第52回 「ジャーナリズム戦争時代」
新年になると人間、特に日本人は、今年は何をすべきだろう、何を考えるべきだろうと考える。考えに考えて、これだ!と思っても3日坊主で忘れてしまうが、まあ、考えること自体に意義があるのかもしれない。
そこで、日本人である私も考えた(渡米26年になるが、年々アメリカ人というより、益々日本人になっていく感じがするのは果していいことなのか!)。ない知恵を絞りに絞って出た答えは、21世紀はジャーナリズム戦争の時代になるということである。
現在の世界で最も強いものは、アメリカ、ロシア、ないし中国の軍事力ではなく、ジャーナリズムである。そもそも、この平和時代には、軍事力は潜在力としか使えず、実力行使で使えるものではない。アメリカがベトナム戦争に負け、イラク戦争にも勝ったとはいえず、はたまたこれからエスカレートすると考えられるアフガニスタンでの攻防に勝てると思っている人は、オバマ政権を支持する人でさえも少ないのではないか。
では、何故世界で圧倒的戦力を有するアメリカが勝てないのか。
それは第二次世界大戦頃までは、世界の情報は非常に限られていたため、戦勝国はやりたい放題でき、武力行使も問題がなかったが、今は全ての行動が完全に露呈されるため、総力を使う武力が使用できず(ベトナム戦争では原爆が使えなかった)、しかも人心は結局は物理的圧力では変えられないからである。
ヨーロッパの国々は、古くはアジアやアフリカで現地人を殺戮し、資源を搾取し、富を築いてきた。当時は、力の原理が当然だったから何をしても悪いことでも何でもない。勿論、そうしながらその地域に文明を築く努力を行わなかったというわけではないが、現実には、現地人のためというより、自分たちが快適に住める場所を作るためであり、植民地の質向上は表向きの理由でしかない。
アメリカは、海外進出が遅すぎたため物理的植民地こそ作っていないが、圧倒的経済的、技術的背景を利用して自由貿易を主張しながら、経済的植民地を作っているのとそう変わりはない。そのアメリカでさえ、独立当時は、発展途上国であったため、ヨーロッパ諸国に対して数々の規制をして、国を守りながら力を付け、圧倒的優位に立ってから自由貿易を主張しているのである。
第二次大戦でも、日本が真珠湾攻撃で約2400人の水兵(民間人は非常に少なく、子供はいない)を殺すと、その報復で日本兵230万人、民間人80万人(当然子供も多数いる)を原爆等で焼き殺し、戦争を終結させるために必要であったと主張する国でもある。
何故そういう非合理がまかり通るのか。
その主な理由は、情報操作と考えられる。
日本兵が真珠湾や中国、韓国で殺した人々の数は、今でもそれらの国々は堂々と述べるが、欧米諸国が何世紀にわたって、総計恐らく何億、何千万人と殺戮した歴史はほとんど述べられない。
戦後60年間、日本とドイツは外国人を戦争で1人も殺していないが、欧米や東南アジアの国々でも他国民を何万人、何十万人と殺しているはずである(中国は内国問題として、外国は攻撃していないという理由を使っているのだろうが)。しかし、それは平和を守るための正義の戦いとして、当然のごとくいわれる。
人を殺して何が正義の戦いか。
これも一種の情報操作である。
勿論、それだけでなく、戦犯の日本とドイツは、60年後の今にしても発言権がまるきりないからでもある(このルールは誰が作っているのか?)。世界のジャーナリズムは、第二次大戦の戦勝国の発言、主張しか報道しない。
話はガラリと変わるが、この情報暴力は民事面にも多大な波紋を投げかけている。
オバマ大統領が天皇陛下に深々とお辞儀をして挨拶したとき、アメリカの議会はまるで謝っているみたいだ、卑屈になりすぎていると激怒した。それに対する反論は、私の知る限りでは日米のジャーナリズムにも何もない。アメリカ人は、自分の立場でしか見ないからあの挨拶をそう解釈する。
オバマ大統領が西洋ではあり得ないお辞儀をしたのは日本の儀礼に対する敬意の顕れであって、アメリカ大統領が卑屈になっているわけでは全くない。少なくとも日本人には、すぐそう理解できるし、オバマ大統領に好感を持つ。
それに対して、天皇陛下は、日本人に対しては絶対にあり得ない握手で返答した。日本人は天皇陛下に対しては、握手が論外であるどころか、目線を合わせてもいけないことが常識である。その天皇陛下が握手で答えたのは、これがアメリカの、西洋の儀礼であるからという敬意の表れである。つまり、両者共に相手に対して、相手の文化に対して、最大の敬意で応えただけである。
それをアメリカの一部のエリートは、オバマ大統領がお辞儀をしたことだけしか見ずに怒りを爆発させる単純さである。こういう一部のアメリカ人の無知、傲慢さが、世界中でアメリカが孤立させる大きな理由の1つであることをアメリカ人は知らないし、知ろうともしないようだ。というより、日本もジャーナリズムで一切反論しないから、アメリカ人は理解の仕様がないのかもしれない。
北朝鮮問題でも同じようなことがいえ、ことあるごとに日本はアメリカの属国だ、言いなりだ、と罵倒する。これに対しても日本の反論はまずない(私の知る限りでは)。
その北朝鮮が、バーゲン力を高めているために、何発も打ち上げたミサイルの9割の部品は日本製で、しかも民生品だ。このことは、脱北した北朝鮮の軍事関係者が、アメリカの議会で数年前に証言したことだから本当のはずだ(もっとも数年前だから今は日本製部品の率は、5、60%位に下がっているかもしれないが)。
日本の政治家やジャーナリズムは、何故北朝鮮に対して「自前のミサイルができるようになってから出直せ!」とか「自前のミサイルさえ作れない負け犬の遠吠え!」と一喝できないのか。世界の諸国は、こうしたジャーナリズムのやり取りで世の中というものを考えざるを得ないのだから、黙っていることは負けを認めることにもなりかねない。
日本の軟弱が問題であることを日本人自身が心の底では考え始めていると思われることは、今や幕末の小説(坂の上の雲、竜馬がゆく、等々)が大流行していることからも分かる。つまり、今の日本人は、プライドを持って世界に立ち向かっていた昔の日本や日本人に憧れを持たざるを得ないのではなかろうか。
勿論、過信はよくない。それが、日本を第二次世界大戦へと追いやった。しかし、同時に本音を言えない、言わないことは、将来に係るためもっとよくない。これからの世の中に物理戦争は、あり得ない。代わりにあるのは、ジャーナリズム戦争だ。
アレックス・ロドリゲスが2009年春に、アンドレ・アガシが夏に、タイガー・ウッズが暮れに、そしてマーク・マクガイアが今年正月に自白に追い込まれたことは、ジャーナリズムの強大さを物語っている。
その強大なジャーナリズムに対する拮抗力となるものがないのが、世の中の怖さであり、問題でもある。
民主主義は、三権分立という拮抗力でバランスが取られ成り立つ。全ての事象に拮抗力がないと全体主義に走る。
唯一の望みは、ネットかもしれない。
日本の一部の識者は、ジャーナリズムの歪曲した報道をネットで批判をしている。
また、ジャーナリズム暴力を見極めるため、アメリカの一部州、イギリス、カナダ、オーストラリアでは、Media Literacy (メディア識別学)があるという。
これらの手段が、この巨大なジャーナリズムに対して何らかの拮抗力になるか、あるいは他に何かが出てくるかが、これからの社会の大きな課題だろう(正月酒を飲みすぎて話が過大なり過ぎたか)。
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