アメリカ人に最も敬愛された戦前の駐米大使・斎藤博 ―国難の時期に日米友好の信念に命をささげた吉田茂の盟友―平成21年8月17日 財団法人吉田茂国際基金幹事 北澤 仁(北澤直吉次男・新日鉄OB)
小生の父北澤直吉(吉田外務大臣秘書官、筑波出身衆議院議員、自民党外交調査会長、1902−1981)は昭和初期外務省入省後米国プリンストン大学院に留学、更に駐米大使館に二度にわたり勤務しましたが風雲急を告げる後半の昭和12年から14年までは当時英米派の筆頭吉田茂が米国関係では最も頼りにしていた真の外交官で米国通の斎藤博の指導、薫陶を書記官として受けました。
斎藤大使は激務の故か昭和13年末志半ばで病魔に倒れ退任、14年2月任地で療養中に急逝されましたが現職ではないにも拘らず米国大統領の特段の配慮で軍艦「アストリア号」で遺骨搬送、その首席随員を北澤が勤めました。
帰国後北澤が雑誌「雄弁」に寄稿した「斎藤大使の遺骨に従いて」によれば、大使は1886年新潟県長岡の生まれ、若き時代の駐米大使館勤務、ニューヨーク総領事、本省の情報部長、オランダ公使歴任、昭和9年長年の駐米経験を買われて満州事変後の難局を打開すべく49歳の若さで駐米大使に抜擢されました。
斎藤は米国人のオープンな気質が好きで特に当時の米国大統領ルーズベルトとは彼が若き海軍次官のころより大懇意で大使時代も大統領の秘書官3人、国務省の高官とは毎週ゴルフ、ウィスキー、カード遊びでコミュニケーションを欠かさなかったそうです。
斎藤大使は、所謂日本精神を唱導する日本中学の杉浦重剛翁の門下生ですが、滞米経験約20年、その間米国人よりも堪能な英語で広い米国各地を歩き回り米国人を愛し、数多くの友人を作り真の日本を理解させるのに懸命でした。
亡くなった時はワシントンの大使館で葬儀告別式が行われましたが大統領夫人が従者も連れず御一人で来られ大使夫人に丁重に弔問されたそうです。また米国政府高官は数多く、更に全米から斎藤の友人たちが駆け付け、告別式は心温まる盛大なものになってしまったそうです。
普段日本のことをよく書かない米国マスコミも「米国にいた外国の大使で米国人に非常に好かれ愛された人は、欧州大戦当時のジュッスラン・フランス大使と斎藤だ」と書いていたそうです。斎藤大使は緊迫する日米関係について普段から一つの確信を持っていたそうです。
告別式の時のグル―駐日大使の弔辞にもあったそうですが、要するに日本と米国の間には武力を使わなければ解決できないという問題は何もない。話し合いでどうにでもなるのだ。日本はアジアの安定勢力として極東の平和に貢献し、米国は南北米大陸の平和の礎となり、その上で両国が太平洋を挟んで交流、繁栄を図ってゆくという訳でかち合うところは何もない。
従って日本と米国の間に戦争などという事はあり得ない、そういう考えで大使はすべてに対応されていたそうです。日本海軍の重鎮山本五十六は斎藤とは同じ長岡の出身で駐米大使館付武官の頃から意気投合していたそうでその死には大変失望していたそうです。
山本は連合艦隊旗艦長官室に最後まで、斎藤の遺骨を故国に搬送した米艦「アストリア号」の艦長サイン入り写真を飾り(全く同じ写真が北澤家にも現存しております)、斎藤を偲んでいたそうです。父北澤も戦後われわれに斎藤大使が生きていたら若しかしたら戦争を避けられたかもしれないし、避けられなくても後世まで日本の名誉が棄損されるような宣戦布告のミスは犯さなかったはずだと残念がっておりました。
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