここでも、茶葉の放射能の基準が何を元にどう設定されているのか、駅のホームの話で言えば、1メートルなのか5メートルなのか100メートルの議論をしているのか、よくわかりません。基準を超えた、とだけ騒ぐのではなく、その基準がどのような考え方で設定されているのか、よく説明していただく必要があります。そうしないとお茶農家だけでなく、普段から静岡茶を楽しんでいる市民にもいたずらに不安を与えるだけです。


(安全学を確立しよう)

 安全に関する規制の考え方は、ややもすると縦割りで、また必ずしも科学だけを基本にしたものではなく、経験にも基づくもの、関係業界とのバランスを考慮したものも散見されます。このアンバランスを解消していくためには、向殿政男先生の提唱する横串の「安全学」を確立し、様々な規制官庁の共通の理解にしていくことが大変有効だと思います。向殿先生、「安全学会」設立に向け、頑張りましょう。



(@) 原発内の高濃度の放射能の議論とは別です。こちらは急性毒性と同じように、即時に生命の危険を生ずるレベルの問題です。




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