第4回 我が国の産における学の役割と変化

     (その1-歴史編-)

 産における学の役割を考えるために、その1-歴史編-で我が国の<産業発展における学の役割>について、その歴史的事実に基づく特徴点を概観する。さらに次号、その2-未来編-では、21世紀の我が国<産>に期待される<学>のミッションについて述べたい。今月は、歴史的考察のため若干長文となるが御容赦願いたい。

1.我が国産業発展における学の役割(1854-1997)
 1854年の開国から維新にかけて、隣国中国は英国をはじめとする欧米列強の言いがかり(アヘン戦争1840-42年)によって悲惨な植民地化と経済搾取を受けていた。こうした事態に坂本龍馬をはじめ明治政府のリーダー達は強い憤りと危機感を感じ、「殖産興業による富国強兵策」を国の第一の指針として新国家建設へと走り出し、鉄道・通信・エネルギーそして海軍力に関して最大規模の投資を開始した。こうした新事業および技術移転は<政府→大学(お雇い外国人)→民間>と推進されたが、民間すなわち<産>の技術イノベーションは<官および学>に完全依存するものであり、学の存在感は圧倒的であった。この頃、日本を代表する三菱・三井・住友などの財閥が形成された。

 日露戦争における1905年の日本海海戦に勝利した日本では、国内でも重化学工業化が着火し、悲願としてきた国産戦艦の建造を独力開始した。だが、第1次大戦後のワシントン会議において米国の一方的圧力により『日英同盟』は廃棄され、また海軍主力艦の保有比率を米英の7割に圧縮された日本は、米国を第一の仮想敵国とする準戦時体制へと突入した。その際、主力艦を制限された日本は、制限のない航空機魚雷による敵艦隊攻撃に活路を見いだし(提唱者は山本五十六)、一気に航空機産業が勃興した。こうした新事業および技術移転は、<軍→大学=民間>という形で進められた。つまり、<産>の技術イノベーションは<軍および学>に依存するものであり、元海軍技術中将(造船工学)が東大総長に就任し、かつ多くの海軍技術士官が東大・東北大・阪大などの旧帝国大学に選科学生として3年派遣されるなど、軍における学の存在は極めて重要であった。この頃、日本を代表する松下・日産・東芝・日立・中島飛行機などのコンツェルン・大企業が形成された。

 太平洋戦争の敗北を経て、1950年に朝鮮戦争が始まると海外特需と旺盛な国内民需が交叉する複合的な景気好循環が始まった。その時、海外特需に最も寄与したのは戦前戦中の海軍建艦技術と艦艇ドックを応用したタンカー・商船の建造であった。同時に国内民需に最も寄与したのが、戦中のレーダー・マイクロ波開発過程で生まれた電気通信技術と米国生まれのトランジスタ発明特許を結合した、エレクトロニクス家電産業の創造(SONYは井深氏+元海軍技術者7名で始まった)であった。さらに、名機零戦・紫電改(海軍)、疾風(陸軍)のエンジン機体開発技術を応用した自動車産業(中島飛行機を前身とするプリンス自動車(のち日産統合)の初代スカイラインに搭載されたエンジンは、名機3機のエンジンである「栄」「誉」の主任設計技術者・中川良一氏とそのチームが設計開発した)から始まった。こうした新事業および技術移転は<敗戦により失業した軍事技術者→民間>という形で再開された。つまり、<産>の技術イノベーションは敗北した<軍>に依存するものであり、また激化した学生運動による産学共同反対もあり、産における学の存在感は極めて薄くなった。さらに、産は戦勝国である米国から知識・技術導入を自由に図れるようになったことから、国内の学は産と距離を持ち始め、産と学の人材交流は戦前に教育された人材が引退するにつれて消滅した。戦後、日本を代表するSONY・本田・トヨタ自動車・ヤマハ発動機などの戦後優良企業が形成されたが、これらの企業における学の匂いは極めて薄い。そして、1997年に拓銀・山一が崩壊し、1950年代に始まった戦後の産業発展は半世紀を経てピリオドを打った。

2.我が国学の過去・現在・未来
 明治以降の我が国経済・産業・技術の発展経過を概観すると、三つの流れが鮮やかに浮上する。第一に、技術革新の長期波動(50-55年)として知られるコンドラチェフ波は、1850年代、1900年代、1950年代に、我が国でも確実に50年周期で繰り返し観察される。第二に、<産>の技術イノベーションにおける<学>のポジションは常に低下傾向を示し、戦後は戦前に比べ非常に存在感が希薄化した。第三に、2000年に始まる大学発ベンチャーブームは、1997年の拓銀・山一崩壊をもって終わった戦後50年の産業発展の直後に始まった。すなわち、それらの<学>をめぐる新しい動きは、21世紀の産業発展期のスタートとして認識される。

 戦後の経済復興過程における我が国の中核技術者は、元軍事関連技術者達であった。彼らのうちのある者は大学教授となり、戦後の産学連携と人材育成に貢献した。だが、そのコアとなった技術系人材の多くは産業界ないし同一企業に留まって戦後企業を再生した。つまり戦後の技術革新は、@失業した優秀な軍事技術者、A米国の大学企業における新たな研究開発成果活用、B新設された国内理工系大学高専で大量に養成される新卒技術人材、の合成ベクトルによって達成された、と結論できる。それゆえ、戦後経済において我が国の<産>が自国の<学>に期待したものは、<優秀な技術系人材の供給>であったと言わざるを得ない。その結果、大学人は、より産から離れ学会活動と論文発表という内向きの活動に向かい、必然的に我が国産業界の技術イノベーションに対する期待は外国、特に我が国を強大な産業力で打ち負かした米国の技術源泉=大学へと向かったことは自然な流れであった。つまり、敗戦は予想を超える規模で我が国技術イノベーションの流れを変えたのだった。

 産の発展は技術イノベーションを不可欠とする。21世紀が知識の時代であるとすれば、文字通り国際競争に打ち勝つ優れた研究開発を国内に保有するものが世界を制する。その源泉が<産>と<学>の切磋琢磨にあることは、もはや何人も否定できない。それでは、公共財としての学における産への協力とその見返り、またアカデミズムの成果公開原則や教育専念義務に対する利益相反・責務相反の制御は、一体どのようになされるべきなのであろうか? 今こそ確固とした日本国民のための産と学の連携における<哲学と理念>が求められている。次号では、こうした点について触れたい。それは、単なる大学生き残りや企業研究開発投資リストラといった短期的思考を超え、少子高齢化する日本を2050年まで支えなければならない新たな技術イノベーション戦略の土台となるべき部分である。