長編小説「つなみ」のさわり紹介

2011年3月17日
北澤 仁


作者 生出泰一(おいでたいいち)
作者略歴 青森県十和田湖町奥瀬出身、花巻在住
著書:「河童は生きている」「みちのくよばい物語」アサヒ写真ブック「中尊寺」他。ガイドブック「十和田・八幡平・田沢湖」その他。
初版:昭和53年7月

 この本は明治29年の三陸大津波(M8.6)の被災と復興にまつわる地元の医師鈴木琢治、別名「柴琢」村長の豪快な活躍とその後の悪戦苦闘、不撓不屈の人生をつずったものである。終戦直後の読売新聞社の激烈なストライキを指導し、その後釜石革新市長を務めた鈴木東民氏は「柴琢」の甥にあたる。著者生出氏はすでに亡くなり、版権は一族の御婦人が引き継いでる模様。

 小生昭和60年ごろ釜石在住の頃この「つなみ」を購入し、明治29年の三陸大津波の凄さと今でいえば田中角栄張りのリーダーの行動力に大変興味深く読ませていただき、その後忘れていましたが、今般の東北関東大震災にあたり自室の本棚から多少崩れ、落ちた書籍の一番上にまさにこの「つなみ」が乗っており、これも何かの啓示で100年前の釜石唐丹村の大惨事と大活劇をこの際もっと世に知ってほしいとの天の声と受け止め、時節柄とりあえず大津波の方を中心に、地元民が語っていた語調で下記の如く断片的に抜粋し、いくつかのシリーズで御紹介いしたく思います。

 なお版元の御婦人には津波被害を受けた地元の人たちを元気づけ、支援の輪を全国に広げる意味でも追加出版は有意義ではないかと伝えております。

                            記

1.大津波来襲直前の地元民の会話
A)もし大潮が起ぎだら沖さ出漁してる兄等心配だ
B)沖は何でもねぇ。ただ大きい波さのるだけだ。むしろ陸があぶねぇ。
何十尺も高い大潮が押し寄せてきて、船も家もみんなさらってゆくじぃ話だ
B)おめぇの兄等は節句の日に出たのか?
A)んや、鰯がうんと捕れるって、だって、あんなのは大概11月頃までに終わるもんだべぇ・・・・今頃大漁するのはおかしいな、昔から春鰯がうんと捕れるのは良ぐねぇことだと、大潮とか大地震がある前ぶれだって

突如白光が家の板戸の隙間に閃きまもなく大砲のような大音響が唐丹湾のかなたに起きた。

B)あれぇ、雷様落ちたべが?
A)いや、あれは大砲かもしらねぇ・・・、支那人かも知れねぇぞ
B)まさか?
A)戦争で日本が勝った、勝ったとお祭り騒ぎをしているが、いつか支那人が仇をとりに来るかもしれねっておら方の旦那が云っていた

 明治27〜8年日清戦争で日本は大勝し、戦地から戻った若者たちはそれぞれの出身地で凱旋将軍のように歓待されていた。だから誰言うとなしに"今に支那人が仇をとりに来るかも知れないぞ"という噂話が広がっていたのである

2.まず大地震到来
・・・・若者の一人が唐丹村の小白浜から戻るとき突然、周囲の山々が地鳴りしたと思うと、全身を揺さぶられ、同時にズツ・ズーン・ド・ド・ドーツ!と崖崩れが起きて彼を雑木林に押しこくったので彼は咄嗟に太い木に捕まり、枝にぶら下がった。白浜に戻ってみると人々は大地震でみんな戸外に飛び出し、ガヤガヤと言い合ってる様子が聞こえてきた。灯火ひとつない小白浜港90戸余りの家々や路地のざわめきは5分、10分経つにつれ波が引くように遠のき静かになっていった。それから3回余震があったが村人は家屋の被害がそんなにひどくないので早々に家の中に戻ったようだった。若者は再び波止場の方に下ったとき遥か唐丹湾口の方に波の音を聞いた。しばらくしてだんだん近付いてくる気配、それからものの1分も経たないうちにド・ド・ドーンと苫の鼻崎に大波をたたきつける様な大音響、若者ははっと海上を見詰め思わずー「あーツ!!」と叫んだ。

 黒い巨大な壁が小白浜めがけて押し寄せてくる。とたんに波止場の船舶がまくれ上がり、グワラ、グワラ、グワラ!!とぶつかり合い、たたみ込まれながら陸の家並に襲いかかった。彼はあらん限りの大声で「津波だ!!大潮だ!!」叫びながら坂を駆け上った。しかし船や家々を木っ端微塵に噛み砕き、まくしあげてくるこの怪物の足は早かった。彼はたちまち追いつかれ海水や板きれやガラクタにもまれながら押し上げられ、太い木に叩きつけられると、夢中でそれにしがみついて頑張ったそうだ。するとたちまち波が引いた。と同時に左右のあらゆる建物や木材、荷車、ガラクタが砕け洗われ、恰も大きな石山の崩れ落ちるような、百雷の轟くような大音響を伴いながら海に突っ込んでいった。波が引いて彼は6尺以上の高さの柿の木にしがみついていることに気が付くと力尽きてドサリと地上に落ちた。「ああ助かった・・・」と思ったが"大津波は2度3度繰り返すものだ"という祖父の話を思い出し、急いで坂を駆け上った。案の定前回より巨大な破壊魔が再び襲ってきた。今度は残っていたすべての建物を何一つ残さず、洗いざらい破壊して沖に引き上げていった。3度目は前2回より大きくはなかったがそれでも残っていたガラクタを一掃するかのように洗っていった。



3.医師鈴木琢治の獅子奮迅の活躍
 少し内陸の部落に住んでいる村で一人の医師鈴木琢治は途中の部落の被災者を地元の人に頼んで戸板やモッコに乗せて自宅に全員運ぶように申しつけ小白浜に向かった。小白浜に着いた時は真夜中だった。生き残りのわずかな人間から村はほとんど全滅、残っている建物は高台にある盛岩寺とお不動様ぐらいだろうと聞かされた。彼は暗黒のあちこちから救いを求める声や悲痛なうめき声を聞き何としてでも救わねばならぬと思ったが一人、素手ではどうしようもなく、「そうだ明かりだ!」と云って馬を盛岩寺に走らせ親戚で懇意の和尚に「寺をくれ、明りにする、火をつける、浜や海にいる怪我人を早く探して運ばねばならねぇ、その明かりだ!」とねじ込んだ。寺を燃やすとは罰あたりなことと和尚に断られるや今度は海の守り神のお不動様を燃やして明かりにしようと即断し、「その明かりで海に生き残っている人たちを助けるのだ!」と自分で本堂に乗り込み、ほんの10秒頭を下げ、自分の提灯のローソクで火をつけたのだった。やがて火炎が堂内部に満ちて板塀や屋根からメラメラと吹き出すと、周辺の林や森が照らし出され、遠方からも見えるようになった。琢治は火炎に向かって手を合わせ何やら唱えだした。周囲は「お不動様の罰あたらねぇべか・・・・」と心配したが琢治は意外にも物静かに「お不動様はな、いつも背中さ火コ背負ってる神様だ。おれは後でもっと立派なお堂を建ててお返しをする約束をしたから罰など当たらないよ」とつぶやいた。

 彼は大勢の怪我人を自宅に運び込み、手当てをしながら自分も全身血まみれになり、目は爛々と輝き、妻や手伝う人を叱咤激励、獅子奮迅の働きをした。琢治は負傷者を手当てしながら一番困ったことは包帯の不足であった。もともと内科、産婦人科が主であったのでこの様に一時に数十人もお仕掛けられては外科用品の不足は当然であった。そこで新しい布団を全部開縫させ、その綿を出して脱脂綿とし、布団皮の綿布や絹布を裂いて包帯とした。戦場さながらの修羅場であった。琢治にとっては県や国から救援隊や救援物資がくるまで、これらの負傷者をどうやって養い治療するかが問題であった。3日目の夜8時ごろ、ようやく県と赤十字社から救護隊がやってきた。軍医2人に看護婦3人が医薬品や手術用具等背負った人夫数人を連れ、県庁と郡役所の役人も混ざっていた。彼らにつずいて盛岡や東京の新聞記者たちが来たが彼らの取材は通信機関が全くなかったのでそれぞれ本部に戻ってから報道されたが現地の生々しい記事とスケッチは日本全国のみならず世界に報道され、三陸沿岸の津波は有史以来の大惨事であるといわれるようになった。

4.津波の惨禍
 釜石市誌102頁の一文を借りて大津波の大惨状を紹介する。筆者は菊池智賢という人。

 時はこれ明治29年6月15日(旧暦5月5日)朝来暗澹として陰惨なる殺気漲る。午前10時頃より降りし小雨は午後3時頃より強まって、風なくして轟々恰も車軸の流るるに似たり、この時長き地震あり。然れども雨勢凄まじくして為に知る者甚だ稀なりとす。暫時にして長大なる地震あり、この時人々大いに之を怪しみつつ、只呆然として足の踏むところ手の舞うところをを知らず、独り海岸に接近したる者は潮流の干満を実見せんとして出るありと雖も、時はすでに遅うして大事は目前に迫り、戦慄すべき山なす激浪は疾風の勢であり全く回避すべなく只津波とのみ一声を放って其の儘怒涛にかまれ、偶々身を以て辛く山辺にかけつけて一生を九死の間に拾い、或いは木片等につかまりて万一僥倖したるあり。その多くは家中にありて家屋と倶に粉殺せられたる、実に悲絶壮絶、現在に叫喚地獄の活劇は突発したり。而して九死に一生を得たる実際談に、大怒涛の襲来3回にして、小は数回に及びて振古未曾有の一大惨事は頓に定止す。この間僅かに50分を出でざるべしと(中略)廿日までに発見せられたる死体は1000余人に達す。引き取る者なき死体は旧境内と新境内に合葬地を新設し、大穴を掘りてこれに合葬せり。其の状恰も沢庵漬の如く。而して新境内に362人、旧境内に120人を合葬す。これは明記してないが釜石のことではなかろうか。

 また波の高さは片岸で5.4m、両石で14.6m、釜石5.3m、小白浜16.0mと記され小白浜が一番強大だったことが判る。(ある記録には30mに達したと書かれている)

 次に釜石市唐丹小史の231頁に災害後、東京から救援隊と共にやってきた砂田竹雨氏の通信文を借りる。(彼は気仙郡盛町方面からやってきた)とにかく鍬台峠を汗しながら越えてやっと荒川についてみたら雨だった。ずぶ濡れになりながら通ると人家10数戸あったという部落にたった2戸残っているだけ。それから小さな坂を越えて片岸に出て小白浜に来てみたら、戸数百余りあった村の学校、役場、駐在所や商家等はほとんどなく、本郷も百余戸、唐丹一番の繁華だったというのがみな流失、これらの総戸数360、死亡男女2000余人。船舶210余が破壊云々・・・・と詳しく報じている。また本郷の唐丹小学校は生徒115名だったが、死亡した者112名と僅か3名生き残り、訓導兼校長菊池仁丙は幼児一人残して水底の鬼となったし、小白浜小学校は生徒85名中60名が死亡した。

 鈴木琢治は大津波直後から県内外の新聞を購読し重要参考記事は切り抜いておいた。それは今も保存されているのでそれから少し借りてみよう。

 6月15日夜突如三陸沿岸を襲った大津波は死者22000、負傷者4500、流失家屋じつに13000。有史以来の大惨禍であった。生存者の一人菊池新之助は・・・・自分は釜石郵便局に勤めていたがその夜8時20分頃大変な音がした。雷様と思って電信機の取り外しにかかったところ、間もなく板を折るような音が聞こえてきたので、さては話に聞いた大潮だなと咄嗟に思い付き、局長を引きずって2階に駆け上がった。窓の外は何も見えなかったが潮が窓近くまで逼ってきたことが判り、なお水面をのぞいて見ると突然黒い物がプクリと目前に浮かんだ。つかんでみると人の頭だ。引き上げると女だ。こうしてつかんで入れ、つかんで入れして70人ほど救いあげたので、四間に八間の2階は一杯になった。そのうち潮がひいたのでほっとして、振り返ると、内20人ばかりは真っ裸だ。ただすと隣家が風呂屋で入浴中に襲われたものと知らされた。阿鼻叫喚さながらの生き地獄の一夜は明けたが、夜の白むにつれて判明する惨状は筆舌に尽くし難く、高台を除く外はほとんど全滅。当時釜石の全戸数1500のうち罹災880戸、人口6529人中死者3765人。自分は通信機関回復の急を思い通信機械を探して歩き海岸で発見したので早速釜石鉱山事務所(現新日鉄釜石)を借りて備え付け、17日朝から開通したが困ったことは電信用のテープもインクも流されてなく受信できぬことであった。

 沿岸中最もひどかったのは下閉伊郡田老村で全戸数335微塵となる。老幼1867人は海底の鬼と化し、残る者は僅か36名。公職員にして死を免れたものは赤十字総会に臨んで留守であった岩泉村長と学校職員及川正助2人のみ。吉浜村は波の高さ百尺を越え家屋らしい影は見えなかった。医師鈴木琢治についての記事もあるがそれには琢治の自宅全面開放、夫婦の衣類もみな提供したが村役場なく、無政府同様の場合にあたり尋常の手段では臨機の救済はできない為、救難憲法7章をつくってもしこれに従わない者は銃殺すると脅し、村民を激励して負傷者の運搬救護、死体の処理等に手抜かりなくやったが貯蔵米、書類みな擲ち、果ては強奪の汚名を着せられるまでに村民のために奔走したと記されている。



5.三陸津波の歴史
 琢治の甥で釜石市長だった鈴木東民氏が1956年に編集させた釜石市誌によれば
1)貞観11年(西暦869年)3月26日=陸奥国大地震、津波を伴う
2)慶長3年(1598年)5月12日=津波
3)同19年(1619年)10月28日=大津波
4)元和2年(1616年)10月28日=大津波(日にちは疑問)
5)延宝5年(1677年)3月12日=夜大地震高潮
6)寛政5年(1793年)正月7日=大地震津波
7)安政3年(1856年)7月23日=九つ時始より大地震1時間半ばかり揺れる。鈴子八幡鳥居のかさ迄大潮水来る
8)そして明治29年6月15日の大津波と昭和8年3月3日、次いで昭和35年5月24日のチリ―津波である。

6.津波発生地と自然現象
 三陸沿岸で津波の被害が大きい理由は
1)はるか沖合の海底で広範囲の地形変動による大規模の地震が時々発生すること
2)この沿岸にV型やW型の港湾多く、しかも入口が震源地の方向に開いていること

 この二つである。深海で地震が起こった時、真上の海面にも海底同様の狂乱が起こり、これが数十キロから百キロ以上の波長、すなわち津波となって広がり、VやW型のリアス海岸に侵入する。湾口の幅が次第に狭くなり海底がだんだん浅くなるから波の高さは数倍または数十倍となり、V型やW型の底辺では想像以上の暴威を振るうのである。東北大学の理学博士故中村左衛門太郎氏の記録によれば、気仙郡吉浜では明治29年の津波の高さは80尺(27〜8m)、綾里村白浜では少なくとも百尺(32m)以上に達したと。そしてその震源地は釜石の東方約120キロ〜200キロ、宮古測候所から東経145度、北緯39度の太平洋海底だった。このあたりの水深は5500mから10000mのタスカロラ海溝にのぞんでいて、海溝断崖の崩壊か地滑りによるものという。津波が起こる直前に強震があり、発光現象を見、大砲・遠雷のような大音響を聞いた人が多い。強震後平均16分、沿岸北部では平均20〜30分後に津波が押し寄せてきた。岩手日報記者は釜石沖合で津波の前に洋上や地平線上に稲妻のような淡青色の発光が認められたと当時の新聞に報じられている。

7.報じられた其の他エピソード
1)歩兵根片万次郎は轟然大砲の如き音を聞きつけ、敵艦来たりと急ぎ軍服をつけて剣を下げて海岸にはせ出ずるや山の如き波に洗われて行方知れず、後死体を見出したるになお剣を放たざりき
2)南閉伊郡片岸村では老婆と子供だけ助かり、毎日天を仰いでうらんで曰く"今までは支那に勝った勝ったと毎日国旗を立てて暮らしていたが、今度は仇をとられた・・・・・"
3)大槌にては恰も軍人凱旋祝賀会を開き、花火を打ち上げ酒宴を催した。賓客にして勲章の栄を負うて勇ましく凱旋したる近衛歩兵一等軍曹佐々木留吉、海軍三等機関兵中村由太郎の2名は激浪の中形骸を没し去りて、歓迎の宴は悲しむべき葬儀と化したり
4)津波の前兆として明治28年から29年にかけて三陸沿岸一帯にイワシの大漁があった。元来イワシは旧暦10月一杯で不漁になるのが普通であるが1月になっても多くとれた。海中に地震が頻発すると海底深く住む大型の魚類が浮かぶのでイワシは海岸へ避難移動するらしい昔から三陸沿岸で津波の前にイワシの大漁があり、津波の後にはイカが捕れるので"イワシでやられてイカで助かる"という言い伝えがあった。

 以上長編小説「つなみ」より抜粋