第16回 中央線の車中にて


 朝、満員の通勤電車に乗り込むと、いつもと違った明るい透明感のある空気があって、軽い違和感がありました。それは車窓から時々見える満開の桜の木々のせいばかりではありません。若い男性達が、関西なまりも混じって笑いながら話している声が聞こえます。そうか、今日は4月1日だったな、吉祥寺の先の会社の寮かビジネスホテルから、連れだって入社式に向かう若者が乗っているのでした。彼らは、そろいの濃紺のスーツの小脇に真新しい布貼りの黒い鞄を抱え、今日ばかりは期待に胸をふくらませてとりとめもなく談笑しているのでした。たぶん、数日たてば、前日の緊張に疲れて無言でつり革にもたれる電車の中で。



  前の日、3月31日の夜には、特許庁の退職者達の歓送会が、ビル内のあちこちでささやかに開かれていました。筆者の所属する審査業務部は、正規職員だけでも400人近く、調査員や派遣職員を含めると500人余の大所帯です。昨夜は都合6カ所で紙コップを掲げて、退職者のご苦労をねぎらってきたのでした。彼ら・彼女らは、40年前後にわたって、この特許庁を支えてきました。今の重厚な庁舎が完成する20年以上前、古びた旧庁舎に入庁され、その後現在の経産省別館に移り、またこの霞ヶ関三丁目に戻ってきました。
(写真は特許庁旧庁舎 出典http://www.tokugikon.jp/


 その間、特許庁ではあまたの産業財産権法の改正を行い、それに加えて、世界に先駆けて電子化・ペーパーレス化をすすめ、世界でも有数の知財官庁を確立してきたのでした。その基盤には、事務官や審査官の地道な業務がありました。それまで「包袋」(*i) と呼ばれる関係資料を束ねて入れた封筒が庁内を行き交い、長く大きな棚に保管されてきました。電子出願が始まって、包袋は姿を消し、全てのデータはコンピュータ上を行き来するようになったのです。電子化導入前後の担当官のご苦労は大変なものだったでしょう。さらに、出願や審査、検索、登録などのシステムでは改良を重ね、政府部内の中でも一、二を争う巨大かつ緻密な情報システムができあがったのです。現在このシステムを新たに最適化するプロジェクトが動いていますが、合併直後の銀行システムや航空管制システム、鉄道制御システムなどの初動のトラブルをニュースで見るにつけ、こりゃ簡単ではないな、と感じます。現在、特許庁をあげて新システムの構築に取り組んでいるのです。


 4月1日には、各所で入社式が行われます。霞ヶ関でも、各省庁で入省・入庁式が行われており、真新しいスーツに身を包んだ若者が緊張しながら大臣や長官の訓辞に耳を傾けたことでしょう。特許庁でも73名の新規職員を迎えて、厳かに入庁式が行われました。細野哲弘長官からの訓辞は、特許制度125周年を迎えたことを踏まえ、この制度の父である高橋是清初代特許庁長官の偉功に触れつつ、行政官、特に経済産業省職員としての気概を説いたものでした。陪席した我々幹部職員もいつになく身の引き締まる思いで聞き入りました。なお、細野長官は自他共に認める「オヤジギャグ」の達人ですが、さすがに訓辞にはそのかけらもなかったのは少々残念ではありましたが。


 入庁式で堅い表情で座っている新入職員を眺めてみると、さすが特許庁、すっきりした勉強の出来そうな顔が並んでいます。知財の審査や実務には、相当の頭脳力が必要ですから、これは頼もしいと感じます。しかし、一方で、我々は、知財制度のサービスマンでもあります。いつもにこやかに、いやなこともいとわず、お客様である知財ユーザーのため、日々精進して業務を遂行することが必要です。また、知財は生き物です。経済情勢、産業動向に応じた生きた知財制度を構築し、提供していくことが我々の使命です。したがって、頭が良いだけでは十分ではありません。細野長官がおっしゃるようにアンテナの高さも必要です。いわば、IT武装された生鮮担当の動くサービスマンということになりますでしょうか。(なんのこっちゃ?)動くサービスマンになれとは、役所に入ることと正反対に思われるかもしれませんが、本質はこちらにあると筆者は思っています。


 4月に入ってしばらくすると、今度は入学式のシーズンです。筆者の息子も、二度目の大学生活を送るため、にこにこと京都に旅立っていきました。うらやましい限りです。人生初めての下宿生活、楽しみながらしっかり勉強に励んでください。お父さんも頑張って仕送りします。京都といえば、京都大学産学官連携本部長の牧野圭祐教授や、理学研究科の情報分子生物学の権威、藤吉好則教授、工学研究科のナノガラスの平尾一之教授をはじめ、立派な先生方にお世話になっています。筆者も往事産学官連携本部のご依頼もあって、短い間、京都大学客員教授を仰せつかり、定期的に産学連携の学内会合に出席させていただきました。そのとき、会議の合間に古都を歩きたいと思い、京都歩きのガイドブックまで買い込んだのですが、いつも日帰りのあわただしい旅程で、その余裕がありませんでした。一度だけ京都駅から京大行きのバスに乗り間違えて、吉田山の反対側から山林を越えて吉田キャンパスにたどりついたことがあります。吉田神社までの古い商家の残る街並みや山裾の深い森を巡るひなびた歩道は、京都の季節を感じるのに十分な寂のある風景を形成していました。現在京大には経産省から岡倉伸治教授が産学官連携センターに派遣されています。これもうらやましい。京大の皆様、使い減りのしない岡倉君をどうぞこき使って産学連携を進めてください。


 おわりに、ひとつ。4月1日、パテントサロンというwebサイトに「特許庁,香り商標の導入に備え,商標審査犬を採用、犬の嗅覚を審査に活用」という記事が掲載されて庁内関係者は大笑いでした。特許庁総務課に問い合わせたところ、「記事解説は不要」とのことでしたが、「記事解説案」を脚注(*ii) につけておきます。パテントサロン様、楽しい記事をありがとうございます。


 新年度を迎えて浮ついた文章になってしまいましたが、今回はこれにて失礼します。





(@) 世界の特許庁で使われてきた審査書類管理方法。米国特許商標庁ではファイル・ラッパーという。たとえばドイツ特許庁でも包袋を使用しているが、オンライン公報発行手続(PDF)を行っており、同時並行的に、(庁内で)電子化されたデータを取り扱っている。写真はドイツ特許庁内の棚に並ぶ包袋。

(A)記事解説(4月1日AF用バージョン)
見出し  「特許庁,香り商標の導入に備え,商標審査犬を採用、犬の嗅覚を審査に活用」(4月1日(木)パテントサロンほか)
事実関係  概ね事実、、誤報
○現在産業構造審議会商標制度小委員会において、音、ホログラム、動きなどの新しい商標の導入について検討を実施中
○香りについては、記事にもあるように昨年の同小委員会ワーキンググループにおいて、検討の対象にすべきではないと報告されている。
○新しい商標の具体的な審査の在り方についても、現在審査基準を含め検討を行っているところであり、音等のこれまで経験していない商標の審査方法については、審査犬や動体視力に優れる審査鷹(動きの商標用)、耳の長い審査ウサギ(音の商標)の導入も含め慎重に検討を行っていたが、総務省の定員管理規定に抵触するおそれがあるほか、現行の審査官に科せられた厳しい審査目標を達成しようとすると動物愛護協会からの反発が予想されること等のため、導入を断念した経緯あり

記事一覧へ