第8回 イノベーションとは言えない、ささやかな私の経験
    ―その1 真円の研究開発経験―


 DNDのイノベーション緊急提言を読ませていただき、このところ気落ちしていました。というのは、皆さんの高邁な議論にとてもついてゆけそうにないからです。その上、先日の日経新聞に掲載された総合科学技術会議議員の薬師寺泰蔵先生のイノベーション論(「競争的模範で世界をリード」11月23日(木))、これには感銘いたしました。イノベーションの本質と歴史的考察が極め付きで論理的・明確に取り纏められていました。多分、多くの読者の方々もご覧になられたでしょう。そんなこんなで、僕みたいな研究者としても施策マンとしても中途半端な人間が、分かった風情でイノベーション論などとても議論できるガラではないのだ、と気落ちしていました。

 しかし、です、多くの読者の方々は大方僕と同じ程度の能力で、多分、イノベーション論が盛んだけれど、一体自分は何をどうしたらよいのだろうか、イノベーションに乗り遅れないだろうかと疑問に思っているのではないでしょうか。それで考え直したのですが、僕のような中庸・中程度の人間はどんな風にイノベーションに加わったらよいのかを、つたない経験からお話ししたいのです。で、今回はつたない研究開発経験をお話してみます、読者のご参考になれば幸いです。

 僕は機械工学科の卒業で、そのままずうっと機械を研究してきましたが、元来、加工分野ですから、形状を創成することに興味津々でした。20代後半の博士研究は、まん丸を作ること。丸い円を如何に正確に作るかなのです。まあ、ばかばかしいというか、くだらないと思うでしょ、ところが私たちの日常は丸とか円によって随分と助けられているのです。自転車を楽に漕げるのは車輪が丸いからですし、軸が軽く回るのはベアリングのお陰です。このベアリングを分解してみると丸い球か円柱が数個入っているのをご存知でしょう。パチンコの玉と同じです。パチンコの玉は1個たったの5円(製造価格はずっと安い)ですが、どの位の精度と思いますか? どの直径を計ってみても2,3ミクロンと誤差はないのですよ。何故そんなに高精度な玉を安く製造できるのかが問題です。僕が学生のころ、かれこれ40年前になりますが、パチンコの玉はおろか、ベアリングの球でさえ数ミクロンもの誤差があったのです。それゆえ高精度のベアリングは、何千個の球の中から誤差がないものを選び出して組み立てていたのです。結果として見かけは同じベアリングでも、高精度物は価格が数倍、十数倍もしたのです。これはおかしなことですよね、丸く仕上げた無数の球から直径が同じまん丸のものだけを選んで組み立てるとは、なんて不合理なことか、僕は憤懣やるかたなし。それで鋼球の造り方を調べてみたのです。

 皆さん、真円とは何ですか? 「真円とは半径一定の軌跡」なんて答えるでしょ、まあ、それも正しいのですが、それは数学的な創造の世界のことなのです。実際に数学通りに真円を造ろうとすれば、円の中心を押さえて回さなければならない、しかし中心というのは面積が無いから、実体では中心を押さえることはできないのです。それではどうするかというと、今度は直径一定の形状を造ろうとします。図に示すように、真平らな2枚の板を用意し、その間を一定に保ち(すなわち直径が一定)、その間に物体を挟んでごろごろとこすり合わせて、物体の出っ張り部分を徐々に削っていくのです。そうすれば仕上がった物体の直径は一定になりますから、真円を造ることができる、ホントでしょうか? 当時、技術者は皆なそう信じていたのですが、ホントは違うのです。調べてみると数学者は、とうの昔に「直径一定の形状は等径円で、真円はその中の一つに過ぎない」ことを証明していました。図のように、1角円(真円)、3角円、5角円、7角円、・・・奇数角円、となるのです。決して偶数にはならないのは容易に想像できるでしょう、2角円(楕円)、4角円など、位置によって明らかに直径が異なります。



 残念ながらクレバーな数学者達はここで停まってしまいました。しかし僕は加工研究者の端くれでしたから、なんとか全て真円に出来ないかと模索しました。解を得るまでに、力学とか振動とか随分面倒な計算をしましたが、簡略化すれば答えは単純極まりないものでした。図に示すように、2枚の板の間隔を一定に保つという固定概念に囚われていたからいけないのです。 第3の板を入れて、3枚の板の中で回転できる形状を求めれば、ある条件を満たせば、A,B,Cの3点で拘束されて回転できる形状が限りなく真円になるのです。答えは図の角度γを7度程度に設定すればよいのです。こうすることによって、製造する鋼球の全ては真円に近いものを得るように出来たのです。昭和47年(1972年)は未だ大学紛争の盛りでして、大学では研究どころではなく自己批判、革新議論(今のイノベーションとは違います)が昼夜となく続き、時にはデモでした。そんな社会に辟易としていたものですから、上述した研究成果をイギリスで開催された国際会議に提案したら採択され、バーミンガム大学で発表と相成りました。ドル360円の時代になけなしの金をはたいてバーミンガム行きしました。発表はドキドキの連続でしたが、終わったら拍手、拍手で嬉しかったですね。そしてスウェーデンのSKF社、アメリカのティムケン社などが寄ってきて、凄い発見だ、使ってもよいのか、との質問。当時の僕は、知的財産なんて全く関心がありませんでしたから、どうぞご自由にお使い下さいと答えたまででした。



 何故、まん丸な球だけを選ばなければならないのだとの憤懣、何故すべてまん丸に加工できないのだろうかとの疑問、先行数学者の知見の調査、数学者を超える発想などが、限りなくまん丸を大量に造れるヒントになりました。勿論、このことを実際にしたのは企業ですし、また精度の良いベアリングを安価にできる一助ができたことは若干の技術支援にはなったとは思いますが、決して産業の軸足を移動させるようなイノベーションとは呼べません。でも、私たち中庸・中級の人間が皆で同様に思考し、努力すれば、その束がイノベーションを引き起こせるのではないでしょうか。