第14回 駅前の区立消費生活センターにて


 今回は趣向を変えて、先日受けてきた体験型の研修の「感想文」をお届けします。行政のイノベーションにつなげていくことを自ら期待して。


 ほのかな白い雪がゆっくりと舞う日の朝、私は私鉄沿線のある駅のバス停に降り立ちました。そこは、都心から二十分ほどの住宅地の駅で、平日でしたが既に通勤や通学の人の流れはまばらになって、静かになった駅前の広場に立つビルの二階に、その施設はありました。


 この区立消費生活センターで、私は研修を受けることになっていました。「昇任時相談窓口等体験研修」。私の受ける研修の名前です。これは、中央省庁の審議官・部長クラスに昇任した職員が、「消費者、生活者を主役とする行政を担う国家公務員の意識改革」を目的として、窓口業務を行っている地方自治体を含む行政機関に赴き、相談窓口業務を丸一日「体験」する、というものです。この研修について官房秘書課から連絡を受けたときは、少々面食らいました。私は、自らは窓口に立つことはないものの、特許庁一階の出願関係の窓口の担当部長でもあります。消費者行政を直接担当する課には属したことはありませんが、以前課長をしていたサービス産業課は、エステティック業界や、結婚情報サービス業界などの消費者問題には事欠かない業界も担当していて、その課では、消費者対策の観点からも業界の適正化のための方策、特に新しい認証制度(企業のサービスの質を第三者認証する制度)の導入などを進めていました。そういえば、入省したての頃、いかにもマルチ商法に聞こえる洗剤の販売について一般の方から問い合わせの電話があったことを思い出しました。その商法は問題がありそうだと説明する私に対して、「でも、よく落ちるのよ、この洗剤。」そう言ってその電話は切られました。今更、改めて「消費者を主役とする行政を担う公務員の意識改革」もないもんだ、と思ったのです。でも、この研修は一律なもので、各職員の職歴には関係ないようでした。また、一方で、私個人としては、一日でも地方自治の現場に立ってそれを体験できるということには大変興味がありました。


 そうしたいくぶん複雑な気持ちを抱きながら、その朝、消費生活センターの受付を訪ねたのです。受付でセンターの所長の名を告げると、中から私より十歳ぐらい若く見える男性が出てきました。所長は、動き回るのに都合の良さそうなジャンパーの下にネクタイという姿で、いかにもまじめで気の良さそうな地方自治体の職員という感じに見えました。口元に軽く笑みを浮かべながら私を迎えた所長は、フロアの一角にある事務エリア内の会議机に案内してくれました。いただいた名刺には、区の経済課消費生活係長、とあります。三年ほど前に、区の本庁舎からこのビルに異動されてきたとのことでした。所長は丁寧に研修の説明を始めました。消費者庁から区の幹部に研修の話があったとき、消費生活センターの広報にもなろうとの考えから幹部は受け入れを決めたこと、国からの研修生は私が初めてであること、区の職員でさえ消費生活センターの業務をよく知らない人が多く、普及・広報の必要性を所長自ら感じていたこと、この区には独り暮らしの老人世帯が多く、こうした老人を狙った詐欺的な事件も多いので消費生活センターの役割とその広報は重要なこと、このセンターには有名な相談員がおられ、彼女を慕って優秀な相談員が集まっていることなどを穏やかな口調で話してくれました。私は幾分緊張が和らぎ、自分のこれまでの業務や消費者問題との小さな関わりなどを簡単に説明しました。


 それから、所長の先導で、センター内の最近改装された個別相談室やセンターに併設された市民に提供している会議室・セミナー室などを見せていただきました。平日の午前というのに各会議室ともほぼ一杯で、市民団体などいろいろな人々が会合を開いていました。また、施設の一角を区内の30以上ある消費者団体に解放することで団体の活動を支援しているとのことでした。一方、センターのフロアの対面には、五年ほど前に設置されたハローワークの支所のような地域職業相談室があり、雪の朝というのに、備え付けのベンチにはすでに数人が窓口の順番を待っていました。所長によれば、設置直後は閑古鳥がないていたところが、昨年後半のリーマンショック以降、利用者が急激に増えたとのことでした。


 区の施設をまわった後、相談員の皆さんにご紹介いただきました。相談員は総勢8人、全員が女性です。この日はそのうち6人が勤務されていました。彼女たちは非常勤職員として採用されていて、週4日ほどの勤務制になっているそうです。私より少し若いか、少し先輩の方々が多く、特許庁の名刺を渡すと少し硬い表情で受け取ってくれました。難しそうな役所の異分子が入り込んできたと思われたのでしょうか。しかし、私がエステサロンや英会話教室の業界を担当していた話をすると、「あらまあ、そうなんですか」と、急に顔から不安げな表情が消え、親しみをもった笑みがこぼれたような気がしました。少し驚いたのは、相談員の方々は、いずれもその職歴が長く、中には経産省の消費者相談室や、内閣府の相談室に勤務していた経験のある方もおられたことです。また、各種委員会活動にも参加され、特に、はじめにお聞きした有名な相談員は、ある省の重要な審議会の委員をされているとのことでした。当日も、お一人の相談員は、経産省の研究会に呼ばれていて午後早退されました。区立消費生活センター恐るべし、というところですね。


 それから私は、午前から午後にかけて、相談員室の空いている椅子に座って、ひっきりなしにかかってくる電話への応対を聞きながら、相談内容や対応について相談員に解説していただくという研修が始まりました。相談員室はそれほど大きくないスペースでしたが、明るい大きな窓のある部屋の一角を仕切られていて、ブラインドの隙間から外の街並みがよく見えます。部屋の中は、会議卓を中央にして周りに相談員の机が配置されていて、相談員は電話を終えて振り返るとすぐにほかのメンバーと意見交換ができるようになっています。以前は事務室の入り口付近にあった相談員室を明るいこの場所に移して個別相談室も改修したのは所長の提案のようですが、その費用は、21年度の政府補正予算の基金による補助へ申請してまかなったそうです。各人の机には、デスクトップのパソコンと電話が置かれ、電話には受話器の代わりにマイク付きヘッドホンがつながっていました。それぞれの相談員の対応ぶりは他の相談員の耳にも入ってきますが、何か複雑な問題や新しい話が入ると、かかってくる電話の合間に、相談員同士ですぐに相談できるように工夫されていました。相談の電話は波があるようで、ある時はほとんどの相談員が電話に取りかかっていたり、ある時は10分以上電話がなかったりしましたが、電話がないときは、相談相手や企業にフォローや照会の電話をしたり、記録をしていたりして、相談員の皆さんは決められた休息時間以外はずっと仕事にかかっているように見えました。


 私には相談相手の声は聞こえないようにしていただきました。個人情報保護の観点からそうすることが妥当ですし、また研修で大切な相談の邪魔はできませんから。したがって、ここでは個別の相談内容のお話しはできませんが、いろいろな商取引や契約などで市民一人一人が悩み、苦労している様子が、相談員とのやりとりで見えてきました。相談員は、優しい口調で、複雑な事情を丁寧に聞き出し、問題の所在を明らかにしながら、言いかけた言葉をときどき飲み込んで相手の声に耳を傾けます。また、多岐にわたる法的な知識をもとに、相談相手に対して的確と思われるアドバイスを次々としていきます。相談員が応えるための事例集やパンフレットなどいろいろな資料は会議室に保存されていつでも見ることができます。最近増えている携帯電話やインターネットのトラブルなどでは、最新の技術的知識も必要です。相談では、所管の省庁の相談窓口や弁護士会が運営する組織を紹介することもあります。1回の相談電話は数十分にわたることもありますし、また相談が1回の電話で終わることもなく、何度もやりとりをすることが多いようです。とても手間のかかる業務です。驚いたことには、相談相手のトラブルの当事者である企業などに相談員自らが電話して、その対応の問題点を伝え、解決を依頼することもありました。その毅然としつつ、丁寧で穏やかな口調は、聞いていてとても頼もしいものでした。


 相談員は、電話が終わると、その内容を所定のフォーマットでパソコンに打ち込みます。1回の電話で相談が終わることはまずなく、相談相手は、アドバイスをした相談員の名前を聞いて、ご自分の対応結果を電話してきますので、その都度書き込みをしていきます。そうして書き込まれた相談案件は、区の職員が毎日まとめて東京都に送り、そこから独法の国民生活センターに集約されていきます。このシステムをPIO−NET(パイオネット:全国消費生活情報ネットワーク・システム)といいます。全国の関係機関から集まった消費生活相談の情報、約百万件が毎年ここに集約され、整理されて関係機関に提供されるのです。このシステムを使えば、最近どんな案件が消費者問題になっているか、どの企業の問題が何件あるか、たちどころにわかります。問題の内容や企業名を打ち込めば、すぐに内容が表示されるのです。今年の4月からはこのシステムが改善され、いままで相談員が書き込んでから手作業で集約して国民生活センターに送られていたものがオンライン化されます。そうすると、これまで集計にかかっていた日数が大幅に短縮され、各行政機関が現場の市民に起こりつつある問題を即座に察知し、対応することができるようになります。なお、相談相手の個人情報はオンラインには載らず、各センターの手元にのみ記録されます。そんなオンラインシステムが、今時まだできていなかったのかという気もしないではありませんが、これは行政にとっては大きな改善になることでしょう。


 「窓口」での研修は、最後に所長へ研修報告をして、無事終わりました。私からは、この研修は研修先の業務を今後どうするかと評価することが目的ではなく、自らの行政分野について今後の在り方を考える契機とするものであると改めてご説明した上で、このセンターが相談員という専門人材をいかに大切に考えているかということ、国全体としても自治体としても人間集団としても消費生活相談を支える価値あるネットワークが構築されていることなどを気づきの点として報告しました。所長や皆さんに挨拶してセンターを出ると、向かいの職業相談室の前のベンチには、もう受付時間が終わっているというのに、たくさんの人が座っていました。男性、女性、お年寄り、中年、若い人、様々な人たちです。


 その日は、雪のせいか、直接相談に来られる方はおられませんでしたが、相談員室に座っているだけでも、私にとっては新鮮な経験になりました。私がこの研修で、がらっと違う視点を持った行政官になれるのかどうかは、これからの努力次第です。しかし、異なる分野の現場で行われている行政に携わっている方々の思い、考え方、工夫などを垣間見ることができ、考えることはたくさんありました。また、少なくとも消費者の一人として、こんなに頼もしい人たちが市民生活を守っているのだ、そしてそれが国全体でネットワークを形成しているのだ、ということがわかって安心しました。専門人材がネットワークされているこの消費者相談の世界をうらやましくも感じました。こうした専門職のネットワークは、他の行政分野にも規範になるかもしれません。また、全国的な情報システムが行政をサポートしていくことも実感できました。もちろん、外部の人間がたった一日、お仕事を部屋のすみで見ていただけですから、この世界を全て理解したわけではありません。また、この行政にも、地方と中央のバランスとコスト、専門人材の処遇など、解決すべき課題もあるのでしょう。しかし、センターを後にしてバスに乗り込んだ私の気持ちは、その日の雪空が消えて夕方の陽光が差し込んできた空模様のように気持ち良く透き通っていたのです。それは、ただ知らない街で一日過ごしたからだけではないでしょう。


経済産業省特許庁審査業務部長橋本正洋




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