塩 沢 文 朗(*i)

前内閣府大臣官房審議官
(科学技術政策担当)



Ev Rogers先生の思い出



 今回は、個人的な経験をもとにイノベーション問題について私が考えていることを書かせていただくことをお許し願いたい。

 もう20年以上昔のことになるが、1982〜84年にかけて私は、Stanford 大学大学院のCommunications学部でDiffusion of Innovationsを勉強した。私のAcademic Advisor は、Dr. Everett M. Rogers (ロジャース)という方で、出身地であるアイオワ州の農業普及サービスに従事している時に大学に進学することを勧められ、Diffusion of Innovations研究では世界的に名を成す研究者になったというちょっと変わった経歴を持つ方だ。彼の研究成果は、この分野の世界的名著である"Diffusion of Innovations"としてまとめられ、この本は5版を数えるベストセラー出版物となっている。

 外見は、カントリー・ミュージック歌手のKenny Rogersに良く似た(お二人の間に親戚関係はない・・・と思う)気さくで、異文化をものともしない柔軟な考えの持ち主で、外国からの留学生を大事し、学生からは"Ev(エブ)"と呼ばれ親しまれていた。事実、先生はStanford大学を含め、ミシガン大学、南カリフォルニア大学など米国内で6つ、米国外でもパリ大学など6つの大学で教鞭をとった経験をもち、先生の著作は15カ国語に訳されている。Stanford 大学の教授というととかくちょっとsnobbishな教授のイメージを思い浮かべがちだが、こうした略歴からも分かるとおり、Rogers先生は、実践を重要視する"土臭いコスモポリタン"学者だった。プライベートな面でも生涯で(国籍の異なる)4人の女性と家庭をもつなどそのライフスタイルも大変にリベラルな方ではあった。

 こんなことを急に書く気になったのは、年末年始の休み中、ひょんなことからRogers先生が2004年10月に73歳でニューメキシコ州アルバカーキの地で亡くなっていたことを知ったからである。(晩年は、ニューメキシコ大学のコミュニケーション学部の創設に尽力されていた。)そういえば、ここ2〜3年クリスマスカードが来なかった。私自身は、84年に留学から帰国したあとも、長い間Rogers先生の研究室に通商産業省の若手を受け入れてもらっていたこともあり、ずっとお付き合いをさせていただいていた。もう10年ほど前になるが、日本の狭い公務員宿舎の我が家にも来られ、妻の手料理に舌鼓を打っておられた姿が懐かしく思い出される。

 このような思い出話とは別に、Rogers先生との出会いにおいては、私にとっての痛恨事がある。今振り返ってみれば全くもって私の不明の至りなのだが、私が先生のもとでDiffusion of Innovationsを学んでいたとき、私は、正直言ってその内容にがっかりした。なぜなら、先生がDiffusion of Innovationsの鍵として着目するのは、イノベーション(新しいアイデアや行動)の定性的性質、イノベーションに関する情報の伝達経路・媒体や、普及対象となる人、組織、地域、社会等の定性的属性であって、きわめて社会学的なアプローチ であった(ように感じた)。私が漠然と期待していたのは、新しい技術が産業界に普及する際の経済的、技術的条件を明らかにするような「経済学的アプローチ」だったのだ。ここで私の思考の甘さを再度反省するのだが、当時、私の頭にあった「経済学的アプローチ」というのも全くもってイメージの域を出ておらず、振り返って考えてみるとイノベーションの普及速度や普及度を決定する要因を明らかにし、イノベーションの普及速度を定量的に予測する手法の研究を夢見ていたのにすぎなかったのだと思う。

 実はこの背景には、イノベーションの普及という現象が私のもう一つの学問的バックグラウンド(化学工学)で取り扱う物質拡散現象と以下に述べるようなアナロジーがあったことが関係していたように思う。物質(や熱)の空間における時間的拡散は、一般的に以下のような拡散方程式で表すことができる。(DNDメルマガで数式が登場するのは初めてでしょう!)



 すなわち、物質の拡散速度()は、濃度勾配()の傾きに比例するということで、拡散する物質の置かれている点からx 離れた点での時間的濃度変化をグラフに描くとS字型曲線になる。これをイノベーションの普及に当てはめてみると、イノベーションの普及速度は、イノベーションのインパクトの大きさ(イノベーションの新奇さ、異質さの微分値といえるだろうか)に比例し、イノベーションの普及度は時間とともにS字型曲線を描くということになる。しかし、拡散速度(イノベーションの普及速度)を説明する大半の要因は、拡散する物質や媒体の物質毎によって異なる係数αに入ってしまうため、拡散する物質や媒体の物質の物性が不明な場合(普及するイノベーションの質やイノベーションが普及していく地域や社会的階層の性質が不明な場合等に相当)、物質の拡散源からxの距離離れた一次元直線上における物質濃度の時間変化の記録から、係数αの大きさを決める要素とその寄与度を決定することはできない。今となっては、当時、自分が何を考えていたのか良く分からないが、物質拡散の場合、拡散する物質や媒体の物質の物性値が分かればαが決定できることから、イノベーションの普及速度を決定する要因を定量的に推定する方法を学びたいとドンキホーテのようなことを考えていたのに違いない。そして、社会科学の中でも現実社会において予測的政策手法として用いられる(と信じられている)経済学のような「経済学的アプローチ」への根拠なき期待があったのだろう。

 しかし、その後、やはりStanford大学経済学部のNathan Rosenberg教授やMITのRichard Lester教授などイノベーション問題を研究する多くの研究者の話や、関連する文献を読んで分かったことは、少なくとも私が承知している範囲では、イノベーション問題を定量的に分析・予測するような手法は存在せず、イノベーションの普及速度や普及の度合いを左右する要因は、人や組織や地域などのイノベーションが普及する場やイノベーションそのものの性質に係る様々な属性の複合した結果だということだ 。

 すなわち、イノベーション研究は、イノベーションの普及の要因を全て説明しきることではないし、また、普及の程度を定量的に予測することでもない。他の多くの社会科学と同様に、どのような要因がイノベーションの普及に関係し、その要因相互間の相対的な重要性についての推測を可能とすることによって、政策的インプリケーションを与えることなのだということに遅まきながらようやく思い至ったのだ。こう気がつくとRogers先生の研究成果には、見るべきものが多々あることに今さらながら驚くとともに、Stanford大学当時の自分の認識と理解の甘さを情けなく思う。

 Rogers先生は、イノベーションというこれまでとは異質なアイデアの性質、そうしたアイデアを発信する者の性質、アイデアという情報が伝播する経路や媒体、そうした情報の受け手の性質、情報の受け手の置かれている組織や社会の規範、イノベーションという異質なアイデアに関する情報を受信した者や組織がイノベーションの受容を決定するにいたるプロセスとそのプロセスに影響を与える要因を分析的に体系的に明らかにする。すなわち、分析の枠組みを構築したという点で大きな功績を残されたと思う。実際に起こる個々のイノベーションの普及事例では、これらの要因の影響度はさまざまであり、個々の事例の分析結果が他のイノベーションの普及課題に直ちに参考になることは少ない。しかし、分析の枠組みが示されたことによって、そうした分析結果の情報の体系的な集積が可能となり、例えば、一般的レベルの学識をもち、経済的に中流階層に属する人は、その人にとって少しぜいたくな買い物をしようとするとき、自分の身の回りの信頼する人からの口コミ情報が商品の購買判断に大きな影響を与えるなどといった、様々な政策的インプリケーションが得られるようにもなってきている。

 実は、そうしたイノベーションの普及研究の「政策的インプリケーション」は、マーケティングの世界、とくに広告宣伝の世界では既に広く利用されている。そして、日本でも遅まきながらCMの世界だけでなく、選挙キャンペーンやリスク・コミュニケーションといった分野でも徐々に活用され始めている。

 政府の「イノベーション政策」においても、イノベーションの普及研究から得られる「政策的インプリケーション」をもっと活用すべきと思う。実は、誰もこうした意見に反対はしないのだが、活用するための投資(具体的には、一般に「広報専門家」の範疇に含まれてしまうことの多い、イノベーションの普及研究の専門家を、金を出して雇うことなど)をしようとすると、そこまでの理解は得られない。また、日本においてイノベーションの普及研究が陽の当る研究分野となっているとも思えない。「イノベーションと安全と安心」と題した別原稿でも指摘したが、リスク管理に関する分野と同様に、イノベーションの普及研究のような分野でもわが国の政策科学研究の遅れが見られる。やや飛躍するが、こうしたわが国の政策科学研究の遅れ、底の浅さは、これらの分野に限らず様々な分野で感じる。なぜ、わが国の政策科学研究がこうした状況にあるのか、これも真剣に反省されるべき問題だと思う。

 長々とずいぶん余談を含めて個人的な思いを書き連ねてしまったが、最後にこの紙面を借りてRogers先生にお詫びと尊敬と感謝の意を表し、心からご冥福を祈らせていただきたい。

*i. ここで「社会学」と書いたが、最近ではコミュニケーション学部なる学部をもつ大学も日本に出てきたことから、今風に言えば「コミュニケーション学」と言っても通じるかも知れない。コミュニケーション学とは、コミュニケーション理論を用いて、新しいアイデアを広く世の中に広め、人々の行動に影響を与える方法論の研究で、コミュニケーション理論の最大の用途の一つは、マーケティングや選挙キャンペーンある。
*ii.実は、Rogers先生が亡くなっていたことを知ったのち、懐かしさもあって彼の最新著作である"Diffusion of Innovations(第5版)"を入手し、この原稿を書きながら斜め読みをしていたら、1999年にミネソタ大学のVan de Ven教授が、工業、教育、農業、医療、防衛技術の普及に関する新たな分析の方法論をまとめていることを知った。実は、まだ、この研究を読んでいないので、この部分の記述はあるいはもう時代遅れの認識なのかもしれない。