塩 沢 文 朗

前内閣府大臣官房審議官
(科学技術政策担当)



藤岡市助と国際標準化とこの国の産業のかたち



 司馬遼太郎の小説の真骨頂は、明治維新前後を舞台とした物語だ、と誰かがどこかの書評で書いていましたが、やや偶然に手にした司馬遼太郎の「花神」を読んで、この評価に心から肯かされました。

 「花神」には、主人公の村田蔵六(後の大村益次郎)を太い縦糸としつつも、幕末から明治にかけてこの国の新しい形を創り上げていった人々、あるいは、思い半ばで倒れていった人々が、時代の流れの中で演じた役割を見事に描かれています。その先人の多くが何と才気と好奇心にあふれ、胆力をもった人々であったことか。「花神」の主人公の村田蔵六という天才的巨人の存在にも圧倒されますが、日本の近代には、私たちが歴史を振り返らなければ名も知らない、本当に優れた多くの人々がいたのだということが分かります。前に、DNDのメルマガで取り上げられた山川健次郎 もそうですが、とんでもない秀才で、波乱に満ちた経歴と日本の経済社会に「破壊的なイノベーション」をもたらした人、しかし、現代の日本人の多くがその名前を忘れてしまったような人が幕末から明治にかけて綺羅星のごとく輩出された。それを見ると、いかに日本の室町、江戸時代に培われた技術と文化の蓄積が大きいものであったか、そして、明治維新後の日本の急速な発展は、そうした蓄積を背景として教育された異能者たちが明治維新という既成の枠組みが壊れるなかで藩のくびきから解放され、自由に交錯しあったことによる必然的な展開であったといえるのではないかと思えます。

 明治維新前後の歴史から、イノベーションについて学べることは多いと思いますが、今日は、そうした先人の一人、藤岡市助(*i のことから話を始めたいと思います。藤岡市助は、安政四年(1857年)に岩国で生まれ、日本で電球の製造を始めた「日本のエジソン」と呼ばれる人物で、1890年に東芝の前身となる電球製造会社、「白熱舎」を創設した人物です。

 私が、この方の名前を知るきっかけとなったのは、昨年、実施された日本の国際標準化100周年記念事業です。藤岡市助が100年前の1906年にロンドンで開かれたIEC(国際電気標準会議)の設立会議に日本代表として参加したことが、日本の国際標準化活動の記念すべき出発点となったからで、その会議に欧米以外から参加したのは13の参加国中、日本ただ一国。その最初の国際標準化の課題は、電気関係の用語と図記号を統一することでした。1906年は日露戦争の終結した翌年で、日本の意気が上がっていた時代とはいえ、地味な国際ルール作りのための会議に、遥か日本から参加した先人がいたことに驚きます。

 国際標準化は、後で述べるような理由で、最近では技術戦略、市場戦略の手段として関心を集めるようになりましたが、本来は、技術を日常生活や産業で広く使うために、技術の用語に関する定義、性能の評価方法、製品の互換性の維持のための技術などを国際規格として決めるといった、いわば産業技術の発展基盤のための国際公共財づくりを行う地道な活動です。具体的な例を挙げれば、乾電池や電球などの電気製品や本やコピー用紙のサイズ、電子情報を文字情報に変換する際の文字コード、電子記録媒体の記録方式、携帯電話の通話方式、クレジットカードや銀行カードのサイズや情報記録方式などなど枚挙にいとまがありません。こういった活動は、日常生活や産業全体の活動にとって重要ではあっても、本来、金儲けに直接結びつく活動ではありません。世界の技術者が、技術の発展と利便性の向上のために無償で働き、技術に関するルールを共同で作るといった、私益とは一線を画した活動です。このような活動に日本の産業界から100年前に参加した技術者がいたということは、本当に驚くべきことです。

 それにもかかわらず100年後の日本の姿を見ると、世界でも有数の産業技術力をもち、技術の私的独占を目指す特許出願では世界のトップを争うような地位になる一方で、日本の国際標準化活動への参加の状況は、とても寂しい状況です。IECやISO(国際標準化機関:電気電子分野以外の国際標準化を担う)で行われている国際規格づくりの中心的な役割を担う幹事国(*ii の引き受け数で世界の4〜5番目にとどまるなど、国際規格づくりの面ではその技術力に見合った参加をしているといった状況にはありません。実は、こうした状況は第二次世界大戦後、ずっと続いています。きっと戦後のキャッチアップの時代の中で、国際公共財づくりに参加することの重要性の認識も気概も失われてしまったのでしょう。最近になっても、わが国の産業界で国際標準化活動への参加の重要性を認識し、実際に行動を起こしている経営者、技術トップの方々は、ほとんど居ないといってよい状況です。確かに、以前に比べて日本で国際標準化活動に参加する技術者の数は多くなりましたが、一部の例外を除いてそういった方々は会社の中で脚光を浴びることがないので、優秀な後継者も育っていきません。一縷の光明を見出すとすれば、やや皮肉な現象ではあるものの、会社から顧みられないだけに、企業の利益追求とは異なった次元で国際規格づくりに技術者としての生きがいを見出し、活動に励まれている方が多いことです。

 最近になって、本来、地味な国際標準化活動も、科学技術成果をイノベーションとして結実させる手段、さらには国際技術戦略の手段として少しずつ関心をもたれるようになって来ました。そうした背景の一つとして、1993年のGATT/TBT協定(技術的貿易障害の防止に関する協定)の締結があります。これによって、各国は、自国の技術規格を国際規格に調和させることが原則として義務付けられ、国際規格に採用された技術内容や方式が、世界で利用される製品や技術に用いられることになりました。これと相俟って、先端技術分野、特に、情報技術のように、技術進歩が極めて速く、他の技術選択肢の誕生を待つ時間的余裕なく、ある一つの基盤技術の仕様がネットワークで展開する他の技術の仕様を決めてしまうような技術分野が出てきました。こうした分野では、その基盤技術の国際標準仕様を押さえた企業の技術的立場が非常に強くなります。例えば、WindowsやNetscapeなどがこうしたものの代表的な例です。

 このようなことから、研究開発の段階から標準化を視野に入れて戦略的に研究開発を進めることが重要であるとも言われ始めました。具体的には、新たな性能や機能の発見や発明をすることにととまらず、そうした性能や機能が安定的に発現する条件に関するデータの収集や、その評価方法と評価の尺度の開発などを研究開発の一環として実施することです。そして、国際標準化活動は、研究開発を単なる研究開発で終わらせることなく、具体的な製品や技術として世の中に送り出すための重要なプロセスとして、イノベーション政策でも、今後、強化すべき活動とされています。

 ところで、国際標準化活動が重要というメッセージ性の観点からみるとそれはそれで良いのですが、メッセージ性を強くしようとするためか、国際標準化活動の重要性をややミスリードする可能性のある主張を、最近、良く目にします。 「日本発の国際標準をつくることによって、日本企業が国際市場競争で有利になる」との主張がそれです。なぜミスリードなのかというと、本来、国際標準化活動は技術の私的独占による利益追求とは対極にある国際公共財づくりのための活動だからです。だからといって、上記の主張が完全に間違っているわけではありません。この問題のややこしさは、上記の主張が、次のようないくつかのことを含意するために起きるのです。

 まず、「日本発の国際標準」が、デファクト・スタンダード(事実上の国際標準)を意味しているのであれば、この論理は正しいものの、主張自体は国際標準化活動の重要性を述べているものではありません。企業の研究開発や技術管理のあり方として、事実上の国際標準となるような独創的な技術を開発、保有することの重要性を述べているのです。また、「日本発の国際標準」が、デジュール・スタンダード(国際標準化活動の結果、国際規格としてルール化された国際標準)を意味しているのであれば、日本の技術がそうした標準として採用されたとしても、一般的には国際市場競争で有利にはなりません。国際規格として採用されるのであれば、その技術内容はオープンにされ、使用も自由になることが普通だからです。(横道にそれますが、これまで「国際標準」と「国際規格」という用語を使い分けて書いてきたのは、このような違いがあるからです。)ただ、議論をややこしくするのは、上記の情報技術のように技術進歩が極めて速いために他の技術選択肢の誕生を待つ時間的余裕のない分野では、特許で技術独占が認められている技術を国際規格として採用するケースが、一部で例外的ながらも出てきているからです。日本企業がこのような技術を保有し、それを国際規格とすることができれば、特許のロイヤリティが黙っていても多くのユーザーから入ってくることになり、国際市場競争で有利になります。が、このようなことは国際規格のあり方として本来のあり方ではないし、また、実際にもそれほど多く起きることとは考えられません。

 最も大事なこと、そして上記のような主張によって誤解を招いてはならないことは、国際市場競争で有利になるならないに関わりなく、国際標準化を始めとした産業技術の国際公共財づくりに、日本の産業として、少なくとも応分の参加と貢献をすることが重要ということです。精神論になるかもしれませんが、そうした活動にも注力してこそ、本来の産業(industry)といえるのではないかと思います。国際規格という産業技術の国際公共財は、これまで市場原理が徹底していると考えられている欧米を中心とした産業の技術者によって整備されてきました。日本の近代産業を興した藤岡市助を始めとする偉大な先人の思想と気概に思いをいたし、早くキャッチアップ時代の視野と思考から脱却したわが国の産業のかたちを作っていくことも、あるべきイノベーション政策のひとつの姿ではないでしょうか。そして、その政策目標の実現においては、日本の産業界に是非リーダーシップを発揮してもらいたいものです。



*i. 会津藩の家老の家に生まれ、白虎隊にも属したという数奇な少年時代を経て、明治維新後、日本人で初めてイェール大学に留学し物理学を修め、その後、九州工業大学の前身の明治専門学校を設立し、その後、東京帝国大学の総長を二度、京都帝国大学の総長、九州帝国大学の総長も務めた。
*ii.国際規格は、ISO/IECなどの国際標準化機関の加盟国による投票によって決められるが、国際規格案づくりの段階においては、技術分野ごとに置かれる委員会の事務局を引き受ける幹事国が中心となってその原案作りを行う。