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第33回 アメリカのヌードクラブでどこまで脱げるかは連邦最高裁判所が決定する
アメリカの大都市にはヌードダンスクラブが必ずいくつかあるが、そこでは若いピチピチしたダンサーが裸になって踊っている。但し、どこまで裸になるかは州によって異なっており、ワシントンDCの店では一糸まとわず丸裸になっている。
彼女達のほとんどは大学生だが、ワシントンDCの大学生ではなく隣のメリーランドかバージニアの大学の学生が多い。やはり地元の大学だと仲間の学生が飲みに来る可能性があるのでバツが悪いからだろう。
また、踊っている女の子の名前も同じ理由で当然仮名である。これは銀座のクラブでも女の子の名は源氏名(これは源氏物語にちなんで付けられた女官の名称から来ている)といって、仮名であるのと同じである。
ところで、こういうアメリカのヌードクラブでどこまで脱げるかは州や市の条例によって規制されているが、そのような治安条例が憲法違反か否かは、公然猥褻を阻止したり、過激なヌードクラブを許すことによって派生的に生ずる犯罪から地域を守るための治安権(police power)と憲法の基本的人権の1つである表現の自由(freedom of expression)(本来は限定された場所ならいくら脱いでも自由!)とのバランスの問題である。
であるから、アメリカのこの種のヌードクラブでは猥褻行為は一切許可されていない(ここが日本と違う)のは表現の自由(裸)を満喫する単なる大人の娯楽の店であり、猥褻でなく、且つ犯罪に結びつくことはないということを明らかにするためである。最も高級といわれるCamelotにはバウンサー(用心棒)が入り口にいるのも酔っ払いを追い出したり、犯罪を阻止する努力を示すためである。
また、保守的な州(例えばバージニア等)では、リベラルな州(例えばワシントンDC等)とは異なり、治安権意識が強く大抵全裸になることが許されない。これらの保守的な州では大体胸当て(Pasties)やジーストリング(G-string:バタフライ)を着用することが法律で必要とされる。
このような州法を不満としてヌードクラブやダンサーが訴訟して(!!)連邦最高裁までいった事件は実に2件もあるのだ。この2件は双方共全裸でも治安は乱れず、胸当てやジーストリングを着用することを必要とする州法や条例は表現の自由という基本的人権に反するという訴訟であった。
最初のBarnes事件は1991年で、2件目のErie事件は、2000年に最高裁により判決が下された。2件目のErie事件は1件目のBarnes事件とほぼ同じないようであるのに係らず、最高裁が2件目の事件も受理したのは異例であるが、アメリカではそれだけ表現の自由という基本的人権が重要であることを物語っている。勿論、2件目が最高裁によって審理された最大理由は、1件目によって判決は出た判決は多数判決(plurality
opinion)の判決であり、大多数判決(majority opinion)ではなかったので将来判決が変り得るということに起因しており、それだけ最高裁判事にとっても微妙な問題なのだ(判事達には寝ていてもバタフライが目に浮かぶ…)。
いずれにせよ、米国ではあらゆる問題が最高裁判事の政治的、道義的な考えにより判断が分かれることが多い。これら2件で両極端に分かれる裁判官の意見を読むことで判事の考えも明らかに理解できるため、そういう意味でこれらの判決を読むことはアメリカを知るよい材料になるかもしれない。
1. Barnes v. Glen Theatre最高裁事件 (1991年)
Barnes事件で問題になったのはインディアナ州の公衆猥褻取り締まり州法(public
indecency statute)である。前述したように、この州法は全裸になることを禁止し、ヌードダンサーは胸当て及びジーストリングの着用が必要であると規定していた。それに対して2件のヌードクラブと2人のヌードダンサーは、この法律は米国憲法修正第1条により保障されている表現の自由を剥奪するもので無効であると訴訟した。そして最高裁は5対4というぎりぎりの表決でこの法律は憲法に反するものではないと判決した(過半数だけなので議論の仕方や証拠によっては将来ひっくり返る可能性が十分ある)。
その判決の要旨や各最高裁判事の意見は以下の通りである。
a. レンクィスト、オコーナー、ケネディー判事(多数意見)の判決
レンクィスト判事は以下のように判決を起草した。
ヌードダンスは米国憲法修正第1条により守られている表現的行為(expressive conduct)に辛うじて該当するといえる程度のものであるが、問題はこの州法が下記の4つの基準(従前の最高裁判決で述べられたO'Brien Testという)を満たしているかどうかである。
(1) 規制事項が政府が制約できる範囲内であり、
(2) 当該法律は政府にとって重要または実質的な利益(本件では地域の治安維持)を促進
しており、
(3) その利益(治安維持)が表現の自由とは関連しておらず(この点が訴訟で常に問題にな
る)、
(4) 米国憲法修正第1項に基づく自由をたとえ結果的に制約することになったとしても、そ
れは法律がもたらす利益(治安維持)の達成にとって必要である範囲内にとどまってい
ること。
問題のインディアナ州法は以上の4点を満たしているといえるので、憲法の表現の自由に違反するものではない。インディア州法の立法経緯は記録が十分にないため、この州法が立法された理由を明確に理解することはできないものの、州法そのもの及び歴史から理解できるように、社会と道徳を保護するものであり、ヌードを含む公然猥褻はコモンロー上犯罪行為であった。また、歴史的にインディアナ州では100年もの間「14歳以上の者で、猥褻行為を公然と行った場合、またはその行為を行った場所で侮辱及び迷惑と感じる者の前で行った者は公然猥褻の罪を犯したとする」と定められている。即ちこの州法は従来から存在する州の治安権である環境衛生、安全性と道徳を守るためのものであり、州政府が制約できる範囲内である。
これに対しヌードクラブとダンサーの原告はこの州法は前述したO'Brienテストの第三基準(3)を満たさないと主張した。即ち、この州法により全裸でヌードダンスができないため、エロチックな表現は阻止され、よって表現の自由と法規制は関連しており、法律による利益が表現の自由とは関連していないことが必要とされる第三基準(3)を満たしていない、また全裸になったからといって犯罪が生じたり、増加したりするとは限らない、と主張した。
この主張に対し、レンクィスト判事は以下のように反論した。この州法はエロチックな表現を阻止することを目的として全裸になることを禁止している訳ではなく、公然猥褻を禁止することが目的である(特定の店の中での裸なので公然といえるか問題がある)。また、エロチックな表現は完全に阻止されるわけではなく、胸当てやジーストリングを着用しても、全裸のヌードダンスほどあからさまではないものの、同じような表現ができよう(このお爺さん判事には全裸と半裸の区別がつかないらしい)。従って州が阻止しようとしているのは米国憲法修正第1項により保護されている表現の自由ではなく、公然猥褻を対象としているため、O'Brienテストの第三基準(3)は満たされており、また、胸当てやジーストリングを着用することで公然猥褻を禁止するだけで、裸になる表現の自由を全く阻止してしまう制約ではないため、O'Brienテストの第四基準(4)も満たされているといえる。
このレンクィスト判事の理由付けに説得力があるか否かは別として、とにかく最高裁はインディアナ州の規則は憲法に違反しないと判決したのである。
b. スカリア判事(同意意見)
スカリア判事はレンクィスト判事起草の判決に同意したものの、レンクィスト判事とは異なり、ヌードダンスは米国憲法修正第1項により守られている表現的行為ではない、と以下のように述べた。
ヌードダンスはモラルの点から表現の自由の行為とは考えられないのでO'Brienテストの4項目を考慮するまでもない。また、人間社会においては何らかの活動は禁止されることがあり、それは他者がそれらの行為によって傷つけられるからではなく、モラルに反するからである。インディアナ州法は、見せる相手に道徳観念が欠けているか否かに関わらず、人々に裸を見境なく公開してはいけないという古いのモラルを強化させるものであることが目的である。そして、この州法はそのような公然猥褻行為を規制するものであり、表現の自由を規制するものではない。よって理由は異なるものの、判決結果についてはレンクィスト判事の判決に賛成する。
このようにスカリア判事は超保守的でヌードや裸がとにかく嫌いのようだ。
c. スーター判事(同意意見)
スーター判事もレンクィスト判事の判決に同意したものの、レンクィスト判事とは異なり、ヌードクラブの経営により売春、性的暴力や他の関連犯罪が副次的効果として引き起こされる可能性が高いため、インディアナ州はそれらを防止することができ、また、この州法は表現の自由を規制することが目的ではない、と述べた。スーター判事は胸当てやジーストリングを付ければ犯罪防止になるなら、この州法は合憲だという意見である。問題はその証拠があるかどうかで、後の事件でスーター判事は自分の意見を覆している。
d. ホワイト、マーシャル、ブラックマン、スティーブンズ判事(反対意見)
これら4人の判事は表現の自由(裸)がより重要であると主張し、レンクィスト等の5人の判事の判決に反対した判事である。
彼らの反対意見は、以下の理由によりこの最高裁判決には誤りがあると主張している。第一にインディアナ州がなぜこの規制を導入したのか立法経緯の記録がないため、レンクィスト判事の意見のように目的が何であったか推定するのは間違っている。インディアナ州法は家庭などを含むいかなる場所におけるヌードにも適用されるものではない。また、劇、バレーやオペラにおいて全裸で演技することに対してこの州法が適用されたことを示す証拠は一つもないという宣誓供述書もある。従ってこのように普遍的に適用されない法律は、差別の可能性があるので、何が目的でこの法律が制定されたかについて更に審尋することが必要である。場末のヌードダンスに対してのみ法律が適用されている場合、この法律は米国憲法修正第1項を違反することになる。
また、レンクィスト判事は胸当てやジーストリングを着用して行われるヌードダンスは、全裸で行われるヌードダンスとは異なる印象を与えるかもしれないが、全裸でなくてヌードダンスが行われても同じような表現をすることは可能である、と述べたが、その意見は間違っている(読者諸兄はどう思う?)。
2. City of Erie v. PAP'S AM最高裁事件(2000年)
Barnes事件の後に最高裁が受理した2件目の事件は、州法ではなくペンシルベニア州のErie市により定められた条例が憲法違反になるか否かという問題であった。この条例の規定は、やはり胸当てやジーストリングを着用せよというものでBarnes事件の週報とほぼ同一内容であった。ただ、Barnes事件と異なり、立法経緯において、この条例は被告が経営するヌードクラブであるKandylandを閉鎖させるためであったことが明らかになっていた。しかしながら、最高裁は6対3の判決でまたしてもこの条例は米国憲法修正第1項を違反していないと判決した。この事件でも各判事の意見は分かれ、またも大多数の判事による判決ではなかった。
(1) ペンシルバニア州最高裁判決
訴訟はまずペンシルバニアの地裁から州最高裁へと行った。
原告のPAP'S AMは、ヌードダンスクラブ、Kandylandを経営していたが、Barnes事件と同じように、条例によりヌードダンスでは最低胸当てとジーストリングの着用が必要になったため、この条例は米国憲法修正第1項に反するものである、と起訴した。ペンシルバニア州の州最高裁では、本事件は連邦最高裁のBarnes事件に似通っているものの、その判決は大多数判事ではならなかったため決定的なものではなかったのでこの連邦最高裁判決を解釈しても、Erie市条例が米国憲法修正第1項を違反するものか否かは分からない、とまず述べた。従って、連邦最高裁判例にとらわれずに独自に判断を下し、Erie市の条例は特定クラブのエロチックな表現の自由を規制するものであることが明らかなため、米国憲法修正第1項を違反するものである、と州最高裁は判決を下した。
(2) 連邦最高裁判決
そこでErie市は州最高裁から連邦最高裁へ上告し、連邦最高裁も再び受理した(!)。連邦最高裁はこの条例は憲法違反ではないとペンシルバニア州最高裁の判決を逆転させたが、オコーナー女性判事起草の判決の理由は以下の通りである。
a. オコーナー、レンクィスト、ケネディー、ブライヤー判事(多数意見)判決
ペンシルバニア州最高裁から連邦最高裁に上告された時点で、Kandylandは経営をすでに停止していたが、Kandylandはいまだにペンシルバニア州で法人格を保っていたため、この上告事件は訴訟却下にはならない。Barnes事件の複数意見のように、ここでもヌードダンス等はかろうじて米国憲法修正第1項により守られている表現的行為(expressive
conduct)に値しよう。条例の目的は、Kandylandのようなアダルト・エンターテイメント経営により引き起こされる犯罪を減らすもので、ヌードダンスのエロチックな表現自体を阻止するものではない。
従って、この条例は表現の自由を規制するものではなく、環境衛生(性感染病)、安全性と道徳に反する副次的影響を阻止するためのものである。原告は、演劇などで全裸になった場合は条例により罰せられなかった故、この条例は特定のヌードクラブのみを規制することを意図して制定された、と主張したが、憲法違反しない条例である以上その条例は無効にはならないと逆転判決する。
この連邦最高裁の判決によるとKandylandはかなりいかがわしいヌードクラブであったのかもしれない。
b. スカリア、トーマス判事(同意意見)
スカリア判事はその同意意見で以下のように述べた。
被告は裁判が始まってからKandylandヌードクラブの経営を停止したため、また将来経営する予定がないことを示しているため、この事件は本来は却下すべきものであった。しかし、多数意見により事件はまだ訴訟は継続すべきであると認定されたため、その前提で以下の意見を述べる。
Barnes事件と同様に、政府はモラルを推進し、ヌードダンスそのものがモラルに反するものであるということを認定することは米国憲法修正第1項により禁止されていない。また、多数意見のように、副次的効果を評価する必要性は感じられない。それにしても、胸当てとジーストリングを着用することでKandylandのような店の周辺で起こる犯罪や売春等を減らし、従って性感染病を減らすことにもなる、という理由については正直にいって疑わしいと思う。
両判事はやはり保守的でそもそもヌードに反対なのだろう。
c. スーター判事(反対意見)
スーター判事は前回Barnes事件で犯罪を減らすというような副次的効果があることからヌードダンスを規制することは妥当である、という見解を示したが、この事件では以下のように反対意見に回った。ヌードダンスにより犯罪や害となる副次的効果が増えるという証拠が立証されていない。また、9年前のBarnes事件で私が副次的効果を立証することを求めなかったのは間違いであった。従って、ヌードクラブで胸当てとジーストリングを必要とするこの法律は憲法に反するものである(万歳!?)。
d. スティーブンズ、ギンズバーグ判事(反対意見)
ヌードクラブで胸当てとジーストリングが着用されることによって全裸でダンスするヌードクラブと比べて犯罪が減ることが立証されていない。また、Barnes事件と異なる部分は、この事件では特定のヌードクラブに対して立法されたことが明らかであり、法律は特定の表現の自由を規制することが目的であったことが明らかである。従ってこの条例は米国憲法修正第1項を違反するため無効である。
これらの3人の判事はリベラルであることがよくわかるであろう。
3. 結論
以上のようにヌードクラブの着服の州法、条令等は、憲法上の基本的人権である表現の自由を規制するものか、あるいは過激なヌードを許すことにより犯罪、病気が増加することを防ぐ治安行為が優先するのか、更には特定のヌードクラブだけを廃止しようとする差別の意図があったものか等々の観点から最高裁まで争われているが、その最高裁でさえ判事はかろうじて過半数になるだけで判決されており、大多数の判事で完全決着の判決にはならないほどの微妙な問題なのである。
なお、ワシントンDCのクラブでは全裸になることが許されているが、その理由は以下の点であろう。
1. コモンローの州ではなく政府管轄地であるのでリベラルで表現の自由がより強いこと
2. 場所がビジネス街、歓楽街で住宅地から隔離されているので制約しなくても治安が保
ち易いこと
3. 猥褻行為は一切許可されず、犯罪に到り難い(Camelotのようにバウンサーが入り口
にいればその可能性は更に低くなり閉鎖される可能性も低くなる)
4. 客が州外のビジネスマンも多く、地域社会にはそれだけ影響が少ない。
以上の理由が正しいか明らかではないが、これからこういうクラブへいく読者諸兄はこのような憲法問題を考えてから行くと罪悪感は多少少なくなるのではないか。
なお、最高裁ではエロ映画、写真等が芸術か違法かを判断する時には問題になった映画等を鑑賞(失礼、観察評価)するため、最高裁ビルの地下室で見るようになっている。そこで判決を行う判事は証拠(!)を実際に見なければならないが、その昔ブラック判事(1937〜1971)はそれを拒否して一切見ず、基本的人権を拘束する法律には一切反対していたそうだ(恐らくブラック判事も1人なら見たのではないか…)。
(本稿は弊法律事務所の井手久美子米国弁護士との共著)
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