第74回「あるライセンス交渉の意外な展開」



 特許訴訟やライセンスを行うためには特許や技術の内容を十分理解しなければならないのは当然であるが、それ以上に大切なことはこれらの仕事はビジネスであるということである。ビジネス交渉において重要な点はお互いの利益を考えることである。得てして交渉は自己の利益ばかり主張するから長引く。特にアメリカ弁護士はクライアントのために必死になることが多いので、場合によっては無駄に長引かせることになってしまうことがよくある(弁護士はその分稼げるからついそうなるともいえる...)。そして、ビジネス交渉であるから相手の人間性やバックグラウンドを知るということは人種のるつぼのアメリカでは特に大事である。これは、交渉の合間にちょっとした会話(プロゴルフやテニスの話等)をすることから得られることも多い。つまり、そのための英語力は絶対必要である。


 それを象徴する交渉が数年前にあった。ある日本企業Aに対し、アメリカのVishayという抵抗器では世界で有名な企業が、基本特許を有しているので侵害品の販売を中止するかライセンスを受けろと交渉を仕掛けてきた。相手の特許内容を調べ、これは話し合う必要があると判明してから、交渉が開始されたがVishayのStein弁護士(仮名)の要求は厳しくなかなか条件はまとまらなかった。


 ところが半年位交渉してからStein弁護士からぱたりと連絡がなくなった。まさか訴訟準備を始めているのかと気になったが、そういう通知は一向に来なかった。


 数ヶ月後に思い切ってStein弁護士の事務所に電話してみた。
「もしもし、Stein弁護士はいますか?」
「Stein弁護士ですって?あなたはどなたですか?」
受付嬢は怪訝そうなトーンで聞いてくる。何かおかしいな、と感じる。
「私はStein弁護士とこの半年以上もライセンス交渉を行っているケン・ハットリという弁護士ですが、最近彼から連絡がないものでちょっと電話しました。」
「ああ、そういうことですか。確かにハットリ弁護士の名は私も聞いたことがあります。」
「では彼と話させていただけますか?」
「実は...彼は話せないのです。」
「話せない...どういう意味ですか」
「ご存知ないのですね?」
「ええ、何も連絡もないものですから。」
「Stein弁護士は1週間前に他界しました。」
「え!?」
思っても見なかった返事に何を話してよいのかちょっと迷った。
「それはお気の毒なことを聞きました。では彼の代わりに交渉を担当する弁護士はおられますか?」
「ええ、いるはずですが、急な事でどうなっているか私は知らないので事務所の他のパートナーに伝えておきます」
「是非そうして下さい。」
といって電話は終わった。確かにStein弁護士は70数歳の年齢であったが、まさか他界したとは...。それにこの交渉はどうなるのだろう。


 そうして数週間もすると、相手事務所の新しいSelig弁護士(仮名)は、突然予告もなく同事務所が存在するペンシルベニア州の連邦裁判所に特許侵害訴訟を提起したのである。しかし、アメリカの訴訟は原告が訴状を正式ルートで大使館経由で日本の企業 Aに送達しなければ始まらないので 6ヶ月近くはかかる。まだ対策を練る時間はある。日本企業 Aは、何億円もかかる訴訟は絶対やりたくない、何とか交渉を再開してくれと懇願し始めた。私は、これがアメリカ企業や法律事務所の常套手段で、ここで簡単に引いてはならない。単に交渉を要求すれば相手は嵩にかかってくる恐れがある、対抗手段を打って、その上で交渉したほうが良い、とアドバイスする。そこで、我々は日本企業Aのアメリカ子会社Bが存在する州の連邦裁判所に特許無効という逆訴訟を提起した。この訴状はアメリカ企業の Vishayに直ちに届けられるので裁判はこちらの方が主導権を握れる可能性がある。訴状を作成して裁判所に提出したり、被告に送ったりする費用は大したことはないから日本企業Aもとりあえずはそれに従うことになった。あわてたSelig弁護士は我々の逆訴訟を元の裁判所に移管させるモーションを出したり、あの手この手を打ち始めた。それを見届けてからSelig弁護士に交渉を持ちかけた。


 そうこうしている内に次第にコストがかかることから、訴訟を正式に始める前に両者でもう一度交渉をしようということになった。アメリカでは場所が離れた会社同士の交渉はシカゴ空港にあるホテルの会議室で行うことが多い。お互いの中立地域であるし、帰りも空港内だからさっと帰られる。そうしてSelig弁護士達と会ってライセンスの条件を話しあったが、なかなかまとまらない。その最大の理由は、 Vishayは発明者でもありワンマン経営者でもある Zandman会長の承諾がないと何も決められないからである。 Zandman会長は世界中を飛び回っているのでホテルにはこられず、Selig弁護士は問題が生じると交渉している部屋を出て、逐次電話で連絡して了解を求めるというやり方だった。シカゴ空港での交渉を2回ほどしてから我々はZandman会長を入れた交渉でなければまとまるものもまとまらないと主張し、その後数ヶ月してやっと Zandman会長を入れた交渉がセットされた。交渉場所は当然の如く、ペンシルベニア州にあるVishay本社となった。


 交渉に訴訟弁護士を入れるともつれるので訴訟弁護士無しの条件であったが、A社は通訳の必要もあることから、Vishayは私の参加だけは認めることになった。交渉の日は日本企業 Aとそのアメリカ子会社 Bのジョンソン社長も出席した。ジョンソン社長はZandman会長と同年代で、知り合いの技術者なので、もしかすると良い橋渡しができるかもしれないという期待があったからだ。しかし、Zandeman会長の名は世界に響き渡っており、日本側の重役陣はジョンソン社長を含め緊張し切っていた。 Zandman会長がユダヤ人でその会社の重役陣もSteinやSelig弁護士達もほとんど全てユダヤ人であることは彼らの名前からすぐわかった。


 ユダヤ人と日本人は多くの共通点がある。まず、頭がよく、世界的なビジネスマンである。数学にも強いのでマージャンに長けている。医者、会計士、弁護士等のプロフェッショナル部門で国際的に活躍している人物が多い。こういう共通点から何か話合いの糸口がないか...と考えていた。


 両社の重役がずらっと静かに座っている中で Zandman会長がドンとドアを開けて入った。室内の空気が一変して緊迫したものになった。会長の威厳がいかにすごいかわかる。 Zandman会長が席に座っても全員は緊張のためか何から話してよいかわからない顔付をしていた。ジョンソン社長でさえも同じようだった。恐らく昔は同輩だったかもしれないが、今は格が違うのだろう。それほどVishayの技術や特許は優秀なのだ(スマートフォンに使われる極小の抵抗器が主製品)。


 Zandeman会長は、デン、と座ると、さあ何か要求があるなら何でも言ってみろという感じで威圧的な表情で見回している。私は、Vishayという企業の名前が非常に特殊だったのでとりあえずそれについて聞いてみた。
「Vishayという名前はめずらしいですが、何か意味があるのでしょうか。」 びっくりしたジョンソン社長が、
「いいや、そんなことよりとにかくライセンス条件の話をしようではないか 」
と割って入った。 Zandman会長がどう反応するか見ていると、一瞬何か決心した表情になり、
「いや、私はまず、この若者の質問に答えたい。」
と言ったではないか(この頃私は既に60歳位だったのだが、アメリカ人には日本人は若く見えるのだろう)。
「Vishayというのはポーランドにある町の名前だ、私はそこから来たのだ。」
「なるほど、故郷の名前ですか。では今でも親族の方はそこに住んでおられるのですか。」
アメリカ人は世界からの移民が多いからこういう話はし易いのだ。
「私の両親と親族は全てナチにそこで殺されたのだ。」
一瞬、会議室が冷たい空気が張り詰めた。私も、しまった、これは聞いてはならない質問だったのだろうか、とちょっと後悔した。しかし、Zandman会長は何事もなかったかのように続けた。
「私が中学生の時だったが、ナチ軍団に囲まれて家族が殺されたので私は隣の家の地下室に私と友人4人が1年半潜んでいた。その家の夫人は私の父が一時お世話したことがあったのでその恩返しだったのだろう。でももし見つかったら我々どころか夫人や彼女の子供達も全員処刑にされていたろう。彼女はその覚悟で我々を助けてくれたんだ。正に、命の恩人だ。」
と淡々と語り始めた。その中に数学の先生がいたので、ずっと数学を学び、それが後に役に立ったという。そして更に、その 1年半の地下室生活がいかに大変だったか(特にトイレと食事)、戦争が終わって地下室から出てフランスへ行って大学へ行き、そこからアメリカに単身で移住してから Vishayを起こした苦労話しを事細かに話始めた。


 会議室では全員が息を潜めてその話を聞いていた。特許やライセンスの話はまだ一切なかった。私は話を聞きながらこれをどう日本と結び付けようがとばかり考えていた。そして、そうだナチといえばある国の日本大使が大量のユダヤ人にビザを出して救った話がある。何処の国の誰だったろうと考え出した。しかし、どうしても思い出せない。そこで私は、ちょっと失礼、と部屋を出た。廊下で自分のオフィスに電話する。
「もしもし、秘書のゆう子さんを頼む」
「もしもし、ゆう子ですが。」
「ゆう子さん、確か君は大学でユダヤ人を助けた日本の大使の話を論文で書いたことがあるといってたね。」
「ええ、ああ、杉原大使のことですね。」
「そう、それだ!杉原大使だった。何処の国の大使だったっけ?」
「リトアニアです。」
「そうかありがとう!」
「それだけでいいんですか?」
「今は時間がない。帰ったら理由を話す。」
といって私はバタバタ会議室に戻った。


 そこでは Zandman氏はまだ淡々と話を続けていた。会長の話が一段落した時に私は、「杉原大使を知っていますか」と聞くと、会長はパッと顔に微笑を浮かべて、「勿論知っているとも、日本国の命令に背いて 600人のユダヤ人に特別ビザを出して国外へ脱出させて救ってくれた。彼はイスラエル国家からニューヨークで表彰された。私もそこに出席し、杉原夫人にも会ったことがある。」といってホロコーストの経験のないVishayの若いユダヤ人重役陣にその恐ろしさの説明さえした。


 そして、突然、Zandman会長はライセンス関係の話をし始めた。
「実は君、私は日本のA社を高く評価しているんだ、技術はすばらしいし、ダンピングもしない。しかし、日本の市場は競争やルールが厳しく、我が社だけではとても入れないから、一緒に組んで協力したいのだ。日本だって戦後復興に苦労したんだろうから、これからは一緒に世界市場を開発しよう。実はこの交渉を昔の仲間のStein弁護士に任せたんだが急死するとはねえ。彼も年だったからな。で、その事務所のSeligという若い弁護士が引き継いだらしいが、いきなり訴訟を提起したんで私もびっくりしたよ。余計な金と時間はかけたくない。だからこそ今回の交渉を同意したんだよ。」

と言い出した。それからは堰をきったように両サイドの重役が特許や技術論を展開し始め、次々と技術協力の提案が出始めた。こうして話は一気に訴訟から和解、そして技術協力の話になった。


 話が盛り上がったところでランチ時間になったので、Zandman会長が「一緒にランチを食べよう」と言い出した。まさか一緒にランチを食べることになるとは考えもしなかったらから、「このライセンスは必ず成功する」と思った。会社の近くに著名なレストランがあり、そこでそれぞれが飲み物を注文するとアメリカ人はワインを頼む者も結構いたので私も地元の赤ワインを注文した。 Zandman会長は、「私はランチにはワインを飲まない主義なんだ」といってコーラを注文していた。ワインやコーラが来ると何となく皆で、乾杯!という雰囲気になっていた。すると、Zandman会長は 「いや、私もワインを飲もう 」と言い出して慌てて注文した。いかに機嫌が良くなっているか分かる。


 こうして両社のライセンス交渉はどんどん進展し、今は非常に良好な関係となっている。 Zandman会長とはその後 2、 3回会って話す機会があったが、彼は最初の基本発明のアイディアは食事中に思いつき、ナプキンにそのアイディアを記載し、それは当然基本特許になったどころかそのナプキンはスミソニアン博物館に保管されているという。また、イスラエル軍の要請で、タンクの砲身を格段に改善させた功績もあるという非常に優秀な発明家であることが分かった。


 更に、イスラエル映画会社が、Zandman会長の地下室生活からVishayを作るまでの映画を作製し、私もそのディスクをいただいた。映画はブッシュ大統領が彼を表彰する実録場面から始まっていた。いかに彼が著名な発明家であり、企業家であるかわかる。彼は数年前に享年 80数歳で他界され、現在は息子が会社を継いでい


 このライセンス交渉が成功したきっかけは、 Vishayという会社の名前の由来を聞いた他愛もない質問からだったのかもしれない。勿論、全ての交渉がこううまくいくとは限らない。しかし、何がきっかけでどう変わるかわからないのが実際の交渉なのだ。このように歴史、文化の色々な方面でちょっとした知識を有することが国際社会でのライセンス交渉に役に立つことがあるのである。



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