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第4回 日本で裁判員制度は発展するか
●米憲法の下、行政機関は経済運営の権限がない
日本の裁判にも陪審員である裁判員が導入されることになったようである。この本当の理由が何であるかはよく知らないが、単にアメリカ制度のまねであるならば意義は少ない恐れがあろう。 アメリカは陪審員制度が必要な特殊な理由がある。それを知るためにはアメリカの憲法やそれに基づく国家体制を知らなければならない。アメリカ憲法は三権分立を規定しているが、その内の1つの行政機関の権限(Administrative power)は立法権、司法権に比べて、驚くほど小さいものである。 特に連邦経済に関する権限は議会の立法権限(Legislative power)の中に規定されているので、行政組織には連邦経済を司る権限が基本的にない(そのために議会は連邦法を制定してUSTRやITCに一部の国際経済問題に対処する権限を委譲している)。よって、大統領以下の官公庁には米国経済や国際経済を運営する権限が憲法上なく、外国と経済交渉はできないことになっている。 この点から、官公庁の権力は日本と比べてものにならないほど弱い(そもそもアメリカの官公庁には官僚をと呼ばれる人材はいない)。つまり、アメリカは官僚国家となることを防ぐために、官公庁には米国経済を指導したり、コントロールする権限が基本的にないのである。
これが現れる典型的事象は米国が海外諸国に貿易規制を要求する時に必ずつける「自主規制」というタイトルである。これは米国政府・官公庁がその規制交渉に絡んでおらず、外国政府・企業が勝手に自主的に規制しているので、米国政府は憲法違反を犯していないということを連邦裁判所に明らかにするためにこの様なタイトルを強要するのである(数十年前の鉄の自主規制の時にキッシンジャー長官が憲法違反であると米国市民から訴えられたことがある。この事件は証拠不十分で憲法違反なしとなった)。
●日本の官公庁はオールマイティー
実際には、このような貿易交渉には必ずUSTRが絡んでいるので、あまりに身勝手なアメリカ政府の要求ともいえる。ともあれ、アメリカでは官公庁が米国企業のビジネス活動をコントロールすることが困難なので、米国企業の力は大統領を動かすほど強くなる。そのため独占や寡占が進むので、その弊害が最初に出たのが1920年代の大恐慌である。 企業が巨大化し、独占化したので、ドミノ的に倒産していった。これを機会に独占に対する反省が出て、企業独占に対して独禁法が厳しく適用されるようになった。同時に特許は嫌悪され、1980年にレーガン大統領がプロ特許政策を打ち出すまでは特許暗黒時代が続いたのである(その反動で今日のプロ特許政策がある)。 そして、これまで巨大企業をコントロールしてきたのは独禁法と陪審員裁判の二本柱だった。タバコや銃産業は巨大な財力、政治力を有するためアメリカ議会や官公庁ではコントロールができなかったが、ここ10数年間の陪審員裁判で両産業に急ブレーキがかかり始めたのである。
この様に官公庁の力が弱く、企業が強いアメリカでは陪審員裁判が必要不可欠であるともいえる。しかし、日本では未だに官公庁の力はオールマイティーに近いものがあり、産業政策を行い、コントロールしていく力はまだ十分にあるともいえる。逆に言うと、日本は知的レベルの高い専門家・エリートに判断を委ねる社会でもある。 こういう日本の社会の中で果たして裁判員の役目はいったい何なのか、特に知的財産訴訟というハイレベルの技術訴訟の中で役割は何か、どのように発展して行くかが注目される。
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