<BACK>
第5回 陪審員の評決は適正か
●陪審員の能力に対する素朴な疑問
オリンピック競技の中で時間や距離を争う種目は勝敗が明らかであるので判定に問題はまず生じないが、体操や球技等は審判の個人的判断に依存するところが大きいため採点にはおのずと疑義が生じる。それでもこれらの審判員はプロであり、また国籍も考慮されており、その上に採点方法もシステマチックになっているので基本的にはかなり公平であるといえよう。
これに比べてアメリカの陪審員裁判はどの程度公平なものであろうか。否、公平か否かというより、そもそも素人の陪審員に特許裁判を判断する資格があるのだろうか。この素朴な疑問は長年専門家や官僚組織のような優等階級に政策判断の意志決定を委譲してきた日本や欧州の国にとっては余計に強いと言える(日本の点については前のニュースで指摘した通りである)。
陪審員は選挙名簿などから常時無差別に選別され、ランダムにその時の事件にあてがわれる。忙しいビジネスマンは陪審員になることを避けるためわざわざ選挙権を放棄する者もいるため、最近は自動車免許証から選別されることが多い。その中から利害関係者等の事件と何らかの係わり合いのある者、あるいは特別の事情がある者は外されるので、日常生活で暇な者が外されることはほとんどない。
つまり陪審員になる者は教育の低い、時間の都合が付く者が圧倒的に多いのである。こういう人々が難解な特許法や高度なコンピューターやバイオテクノロジー技術の事件を理解できるのだろうか、という素朴な疑問はある意味で当然のことである。
陪審員制度は200年以上も前にアメリカがイギリスから独立した時に、イギリス国家の影響を避けるためにアメリカ市民による判断を行なうためにイギリスから導入された制度である。200年前の事件であればほとんど全てが常識で判断できたであろうからその当時はそれなりに意義は高かったかもしれない。 ところがイギリスの陪審員制度は利害関係者で事件の内容を知っている者が陪審員になっていた。そこをアメリカでは事件を全く関係ない中立の者を陪審員の条件としたのである。中立という意味では決して悪くはないが、全くの素人が陪審員になり、且つ法律技術も想像を絶するほど複雑で高度になった今日、陪審員制度がどのように機能しているか、あるいは果して本当に機能しているかは当然の疑問といえる。
●陪審員の評決にも歯止めはある
このようなことからアメリカの法曹界は10年ほど前に陪審員制度が果して有効に働いているかの調査、討論会を行なったが、結論は陪審員の評決の大部分はリーゾナブルな結論になっているというものだった。
その本当の理由は、私の経験によると、陪審員裁判のほとんどの事件は結論がどちらとも言えるギリギリの事件で原告、被告のいずれでも勝者にもなり得る証拠があり、陪審員の評決は実質的証拠がありさえすれば維持されるので、どちらの結論でも大差がないためであると考えられる。
また、より詳しくは、裁判というものは普通1〜3年はかかるが判事及び陪審員が入るいわゆる公判は最後の1、2週間のみである。それまでの2年以上の期間は弁護士が主体となって証拠準備や証言聴取(デポジション)を行なって、公判のための証拠整理、証人整理を行なっていく。そして、このいわゆるディスカバーの期間で優劣が明確になる場合はほとんど和解しているのが現実である。つまり公判まで行く事件はどちらの側にも勝訴となる証拠があると言える。
また、何れかの側に圧倒的に有利な証拠がある場合は、法律上当然の結論といえる評決という意味のJMOL判決があり、たとえ陪審員公判であっても陪審員が評決を下すのではなく判事が判決を下すことができる。
あるいは一応陪審員に評決を下させて、明らかに問題の評決が出た場合でもこのJMOL判決で評決を棄却できる。
つまり、証拠の優位が圧倒的に明らかな場合には陪審員裁判には歯止めがあるようになっている。
この様に陪審員の評決は絶対的ではないので日本の方々も多少は安心できよう。では陪審員の評決はどのようなプロセスで出されるのか。どのようにして素人の感情的評決を避けるようになっているのか。この点については次回説明しよう。
>
|