動け!東日本復興計画:丹下健三氏の『東京計画1960』に学ぶ

DNDメディア編集長 出口俊一氏
2011/04/21

 DNDメディア局の出口です。私が初めてニューヨークを訪れたのは1987年3月中旬でセントラルパークの木々は凍てついていました。が、もうすぐ緑のパレードが春を呼ぶらしく、心なしか市民の表情に活気がみられました。冬に耐え春を待ついじらしさは米国東海岸の人たちも変わらないのだなあ、と、エキサイティングなこの街に親近感を抱いたものです。

 さて、この訪問で忘れがたいことがあります。開業間もないトランプタワーの森のファサードでもなく、ブームの走りで賑わう知人のすし屋のことでもない。また、ニューヨーク・タイムズ紙の1面に友人がエイズで亡くなったというショッキングなニュースや、子供むけのチャットで悪さをする大人退治のサイバーコップ登場という記事のことでもありません。

 それは、ニューヨークで聞いた世界的な建築家、丹下健三氏の言葉です。

「建築家は、その時々の都合で仕事をするものではない。都市の未来に責任がある」。

 日本人で初めてプリッカー賞を受賞することになった丹下先生に同行してニューヨークに行っていた時の取材メモに、そう書き残していました。建築家をある種のプロフェッションと自認し、その矜持を吐露されたのだと思います。丹下先生と接していた時の、その折々につぶやくように語った珠玉のメッセージが、いまごろになってとても懐かしく甦ってきます。

 原爆の地、ヒロシマ計画で原爆ドームを平和のシンボルとして残した。建築家でありながら、またアーバニストとして震災後の海外の都市エリアを復興させるなど都市計画に情熱を傾けたことはよく知られています。

 いま先生がご存命なら、東日本大震災への復興提案をどう描いてみせただろうか。入り江の美しい沿岸への津波対策や、農業、水産、製造業の集積と分散の手法、それに不安が消えない福島原発エリアの再生などを克服し、南北東西に都市軸を伸ばして行っただろうか。先生なら、きっと地元の多くの願いを実現するために知恵を絞り、海外からも英知を集めて、鮮やかなまでのグランドデザインで、被災地の多くの人々に希望を与え、先端の夢を浮かび上がらせたに違いない。丹下先生のDNAを引き継ぐ若き建築家、アーバニスト、デザイナーらの創造力を国際コンペなどの手法で、この東日本の復興計画に発揮させられないものだろうか。100年、いな1000年先の歴史遺産になりうるような計画を望みたい。

 余談ですが、丹下先生には数々の"薫陶"を受ける栄誉を得ました。新聞社では珍しい"丹下番"という番記者の下命があったからです。社会部都庁のキャップとの二足のわらじで、2005年3月22日にその見事なまでの91歳の生涯を終えるまで陰に陽に続きました。30年近くになるのだろうか。先生の亡者記事の扱いでは、新聞各社の友人を通じて根回しをしてせわしない夕刊を避けて翌日の朝刊扱いに足並みをそろえてもらいました。その日をめぐって各社が連日連夜、ご自宅の周辺に張り込みをかけていたからでした。

 さて、そういうわけでニューヨークに同行しました。このプリッカー賞は、ハイアットホテルチェーンのプリッカー家が1979年に創設し、生存する建築家の中から毎年1〜2人を選ぶ国際的建築賞です。建築界のノーベル賞と誉れ高いが残念ながらそれほどなじみがない。いまでこそ槇文彦さんや安藤忠雄さんが丹下先生に続いて受賞し、昨年は金沢市の21世紀美術館の設計で評判となった建築家の妹島和世さんと西沢立衛さんが受賞するなど話題を集めました。

 プリッカー賞といっても当時は、ほとんど知られていなかったのも無理はない。そもそもメディアの建築に対する関心は、きわめて冷淡ですから。そのためか、丹下先生の受賞の吉報に日本から取材に行ったのは私だけでニューヨークから夕刊に記事を送ったが、扱いは小さかった。フジTVニューヨーク支社駐在でアナウンサー、松尾紀子さんがロングインタビューをし、ニューヨーク向けの番組で放送した程度でした。

 が、現地メディアからは、取材の申し込みが多かった。特にニューズ・ウィーク誌は、丹下先生を"小さな巨人"と絶賛し、その偉業の数々を大きく取り上げました。欧米のジャーナリズムの建築への関心の高さに驚きました。それなら一層のこと、建築記者を目指してもいいか、と思うようになった時期もありました。産経新聞のカラー化に合わせた紙面改革で「建築」のページのコンセプトを作りダミー版を手掛けました。建築面を担当するのはいいのだが、すると文化部に異動しなくてはならない。社会部の部長がこれを拒否し、文化部長との板挟みで往生した。「君は何をやりたいか」と迫られて、「どっちでも…」と言ってひんしゅくを買った。何をやっても面白かったから、ほんとうに、どっちでもよかった。これも余談でした。

 さて、丹下先生の足跡を作品から探ると、東京オリンピックのシンボルとなった代々木国立屋内総合競技場や超高層に代表される建築デザイン群と、都市的デザインのふたつの流れがあり、その目指すところは後者の方ではなかったか、と思います。

 その受賞の決め手になったのも、1961年1月に発表した『東京計画―1960』(その構造改革の提案)と言われます。東京大学建築学科の丹下健三研究室が手がけたものです。この発表から今年でちょうど50年の節目にあたり、丹下先生のライフワークが再び、舞い戻ってきそうな気配がしてきます。

 なぜ、いま丹下先生の『東京計画』を強くアピールすべきと私が思い立ったのは冒頭にも触れましたが、3・11東日本大震災の復興構想をめぐる論議で、新しい街のグランドデザインというか、ビジュアルな都市的デザインの提案によって、東日本に希望の灯を掲げるような復興ビジョンを期待するからです。

 メディアの報道をみていると復興計画というと、復興基本法やら復興財源の取り扱いばかりが取り沙汰されているうえ、せっかく菅首相はじめ小宮山・元東大総長らの提言でも指摘されているように「単なる元に戻すという復旧ではなく復興」としながら、やはり元に戻すような印象をもってしまいます。会議や検討委員会の構成や有識者の顔ぶれは、政治、経済、金融の専門家が多く、復興ビジョンづくりで大いに力を発揮してほしい都市計画の専門家やアーバンデザインのクリエターの姿がしぼんでいないか、と心配しています。

 せっかくの新しい領域に踏み込んでいるのですから、文字や図形じゃなくそれこそ3Dによる映像でイメージさせうる方法もあるかもしれない。エネルギッシュな若者の登場のチャンスの場にしてあげられないか。なぜかって、未来は若者の手中にあるからです。世界の建築家、デザイナーに呼びかける世界コンペを実施するのもアイディアでしょう。小宮山提案ではないが、100年先、1000年先に及ぶ、安心・安全、環境、エネルギー、高齢化をキーワードにした「世界の文明の先端が見える」という文面を映像で立体的に浮かび上がらせてもらいたい。

 せっかくなので、読者の皆様も気になっていることでしょうから、その『東京計画』はどんな提言だったのか。少し紹介しましょうか。


 『東京計画―1960』(その構造改革の提案)。
 その目次に記された主な項目は、以下の通りです。

T.1000万都市・東京の本質−その存在の重要性・その発展の必然性−
U.1000万都市・東京の地域構造−求心型・放射状構造の矛盾と限界−
V.東京計画1960−その構造改革の提案−
W.求心構造から線型構造への改革
‐サイクル・トランスポーテイションの提案−
X.都市・交通・建築の有機的統一
−コアーシステムとピロティを統一する一つの提案−
Y.都市の空間秩序の回復
−現代文明社会を反映する都市空間の新しい秩序−
Z.建設のプログラム
−混乱のエネルギーを構造改革のエネルギーに転化させる方式の提案

 各章ごとにそれぞれそのテーマに言及し、T章では、第三次産業に属する人口の集中による1000万都市の成り立ちから人口が都市に集中していった経緯を説きます。U章では、都市交通に関してのまとめで、「求心型放射状の交通システムは限界にきており、都市・交通・建築を有機的に統一するシステムが必要」とし、さらに「これらの流動性がもつスピードとスケールは都市の空間秩序を破壊しつつあり、新しい空間秩序を回復すべき」と現状分析から問題提起し、次の本論で提言していきます。

 要約すると、求心型・放射状から、線型・平行射状システムと表現するのだが、その方策は東京湾上を東京から木更津へ直結するハイウエイ式の「都市軸」を基本としています。そのハイウエイについて、脊椎動物の背骨の成長プロセスを例に説明し、都市軸という新しい概念を導入することによって、東京の構造を求心型放射状から線型平行射状に変革してゆくという。つまり、都心機能を周囲に拡大しようとすると、既成の住宅地を壊していかなくてはならない。加えて職住近接どころか、職住が遠くなり通勤時間がさらに長くなることが不可避になる。そこで、そういう求心型放射状の従来型のシステムを改めて、むしろ都心のエネルギーを東京湾上に伸ばしていってその両サイドに住宅を建てていくという成長可能な都市のコンセプトを提案していたのです。

 図面や画像を使ってビジュアルに訴えているほか、人口の変遷や将来予測、予算的な裏付までの詳細データを盛り込んだ、若き丹下先生48歳の渾身のプロポーザルといえるかもしれません。

 先生の足跡を見ていくと、この『東京計画』の世界的評価と相まって、丹下先生に舞い込んだ次のチャンスが実は、ユーゴスラビア連邦(当時)マケドニア国の首都、スコピエの都市計画でした。1963年に起こった大地震でスコピエは都市の7割が崩壊し、死者1100人、負傷者4000人を数えた。1966年から72年にかけて丹下先生を中心とするチームの設計による再建事業が行われ、ビルの立ち並ぶ近代都市へと生まれ変わったといわれます。マザー・テレサがこの町で生まれたのはよく知られています。

 ところでこの街の復興は国連のUNDP(国連開発計画)が復興計画の国際指名コンペを行いました。指名の6人であらそわれ丹下案が1等となった。その時、現在MoMA新館の設計で注目を浴びる建築家の谷口吉生氏、磯崎新氏、渡辺定夫氏らが現地スタッフとして派遣されていました。丹下先生が東大の建築学科から都市工学科に移籍したのが1963年で、建築家が都市計画を意識し始めた時代でした。

 もう少し、丹下先生の原点というか、なぜそれほどに都市設計にこだわるのかを探ってみることにします。スコピエは、大地震で都心部がほとんど壊れ、住民が遠くの方へ住むようになり、そのため東西にリニア―(直線的)に町が伸びていった。都心部の都市計画は地元のチームと連携して建設を見た‐「建築の総合雑誌『スペースデザイン』91年5月号」と述べ、都市設計の重要性をこう続けていました。

『つまり、こういう風にチャンスをつかまえてうまくやればよいが、そのチャンスを逃すと、東京のように何回火事にあい、何回大地震にあっても、元の木阿弥になってしまう。東京も今世紀、そういう時期が何回かあった。大震災とか第二次大戦とか、まったく焼け野原になった時期である。しかし、そういうチャンスをとらえて都市の骨格づくりを強引にやってくれるリーダーがいなかったために、その焼け跡に翌日からバラックを建て始めるというような再建の仕方をしてしまった』

『第二次大戦のあとは、経済的にも破綻していたので富の蓄積がなかった。少しでもましな建築を作ろうという話は全くでてこなくて、翌日からバラックを建て、次にブロック造りになり、それから2−3軒集まってコンクリート造りにしようという具合に、おそらく今の姿になるまで3回か、4回ぐらいたて替わっているのではないだろうか、そのうち少し高くてもいいというのでペンシル・ビルが軒を接して立ち並ぶという、今日どこにでもみられるような東京の街並みができたのである』

『このように東京のでき方というのはまったく自然発生的で、道路ひとつとってみても、昔の農道がそのまま残っていて、車が通るのに狭いから少し幅を広げようという程度のものである。道路にそって町が伸びる。さいわい近年日本の経済が成長して1人当たりにすると世界一豊かな国の仲間入りをした。だからちゃんとした蓄積を後世に残そうではないかという気分がでてきたが、それでもまとまったことは何もできていないのはどういうわけだろうか』

 丹下先生は、これが日本流の都市の建設の仕方だといえばそれまでだが、将来の発展を考えると、大いに危惧されるところである、という。またいつかの折り、狭い道路のわきを集団で登下校する児童の列にダンプや車が突っ込んで悲惨な事故が後を絶たないことを憂いて、その後の都市計画では「人と車の分離」を優先させていました。車社会とはいえ、集団で列をなす児童のわきをすれすれに車が走る危ない光景が毎朝、毎夕繰り返されているのは、考えれば異常事態です。先日も栃木県鹿沼市犠牲になった児童6人が痛ましい。

 話を本題に戻しましょう。私の手元に『東京計画―1960』と題した小冊子の原本があります。先生から直接、頂いたものです。その表紙をめくると、そこに一文が添えられています。

『私たちは、今後とも東京について考え、東京に対して提案を続けてゆきたいと思っています。(中略)、できるだけ広く、またいっときも早く、東京の混乱した現在の状況を憂いておられる方々に、高覧に供したいと考え、ひとまずこうした小冊子をだすことにしました』と語り、以下、大胆な提言とは裏腹に、その行間には丹下先生らしい細やかな息遣いが感じられます。

 例えば、『この提案は、かなり具体的な像をもっております。こういう具体的な像を見ると、その形にこだわって、その背後をみようとしないこともしばしば起こりがちです。しかし、私たちはこの像の背後にある考え方や、方法や、また方向をとらえて頂きたいと望んでおります』とその真意を伝える一方で、『この提案を固執しようとは思っていません。皆様の批判によってわたしたち自身の考えを修正してゆきたいと思っております。より正しい考え方と、提案がなされれば、この提案すてても、それを支持することに、決してやぶさかではない。私たちのただひとつの念願は、東京を救済するより正しい道を発見していくことにある』と、謙虚な物言いですが、明快です。

 これは提言のいわば巻頭のメッセージのようなものです。丹下先生のふだんの語り口がリアルに伝わってきます。その下段に1961年3月1日と日付が入り、その真横には、丹下健三氏の署名、次のページ右上段には東大丹下健三研究室の『東京研究』に加わった神谷宏治、磯崎新、渡辺定夫、黒川紀章、康炳基らの学生らが名を連ねているほか、浅田孝、大谷幸夫両氏の名前も散見されます。

 東京計画1960は、その後、お台場エリアの臨海副都心計画へと展開されているのはご存じの通りです。この『東京計画』は、海外ではまた違った評価をえています。これは、丹下先生が手がけた都市計画の主だったものです。実現したものもあれば、実現しなかったものもあるが、丹下先生はご自身の思いを存分に発揮されたのではないか、と思います。

 大震災後の都市復興を手掛けた「スコピエ都心部再建計画」に続き、New York の「Master Plan for Flushing Meadow Sport Park」、San Francisco の「Master plan for Yerba Buena Center San Francisco」、Nepalの「Lumbini Sacred Garden-Birthplace of Buddha Lumbini」、イタリア・カターニア市の「Librino New Town Project」、テヘランの「Abbasabad New City Center 」、カタールの「His Highness the Emir's Palace the State of Qatar」、ナイジェリアの「Central Area of New Federal Capital City 」、ナポリの「Master Plan and Urban Design for The Naples Administration Center」、パリ・イタリア広場「Grand Ecran 」、そして「東京計画1986」と数多い。そのベースは、やはり「東京計画1960」にあったことは確かです。

 丹下先生が逝去されたのちに発表された『丹下健三 DNA』(BRUTUS Casa特別号)によると、世界の建築家らが丹下先生をこんな風に論じていました。興味深いので、紹介します。

 英国を代表するモダニズム建築の専門家、Dennis Shap氏は、建築評論家の故レイナー・バナム氏がその著書『メガストラクチャー』(1976年)で紹介した文章を引用し、この東京計画1960年を「60年代を通して、日本や建築や都市計画のインスピレーション源とたらしめた傑作」と評したことを伝えながら、「60年代は、イギリスのアーキグラムやイタリアのスーパースタジオなど世界各地から出てくるわけですが、丹下さんはそのパイオニアでした」と述べていました。

 ポンピドゥー・センターの建築&デザイン部門主任キュレターのフレデリック・ミゲル―氏は「アーバニストとしての丹下がヨーロッパで最初に発表したのが1965年の、スコピエ都心部再建計画でした。とても長く大がかりなプロジェクトで、それには東京計画1960年を適用し、ヨーロッパの都市再開発の方向支援したのです。東京計画1960年は、丹念に人口増加や都市機能の変化を分析し、現都心にオーガニックに運動する新たな第2都心の建設を提示した」と説明していました。

 建築家のピーター・クック氏も「東京計画は私も影響を受けました、あれは、日本の建築を追従者としてではなく指導者へと昇格させたプロジェクトですと絶賛でした。

 丹下先生による東京計画の手法が、この現下の復興計画に役立つだろうか。それは門外漢の私には正直、答えが見えません。ただ復興計画を具現化していく過程で何か新しいヒントを提供してくれるのではないか、と思います。みなさんは、どうお考えでしょうか。どうぞ、忌憚のないご意見をお聞かせ願えれば幸いです。

■東京計画1960
http://www.tangeweb.com/detail_pdf.php?id=8


■丹下健三氏
1913−2005昭和-平成時代の建築家。大正2年9月4日生まれ。広島平和記念公園などの競技設計に当選をかさね,地位を確立。昭和36年丹下健三・都市・建築設計研究所を開設。38-49年東大教授。戦後日本を代表する建築家のひとり。作品に東京代々木の国立屋内総合競技場,東京カテドラル聖マリア大聖堂,東京都新庁舎など。ユーゴスラビアのスコピエ再建都市計画,イタリアのボローニャの都市計画なども手がける。55年文化勲章。62年プリッカー賞。平成17年3月22日死去。91歳。愛媛県出身。東京帝大卒。












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