第23回 「教育再生」とは?
出口さんに原稿を投稿して「しばし休憩」とちょっと気を抜いたすきに、いつの間にか新たな原稿が数本アップロードされているというのが現状です。しかしここで流れに乗り損ねては「女が廃る」なので、今回は教育再生会議の第一次報告書(*i)と石黒さんの「N氏の手紙―教育を考える」に触発されて「教育再生とは?」というテーマにアタックします。
まずは、「教育の再考」から試みることにしましょう。日本語は非常に便利な言語で、熟語を分解することによりその概念をざっくり理解することができます。「教育」とは「教え」て「育む」ことであり、ここには「教える側」と「育まれる側」(*ii)が存在します。前者においては親、家族、学校、地域、組織、社会、更にはバーチャルなインターネットまでもが登場し、後者においては母親(*iii)のおなかの中にいる胎児、乳児、幼児、就学年齢に達した子ども、社会人などが存在します。よって、「教育」とは、様々な人と組織が「当事者」となる営みであるわけです。また人類の歴史の中で教育という営みを組織的に行う場として「学校」が発明され、「学校教育」という一つの社会制度を確立するに至りました。そして、それを可能にしたのが、政府のコミットメントとであり、法体系の整備(*iv)、財政負担、制度設計(*v)といった形で表現されてきました。同様に、この教育という現象を科学的に捉えることを目的とした「教育学」という学問分野も発展していき、その中で「教育学者」と呼ばれる専門家集団が形成されていきました。ここでは政府を「仕切る側」、教育学者を「解説する側」と呼ぶことにします。
教育を語る際、通常、専門家として登場するのは「教える側」、その中でも特に組織化された「学校」、「仕切る側」、「解説する側」の代表者ですが、教育の限定された側面を討議するには十分であっても、表面的な問題の影に潜む教育の本質に触れることを試みるのであれば、石黒さんの引用を使わせていただくと「クロトでそれを脱している人か、シロトでよく専門のことも理解し得る頭の人」(*vi)の参画が必要となります。何をもって「脱している人」と呼ぶか、という点を明らかにしなくてはなりませんが、私はPhronesis(*vii)を備えた人と考えます。石黒さん、いかがでしょうか?
また「クロト」に関してですが、「学校教育」に限定せず、「社会全体の教育力」を議論の対象とするのであれば、学校教育以外の「教える側」も巻き込むなど、専門家のスコープを拡張する必要がでてきます。更に難しいのは、後者を特定することです。そもそも「教育」においては、すべての人が「育まれる側」の体験者、現役、候補者であり、よって当事者であるわけですから、純粋な「シロト」は存在しないのです。誰もが自らの体験を基に、教育を語ることができますが、それ以上に、その主観を主観で終わらせること無く、他の文脈に置き換え客観的に見る目を持つ、他の主観を聞く耳を持つ、「社会」を構成する「人」、いわゆる「社会人」として語れる口を持つ、「育む」ことに喜びを感じる心を持つことが要求されるのです。「専門のことも理解し得る頭の人」とありますが、意図するところは、専門家の用いる特殊用語(Jargon)を理解する人ではなく、このような全人的な力を発揮できる人と解釈します。この辺も石黒さんにコメントをお願いしたいところです。
とは言うものの、このような人があちこちにいるわけではありません。まずは土壌作りからスタートしなくてはなりませんが、例えば、教育再生会議の報告書をたたき台としてパブリック・ディベートを促していくといのも一つの手ではないでしょうか。要は、教育問題とは政府も含む専門家任せのことではなく、個々人のアクションの上に成り立っている私的行為であり、かつ社会制度であることを再認識する作業を行うのです。その際、論点整理が必要となりますが、便利なのはフランス語です。教育に関しては、広義の教育にあたるEducation、組織化された教育を指すEnseignement(学校教育はこちらを用います)、能力形成を主とするFormation(職種に連動する専門性を示す教育)、更には技能の修得を目的とするApprentissage(義務教育に続く職業教育など)といった概念が存在し、当事者及び専門家の絞込み、論点整理にはかなり役立っています。
では具体的に何をキー・イッシューとするか、となりますが、まずは、表面化している問題の背景に何が潜むかを見極める作業からスタートです。高校の「未履修問題」を例に取ると、その背景には、大学入試の受験科目が制約条件として高等学校の運営に働いているというファクトが浮かび上がってきます。必修科目の履修状況のチェック、必修科目の精査といった応急措置をしたとしても、高等学校に閉じた解であってはこの制約条件から逃れることはできません。ここでは、「高校と大学の接点の再考」(*viii)が必要となります。その上で、日本の高校生がどのような知識、教養、考察力(観て考える力)、学力(学ぶ力)、社会性(社会人としての認識)を身につけることが望ましいかを煮詰めていく。これまでの教育現場での体験、試み、失敗学を活用しつつ、理想像を追い求める作業となるでしょう。
仮にある時点で理想的なカリキュラムが設計できたとしても、更なる難問が待ち構えています。例えば、カリキュラム策定の作業はある「標準的な高校生」を想定して行われるものであり、よって、教育現場では目の前にいる高校生と「標準的な高校生」との乖離を埋めていくことが必須となります。対応するには、教員に教育技術はもとより、学生のポテンシャルを見抜く力を持ち、イノベーティブであることが要求され、また様々な試みを許容する学校運営が不可欠のものとなります。そうなると教育委員会と学校のあり方も見直さなくては・・・といった具合に、次から次へと、問題が連鎖していることが見えてきます。これはほんの一例ですが。
このような話をすると、「それでは政策が立てられません。具体的にどのような手を打つべきか、提示してください。」と言われそうですが、「急がば回れ」で、石黒さんがご指摘なさるように、「原因と過程をシステム面から考える」(*ix) ことが今一番必要とされる作業だと思います。精度の高い診断があってこそ、処方箋の効果が高まるわけですから。
「公教育」とは、「公立」学校教育、私的に対する「公的」な側面を成熟させる教育、「公」の規範を内生化させる教育、「公」として政府の教育に対するコミットメントと責任、教育機会への「公平性」、といった様々な意味を含む概念です。「改革」という言葉に流されること無く、2025年の社会を見据えて「公教育」の土台を固めていく。「イノベーション25」には欠かせない要素だと思います。
*i:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/kettei/070124houkoku.html参照。
*ii:教育とは相互作用が働く場であることから、結果として「教える側」も育ち、「育まれる側」も「教える側」に影響を与えることになりますが、長くなるのでこの議論は別の機会にゆずることにします。
*iii:母親の特権は10ヶ月かけて親子の絆を培うことにあります。ジェンダーの非対称性はこの点に集約されるのではないでしょうか。
*iv:教育基本法、学校教育法、地方教育行政法など。
*v:教育委員会制度、教科書検定制度など。
*vi:http://dndi.jp/00-ishiguro/ishiguro_78.php参照。
*vii:http://dndi.jp/07-harayama/hara_18.php参照。
*viii:フランスのバカロレア、スイスのMaturaの制度から学ぶところ大ですが、こちらもまたの機会に紹介することにいたしましょう。
*ix:同上。
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