第13回 イノベーション政策学 その2


 先日のイノベーション政策学ワークショップは、初心を思い出すには非常に良い機会でした。これを踏まえて、あるべきイノベーション政策の執行体制を再考しています。ワークショップにてご議論していただき触発いただいた皆様に感謝します。


 筆者の考えるイノベーション政策学については、この場でも体系的な紹介をしないままに雑感を述べるにとどまっていたきらいがあります。今回は、イノベーション政策学の必要性を筆者なりの観点で整理していきたいと思います。


「イノベーションのスピード」

 『イノベーション戦略と知財』の第一回に示した図を再掲します。この図は、『イノベーション戦略とNEDO』最終稿にも出てきますが、ここで申し上げたかったことは、イノベーションの三層構造を貫くべき、イノベーション及びイノベーション政策のスピード感です。最近のバイオやITという21世紀を支えていく技術、さらには新エネルギーや環境技術を支える新材料などの技術開発においては、イノベーションのスピードは格段に速くなっています。この原因はいくつか挙げることができますが、明らかに言えることは、一つは知の爆発です。そしてこれをもたらした最大の要素は、IT・デジタル技術の驚異的進展です。バイオの世界でも、たとえばDNA解析及び応用技術の格段の進歩の根源の一つには、情報処理技術の裏付けがあります。タンパク質の立体構造解析は創薬開発に欠かせない技術ですが、これも最新のIT技術がサポートしています。


「DNA配列と特許」

 余談ですが、知財の世界でもその影響を垣間見ることができます。特許出願においてはDNAの配列データが必須になることがあります。最近のDNA関連の出願では、20MB以上の膨大なDNAデータが添付されていて、これを従来の紙での出願で行おうとすると、膨大な量の打ち出しが必要で事実上不可能です。担当者の話では大きいものでは、239MB(ページ数で約13万頁)になるものがあったそうです。特許庁では各国に先駆けてペーパーレス化を進め、オンライン出願を可能にしました。このため、こうした膨大なデータ添付も、そんなに負荷なく出願ができるようになっていますが、最初ISDNで受け付けを開始したときは、DNAデータの添付など予想されておらず、2MBの設定だったようです。その後、DNA配列データの様な長大データの送付を伴う出願が出現したため、平成12年1月から20MDのデータが送付できる様になりました。しかし、これでも足りませんね。インターネット出願が始まって、200MBまで出願できるようになりました。これでほとんどの出願も心配なく行えるようになりました。もっとも、前出のような莫大なデータの場合、緊急避難としてフロッピーかCD−Rにより出願できるようになっていますのでご安心ください。


 なお、特許庁のオンライン出願においては、今年の3月末でISDN出願を廃止し、4月からインターネット出願に一本化されます。これには自治体等が発行してくださる電子証明書が必要となります。電子証明書を有していない出願人は原則として紙で提出することになりますが、出願に電子化費用が必要となりますので、膨大なデータを添付する方だけでなく、皆様、お早めに対応願います。期限は3月一杯です。


「政策議論の場」

 閑話休題。こうした、知の爆発とスピード化に対して、従来の政策現場でとられている手法では対応が難しくなってきたと考えています。具体的にはどういうことでしょう。


 政府が政策を議論するときは、研究会や審議会の形式で、外部の有識者の意見を聞き、調整します。当初審議会という調整機能に懐疑的のようにみえた現政権も、いくつかの研究会を立ち上げ始めました。このとき、高名な学識経験者及び大物の企業経営者(またはそのOB)からなるこれまでの典型的な政策審議体制は、利害調整こそ重要な場合は機能するかもしれませんが、対象が最先端の分野、複雑な分野を扱うときは、直近の研究成果・技術・知財動向、特に若い研究者の知見が重要で、これらのメンバーでは足りません。イノベーション政策はその最たる例と言えるでしょう。例えば情報産業の将来を議論するのに、web2.0に無頓着だったり、自分で持ち込んだパソコンが数年前の古いバージョンのOSだったりする学者の知見や、21世紀のイノベーションの議論をするのに古いビジネスモデルの経験に固執しがちな大物経営者との議論は役に立たないどころか、マイナスに働くおそれがあります。こういう経験があります。審議会の場ではありませんでしたが、大学の非常勤講師として招かれた大企業経営者の経験談を技術経営の講義として聞いたことがありました。その企業は、ビジネスモデルが一部破綻して厳しい状況にありましたが、彼が経営者の時に、どこが失敗して経営がうまくいかなかったのかを分析していただければ相当役に立つ講義立ったと思いますが、話は「自慢話」に終始していて、ほとんど時間の無駄でした(失礼!)。もっとも、一緒に講義を聴いていた学生達は礼儀正しくて、「何故貴企業は苦境にあるのか、経営の責任はどう考えるか」などという野蛮な質問はありませんでしたが。


 話を戻すと、最前線の若手研究者や敏腕経営者が、政府の政策議論に貴重な時間を割いて出席することは相当難しいことでしょう。会議体の運営にも改革が必要です。この点、筆者もオブザーバー参加させていただいた、一昨年に開催された経済産業省研究開発課土井良治課長の主催した「イノベーションエコンシステム研究会」は、開始時間は必ず夜の勤務時間後ということもあり、現役の研究者やベンチャー経営者などの論客が多数参加されておられ、現場のイノベーションに関する知見が盛りだくさんの会合になりました。その報告書も、最新のMOTを背景に臨場感のある分析を行った見事なものです。

報告書:「日本の強みを活かした元気の出るイノベーションエコシステム構築に向けて」


 また、IBMなどの多国籍企業が頻繁に電話会議やインターネット会議を駆使しているのを見聞きするにつけ、メンバーの人選のみならず、選りすぐられた人たちが十分な準備をして参加できるよう、検討する場の在り方も現代的にイノベートする必要を感じます。Face to faceの会議も実は大切ですが、十分な議論を限られた期間でやってのけるには、専門家による深い洞察と検討を踏まえつつ、その専門家が参加できるようなバーチャルな場の設定が必要かもしれません。(2月12日付の日経朝刊にIT政策にかかるネット審議会設置の記事がありました。正しい選択かと思いますが、遅きに失したというのはちょっと厳しすぎる意見でしょうね。)この対極にあるのが、先日行われた短時間でお白砂のような場で重要政策に改廃の結論を下していた会議だと思う方もおられるでしょう。政策の必要性を「市民目線」で公開して議論することそのものは画期的です。が、その分野の課題を明確に理解した専門家が査定側にいないことには公正かつ適切な議論ができないのではないかとの指摘もあります。その分野の利害がない人たちにゆだねる方がよりよい議論ができる可能性が高いことはよくあることですが、歴史的背景や科学的バックグラウンドを全く理解しないで議論を行うことは危険です。例えば、科学技術政策(これからは、科学・技術政策というようですが)に関する議論を行ったり、それに対する国の関与の在り方を議論したりするのであれば、学術や知財、イノベーションやイノベーション政策に関する基本的な理解を有する方が数人でも参加することがより高度な結論を導けるということでしょう。また、ここで議論する範囲ではありませんが、大きな政策決定に関与するには、それなりの資格が必要で、特に倫理的な問題、利益相反の有無について、厳しく監視されるべきことは当然のことです。(ある組織に属する人が、その組織と競争関係・トレードオフの関係にある他の組織の改廃について議論に参加すべきでない、といったようなことです。)たとえば国会における予算審議の場は、まさにこうした厳しい監視を経た方々同士による、事前に十分研究、勉強したのちの高尚な、「公開の議論」であるということですね。期待しましょう。


「政策立案のための分析と評価」

 また、土井良治課長は、省内で研究開発政策のセミナーをBBLの方法で主宰されています。土井課長のBBLで使われた「MOT基礎資料」を見ると、基礎と言うには相当高度な資料で、特にその中で、国家戦略の議論に不可欠と思われる2つの分析を行っています。


 ひとつは、NISTEPによる学術論文ベンチマーキングの分析です。ここでは、分野をいくつかに分けて、日米欧と中韓の論文数の増加を測っています。おもしろいのは、先のお白砂で問題となった計算機のナショプロにも関係すると思われる計算機科学と数学の日本発の論文の世界比率がきわめて低く、かつここ数年で延びていないとの記述です。ナショナルイノベーション(エコ)システムで重要な基盤となるべき学術分野の蓄積や伸びが圧倒的に低いということが指摘されているのです。一方で、従来劣位にあった生態学や臨床医学の伸びは極めて高くなっています。これらは、科研費等の学術分野への資金配分のゆがみによるとの指摘があります。確かにライフサイエンス分野への資金投入は、米国には劣るものの、一定の伸びを示してきました。日本のこの分野の学術研究は、iPS細胞の山中先生を例に出すまでもなく世界一流です。このような伸びのある分野にはイノベーションの種が豊富である、ということが言えます。一方、前述のIT分野、特にソフトウェアやアルゴリズム、アーキテクチャの学術分野には、十分な投資がされてきたのか、との指摘があります。筆者が以前学会発表した検討によれば、日本のIT分野の卒業生は、米国に比べて一桁少ない状況が、ITが伸び盛りの80年代から90年代に続きました。学術への投資、教育への投資が経済社会への期待と大きくずれていたのです。21世紀に入り、東大に「情報学環」という専門の学部ができるなど、改善されているようですが、もう手遅れではないかという感慨が、最近のコンピュータシステムを巡るテレビニュースを見るにつけ起こってしまいます。いずれにしろ、学術分野で活性化している分野においては、ここを選択して産業化を促進するための基盤がある、ということは確実に言えます。


 もう一つの分析は特許出願です。これについても分野別に特許出願数の推移を見ており、日本が強いといわれるナノ分野でも、エレクトロニクスは強くてもライフサイエンス系は欧米が勝っていることや、製造技術分野でも他国の追い上げが急であることなどおもしろいことが指摘されています。


「坂田教授のブルーライン」

 こうした、学術論文の分析を経て特許分析を行うことは、イノベーションの三層モデルにおいては不可欠なアプローチです。さらに分析を多様に行うためには、土井課長の引用した分野別推移だけでなく、筆者もここで何度か紹介したネットワーク分析が効果的です。


 ここであげるのは坂田一郎教授らの作成した、世界の燃料電池分野の学術研究における共著分析です。図に見えるブルーのリンクが、国内や国を超えた共著を示し、線の太さが連携の強さを示します。これを坂田教授がOECDのイノベーション会合で発表したところ「blue line」と呼ばれて反響を呼んだということです。欧州などは、国を超えた連携をユーレカやフレームワークプログラムで強く推奨していますが、この分析はそうした効果を計る上できわめて有効です。これを見ると、この分野で特に研究の進んでいるといわれる日本に於いて、むしろ国内、国外の連携が弱いことが見て取れます。また、中国に比べても欧米との連携が弱いことがわかります。今後このブルーラインを濃くしていくことがより競争力の高い研究を進めることができることは容易に想像できるでしょう。


「イノベーション政策学の今後」

 坂田教授は、前稿でご紹介したワークショップに於いて、イノベーション政策の研究のメニューを示されました。今回ご紹介したように、現状でも政策の方向性を示すための科学的な分析はある程度可能ですが、より分析方法を深化させることも必要です。坂田教授達は、最新のIT知識を駆使して、こうした客観的な分析手法を開発しています。こうした努力が、様々な方面のイノベーションを促進することに役立つことが期待されます。


一方、重要なことは、実際の政策立案にこうした科学的分析評価を如何に反映させることができるか、です。これには、政策立案者、政策決定者が、虚心坦懐にこうした分析を受け止め、評価し、反映させようという強い意志が必要です。そしてそれは、これらの人たちの意識の底流に共通させることが重要です。


 次回は、この点についてお話ししたいと思います。また雑感風になってしまいましたね。




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