◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2013/12/27 http://dndi.jp/

認知症の義父89歳が甦った

・我が家の介護、4ケ月の記録

DNDメディア局の出口俊一です。みなさま、ご無沙汰しました。諸事情で配信 が滞っておりましたことをお許しください。お蔭様で、DND研究所はこの12月 で無事に創業10年迎えることができました。やっと先が見えてきたところでご ざいます。新年は、天馬空を行く気構えでございます。少しピッチをあげて、 これまで蓄積してきた材料を一気に配信を継続していきますので引き続き、ご 指導のほどよろしくお願いいたします。


◇家族の意味を問う 義父が認知症になったことで介護をする立場から感じているところの一端を書 こうと思っていた。やっと義父の症状が落ち着いてきたのを機に再び、原稿に 向かって仕上げる気になった。年の瀬も押し詰まってくるし、メルマガもずい ぶんと時間があいてしまったしね。これを本年の締めくくりとしたい。
さて、介護の現実にぶちあたって初めて気づくことがたくさんあった。介護と いっても家内にまかせっきりで、ぼくは補佐みたいなもの。家内の負担をどれ だけ軽くしてあげられるか、そう考えると、大げさかもしれないが、人生にお ける家族の意味を根本的に問い直さねばならなかった。
家内を認知症という記憶の闇の召使にさせてはならないと、身構えた。介護は、 ともかく忍の一字なのだが、苦労をシェアしながらさらっと軽くやれる方法は ないものか。この夏以降、闇の中での手探りが続いてきた。その4ケ月の介護 から学んだものは、ぼくらには義父母との同居という選択肢が一番ふさわしい のではないか、という結論だった。
ところが、その準備を進めていた矢先、義父が落ち着きを取り戻したのである。 認知症と老化現象のその症状に微妙に重なるところがあるので、一概に認知症 が治った、などと断定はできないのだが、険しかった義父の表情が和らいでき た。深夜の異常行動は影をひそめ、いつものジェントルな父が甦ったといった ら、信じてもらえるだろうか。


◇記憶の断片
冬の装いの静寂な日光の森からの帰り道は、年老いた義父母がいる栃木の実家 に立ち寄ることにしている。森で、つい先ごろ本年最後の手入れに汗を流した。 月に数回は通って、しばし喧騒を逃れて自由な森の人となる。その日は、東照 宮の旧知の宮司さんとの懇談が長引いてしまい実家への帰宅が夜になった。 裏木戸をあけて顔を出すと、台所にたつ義母は洗い物の手を止めて「お帰りな さい。寒かったでしょう」と気遣った。その気配に義父は食卓の椅子から手を ついて立ち上がり、「俊さん、いらっしゃい」と、やさしい眼差しを向けるの である。

義父は、ぼくの森づくりに興味を示している。若い頃からアウトドア派だから、 渓流が縁取る広大な日光の森の景観に心がはやるらしいのだ。日光に行ってく るというと、決まって「写真撮ってきてね」とひと言付け加え、帰ると、「日 光の森はどう?」と聞いてくる。その日もそうだった。
「今冬は一段と寒さが厳しいという予報なので、森に植栽してまもないサクラ やモミジの苗木があるでしょう、数えたら全部で15本、その根元から防寒テー プをグルグルと包帯のように巻いてきました」と説明し、「来春が楽しみ、ご 案内しますから」とiPhoneで撮った森の写真を見せたら、iPhoneを手にとって ぼくがやるようにまねて画面を人差し指で器用に動かした。
日光の森の話をすると、義父は必ずと言っていいほど、ひなびた蕎麦屋さんが あること指摘する。「その近くにお蕎麦屋さんがあるでしょう」と目を細めて、 沿道のわずかな記憶をなぞるようにつぶやくのである。
義父の心の奥を観察してみた。つぶやきは、相槌を求めながら、自らの記憶の 正しさを確認しているのではないか。ぼくは、ためらわず「そうですね、良く 覚えていますね」と答えるようにつとめている。義父の表情がパッと一瞬、華 やいで緩むからだ。
義父にとっては、日光の森の近くにある、お蕎麦屋さんが記憶を紡ぐ数少ない 手がかりなのだろう。そうだとしたら、何度も確かめる義父のつぶやきに、辛 抱強く相づちを打って、注意深く心の変化を観察し、さらに記憶に刻印するま で何回でも向き合えばいいのではないか。そのための時間を惜しんではならな いのだ。

義父は、記憶の無限ループ状態の中で、遠のいていく記憶の闇を彷徨っている のだが、小さな記憶でも無意識に忘れまいとしているのは確かだ。たとえば、 糊が剥がれた付箋を押し付けるようなもので、貼った先から剥がれてしまう。 義父のつぶやきは、糊のない付箋を台紙に押し付けようとしていることに等し い。日光の森といえば、すぐに蕎麦屋さんが上の方にあったよね、と反射的に 蕎麦屋さんを口にするのは、たぶん、数少ない記憶がうまく糊付けされたから だろう。その手がかりが喜びに通じるのだが、それすら時間とともにやがて薄 らいで消滅していくのだから、心の中はいつも不安で泡立っているのだろうと 思う。 その夜は、実家に泊まった。もうあの時のような深夜の異常行動に悩まされる 不安がなくなって、朝まで何事もなく眠ることができた。義父が、それまでの 自分を取り戻したことは驚き以外のなにものでもない。あの夏の悪夢は、錯覚 だったのだろうか。



◇シグナル
義父、89歳。その言動が怪しくなったのは8月10日だった。酷暑続きで、列島 は各地で40度を超えた。その昼前に家内が、栃木の実家から車で埼玉の自宅に 戻ってきた。4日ぶりだ。
やれやれ、と、ひと息ついて実家の様子を聞いていた。熱中症が心配だから小 まめに水分の補給を心がけているのだが、汗をたくさんかくので日に十数回も 着替える。終日、洗濯機がフル回転している、と言った。
噂をしていたら、家内の携帯が鳴った。義父からだった。家内は、ハイハイっ と気ぜわしい。箸を置いて受話器を持ち替えてから、「ハイッ!すぐにいきま すから」と語気を強めて電話を切った。顔からは、血の気が引いていた。 「お母さんの様子がおかしいので、戻ってきてくれないか、と父から」と言っ た。このような緊急の電話は初めてのことだった。
義母が倒れたのだろうか。家内の手元が微かに震えている。義母は87歳、何が 起きても不思議じゃない年齢だ。が、いざ、そういう変報に接すると、鼓動が 高鳴った。
家内が戻ったばかりだ。もう半ば腰を浮かせている。まずご飯を食べよう、一 緒に行くから、と落ち着かせた。数分後、テーブルの上のソーメンを飲みこん で滑りこむように車に乗り込んだ。1分1秒を争う事態かも知れない。
東北道の高速は、帰省ラッシュとぶつかって渋滞だ。その後も義父からひんぱ んに催促の電話が入った。が、お母さんがどんなふうにおかしいの?と聞いて も義父の説明は要領を得ない。様子がおかしい、すぐにきて頂戴を繰り返えし た。ともかく急ごう。猛暑の中の渋滞は、余計に神経を苛ただせた。高速を走 れば、普段なら小1時間で着くはずが、実家に到着したのは3時間後だった。 実家に着いて、裏木戸を開けて入ったら、あらら、なんと倒れているはずの義 母が台所で茶碗を洗っていた。「いつもありがとうございます、俊さん」とに こやかだ。元気な義母の姿を見たら、拍子抜けして床にへたり込んでしまった。 おやっ、これはいったいどういうことなのか。

"異変"を知らせた義父は、ベッドで横になっていた。が、息をひそめている様 子が手に取るようにわかる。電話は、義父の虚言だった。
義父は、寝室の隣で横になっている義母が、死んでいるか、ただ寝ているのか の判別がつかないということなのだろうか。妙なことだなあ、と首をひねった。 る義父に、「お父さん、おからだの調子はどうですか?」と言葉をかけると、 「ハイ、大丈夫です。いつもすまないねぇ」という。電話をかけたことを話題 にしない。まあ、話題にできるわけがない。それすら忘れている風なのだ。事 情を聞いて驚いたのは義母だった。「様子がおかしい」のは、実は義父の方だ った。
これが認知症の最初のシグナルだった。



◇深夜の異常行動
やがて数週間が過ぎた。強い陽射しと熱風、めまいがしそうな暑さのなかで、 昼夜、介護に追われる家内は、彼女自身がその挙動に落ち着きを失いつつあっ た。寝間着や下着の洗濯で洗濯機の回転音が途切れることがなかった。汚れが ひどい義父の下着洗いのためにもう一台洗濯機を買おうか、と義母と相談して いる。
深夜、分刻みで執拗に起こされる。口にこそ出さなかったが、もう限界かもし れないなあ、とこの状況を深刻に受け止めざるを得なかった。
冗談とも思えない義父の不可解な言動は、日増しにエスカレートしていった。 柱の陰から、そっと応接間をのぞき見る。部屋に普段見かけない荷物がよから ぬ妄想をかきたてるらしい。ぼくらの荷物は、一つも残らず義父の目に触れな い場所に隠した。庭の木々が揺れるだけで、不審者じゃないか、と騒ぐ。義父 は、怯えている。
顔を合わせると「俊さん、来ていたのかい?」という。その1時間前に、「い らっしゃい」と挨拶をかわしたばかりだ。表情が、硬く険しい。口を真一文字 に結んで怖い顔をしている。ぼくと家内は、泊まりこんでいた。
ただ、昼間はベッドで横になってばかりいる。深夜になると電気をつけたり消 したりしながらひんぱんに部屋を動きまわる。昼と夜が完全に逆転している。 まずいなあ、とおもった。
東側の和室で寝ていると、パッといきなり電気が灯った。ぎょっとして、薄目 をあけると、枕元に義父が立っていた。翌日もその次の日も義父は夜に動き回 って「俊さん、寒くないかい?」と声をかけてくる。毛布の裾の乱れを直して くれるらしいのだけれど、義父の冷たい手が素足に触れることもしばしばだ。 時計は午前2時半、今度は、部屋のクーラーを消そうか、という。ハイ、お願 いします、と答えた。その度に起こされて眠れない。その1時間後、パッと部 屋の電気が灯った。義父だ。わかっていても、いきなり電気をつけられて枕元 に立たれると、結構、不気味なものだ。そして、義父は、「お母さんがいな い」と不安な表情で言った。

義父母は、同じ寝室で寝ているはずだ。もしや、これも狂言とおもながら、足 元のおぼつかない義父の手を取って一緒に寝室を伺うと、義母はベッドで静か な寝息を立てている。
「お父さん、お母さんは寝ていますよ。心配ないよ」と労わった。が、また1 時間も立たないうちに、今度は、家内の枕元で、「お母さんが、おかしい」と 訴えに来た。その晩は3回、それが連日続くのだ。深夜、ぼくらは息をひそめ て凍り付いていた。

父の認知症が進行している。日々、顔を背けたくなるような現実にあたふた。 無言で世話する義母や家内の姿が痛々しい。家族の会話が途切れ、家中、鎮ま りかえってしまった。認知症のケアの現実に打ちのめされていた。
義父の要求は容赦しない。「お米がない」、「汗かいた」、「お母さんの様 子がおかしい」、「おなか空いた」、「何も食べていない」、「お腹ペコペ コ」と訴える。わがままな子供のようでもあった。
その「お腹ペコペコ」は、深夜にも及んだ。午前2時半、家内を起こして「お 腹ペコペコ」と訴え、その1時間後も起こしに来た。午前4時過ぎからは、10分 おきに「お腹ペコペコ」を連発しながら、食べ物を要求した。食べた先から、 食べたことを忘れている。

少し待ってね、すぐにご飯にしますから、と説得するが、その効果も一時的な もの。嫌がらせのように食べ物をせがむのである。

お菓子やせんべい、バナナや蒸かした薩摩芋を食卓に載せた。薩摩芋は、小ぶ りのものをひと盛り用意した。15個ぐらいあっただろうか。気が付いたら食卓 から消えてなくなっていた。



◇深夜徘徊
8月下旬の夕刻、家内が買い物から戻ると、ご近所のご主人に付き添われたパ ジャマ姿の義父が家の方に歩いていた。義父がお隣さんの玄関で、「お母さん がおかしい」と助けを求めてブザーを押した、というのだ。
義母は、静かにベッドで休んでいた。義母が寝ているに、死んでいると錯覚し たのか、またあの症状が現れたのか。よその家に押しかけたのは初めてだった。 その後も1度、近くの家の呼び鈴を鳴らして「お母さんがおかしい」と言った。 家内は、ご近所にお詫びがてら、義父の症状を説明して頭を下げにまわった。 みなさん、親切に同情してくれた。



それは家内が、夜10時に実家から戻った9月上旬のことである。寝静まった午 前1時半に、今度は、義母から家内に電話が入った。義母は、「お父さんの姿 がみえない」ときりだした。あらら、今度は義母がおかしくなったのだろうか、 と疑ったが、事実、義父が外に出てしまっていた。
義母によると、庭先でうずくまって憔悴しきった義父をみつけたので家に入れ たけど、背中あたりが内出血していた。転んでどこか打ち付けたらしい。義父 は裸足だった。電話口で義母が声を震わせていた。これには、家内もぼくも大 きなショックをうけた。深夜徘徊という言葉が浮かんだ。いよいよ来るものが きた、と身構えた。

また義母から連絡があった。義父は、「お腹が空いたというの」という。お茶 を入れて用意したおいなりさんを食べさせてと家内が指示した。電話をお父さ んに変って、と家内が伝えたら、すぐに義父が受話器をとった。「大丈夫、ど こか痛いところがないの?」と声をかけた。
「う〜ぬ、よく聞こえない、頭がピンボケになった」と弱々しい声だった。時 計は、午前3時を回っていた。再び、実家に車を走らせた。義父の認知症が急 激に悪化して危ない。



◇介護の要点
認知症が不気味なのは、次に何が起こるか予想がつかないことにある。思わぬ ハプニングに不意をつかれ、その対応に神経をすり減らす消耗戦が連続して襲 うからだ。家内が、孤軍奮闘して痛々しいほどだ。老老介護とか、認認介護と いう言葉が他人事ではなくなった。ぼくらだって還暦を過ぎている。
この現実から抜け出す光明はあるのだろうか。認知症の専門書を漁った。 認知症は、脳の病変で記憶障害などが起こり、生活に支障が出ている状態だと いう。65歳以上の高齢者の約1割が発症するとされ、厚生労働省が2013年発表 によるとその数、全国で462万人超と推計。「アルツハイマー型」や「脳血管 性」、「レビー小体型」など様々なタイプがあり、一部を除き、根本的な治療 法は見つかっていない、と悲観的だ。
参考になった介護の注意事項と処方は、5つ。
介護ストレスで介護する側が自殺に追い込まれるケースも少なくないという警 告がその1、家族だけで認知症の介護は不可能だという現実を知ることという のがその2、利用できる公的なサービスは遠慮せず受けようというのがその3、 認知症の症状である患者の不安、その処方がその4、そしてこれは体験的にこ れが大事だと思ったのが食事、患者の脳を刺激する懐かしい味の復活レシピが その5ということになろうか。
しかし、認知症の発症もさまざまなら、介護の環境というか、家の間取りや家 族の構成、生活費の問題等、それぞれに個人差が大きい。一般論としての介護 は役立つが、個別にどう適応可能かというと、悩まし問題が複雑に絡んで、解 決の糸口がみつからないのだ。

まあ、ここは識者や体験者のアドバイス通り、もう開き直って使えるものは総 動員しよう、となった。家族会議を開いたら、横浜の義兄、東京の義弟夫婦が 応援を申し出てくれた。ほっと肩の力が抜けた。これが一条の光明となった。 家族一丸、文字通り、そういう体制をとるべきだ。息子たちも泊まり番のロー テーションに加わってくれるという申し出があった。家族の力に頼ったのは幸 いだった。それで家内の負担が緩和された。

次に役にたったのが、地域包括支援センターを通じた公的サービスだった。地 元の介護センターに出向いて相談した。ケアマネージャーや看護師のアドバイ スのまま、かかりつけ医で認知症の診断をもらう手続きにはいった。
義父はここ数年、外出が億劫になり、ほぼ閉じこもり状態だった。それによる 運動不足で衰えが足腰に現れていた。食事やトイレに立つ以外は、終日、ベッ ドに体を横たえていることが多い。真夏日に、枕元の電気スタンドを消し忘れ、 義父の顔を容赦なく照らすこともしばしばだった。食欲がなく体重が落ちた。 認知症の発症は、その矢先のことだった。ふ〜む、老化現象は否めないが、異 常な暑さによる熱中症が引き金になったのではないか、ぼくは疑っている。機 密性の高い断熱材などを使った涼しい家の手当てが必要だと思った。


◇認知症の診断、要介護3
さて、外出を嫌がる義父をベッドから担ぎ上げるようにして家内が掛かりつけ 医に連れて行った。病院で、医者から認知症の問診を受けた。いくつかのテス トの終わりに、医師が家内を指さして「この人は誰ですか?」と聞いた。 義父はためらうことなく「妻です」と言った。家内は、ひっくり返そうになっ たという。いくら惚けたとはいえ、妻と娘を間違えるものなのだろうか。家内 のショックははかり知れなかった。
丸椅子に腰を掛けた義父は、医者と向き合っていながら、意識が遠のいてやが て目を閉じた。肩を落とし首を垂れた格好で居眠りを始めたのだ。認知症の診 断は早かった。要介護3の認定を受けた。義母87歳は、すり足で歩く姿が傍か らみていてとても危うい。義母は、要支援1と判定された。
認知症と思われる発症から3ケ月が過ぎた。この間に何が起こったかを書くの には、さらに相当の分量をマス目に埋めなければならない。それは多くの人が 体験し、ネットでもその対応が詳しく報告されているわけなので、認知症の介 護現場の詳細はこのくらいにしておこう。大変だというけれど、症状としたら、 まだ軽いほうの部類にはいるかもしれない、と家内は振り返った。



◇24時間対応
10月に入って、ケアマネージャーと看護師が調査と面接をかねて訪問してくれ た。明るくて気さくな方々に恵まれた。その看護師が、自己紹介で昭和50年頃 に看護師として仕事を始めたのが栃木県内の医科大学だった。大学名を耳にし て義父の表情がゆるんだ。義父がその医科大学の理事で事務局長を務めていた ことをその看護師が憶えていたからだ。親近感がわいたらしい。月2回、通っ て入浴やマッサージ等のケアをしてくれている。
このサービスが行き届いているのは、24時間体制で何かあれば、電話一本でい つでも30分で駆けつけてくれることだ。家内とて仕事があるので週に1〜2回は 外出を余儀なくされる。義父は、なによりそれに安心したようだ。
紙に、緊急の連絡先一覧を書こうとする。何回も番号を聞いて書きつける癖が あった。それに捉われて、毎回、執拗に番号を確かめるのだが、家内が用紙に 一覧を書いてその下段に24時間対応の電話番号を1行付け加えてラミネートし て枕元においたら、それ以来、電話番号のこだわりはなくなった。携帯電話も 触らなくなった。予防のために紙に用件を書いて貼っておくのも効果があった。 家内は、それらの用紙の空欄にイラストを添えた。



◇安心なEM食材と甘納豆入りのお赤飯
食事は、精いっぱいの心を配り心がけた。お金は惜しまない。義父母にたくさ んおいしいものをふるまってあげよう、と思う。義父母が北海道出身なので、 もっぱら食材は昔懐かしいメニューに工夫を加えた。

67回目の結婚記念日に、仙台の銀シャリ名人、鈴木英俊さんから新米のもち米、 宮黄金が届いたので、さっそく甘納豆入りのお赤飯を蒸して重箱につめて届け た。おいしいっていう。
浅草の神戸牛で知られる「松喜」から臭みのない豚肉を買ってトン汁にした。 お味噌も仙台の鈴木さんのところのもの。人参や、ジャガイモといった野菜は、 無農薬で安心なEM農法にこだわる食材を選んでいる。
最近は、スケソウダラの白子、北海道ではタチと呼ぶのだが、カツオだしをた っぷりとって味噌汁にした。やわらかな曲がりねぎをちらした。義父は、おい しいね、おいしいね、と、ため息をつきながらおいしいを連発した。お代わり を2回、ばかの三杯汁といって大笑いした。お刺身は、カツオ、天然のブリ、 イカの刺身がもっぱらでいいものを食卓にのせた。
好物のぶどうはぼくが栽培したものをたくさん届けた。にんにくも自家製だ。 EMの活性液をふんだんにまけば、土壌がよくなっておいしい作物が収穫できる。 無農薬なので安心だ。炊飯器で12日間保温して作った黒にんにくにも体にいい と聞いたので届けた。
ある日の夕食時に、料理好きのぼくが、「今度、生まれてきたら、料理人にな ってお父さん、お母さんにおいしいものを食べさせてあげるね」とったら、義 母がにっこり笑って、「俊さん、今度はうちの子になればいいじゃない!」っ て言う。うれしいよね。胸がいっぱいになった。考えたら、栃木の実家には、 ぼくが学生のころから出入りしていた。かれこれ40年になる。なんというご縁 なのだろうか。



義父は、実直で、真面目な人柄だ。ドライブやキャンプなどがもっぱらで家族 をさしおいて個人の楽しみを優先させる人ではない。北海道で銀行の支店長を 数多くこなし、上司の信頼もあって定年前に首都圏の大学病院の理事、事務局 長を務め上げた。一貫しているのは家族への思い、とくに義母へのやさしさは 変わらない。その義母も86歳、昨年義父が米寿を迎えたのを機に準備した遺言 の最初の行に、「お母さんをなにより大切に」と認めた。お父さんらしいなあ、 とみんなうなづいたものだ。



◇落ち着いてきた義父
11月に入って、実家の庭の小さな畑ににんにくを植えた。珍しく義父が裏木戸 を開けて顔を出した。「俊さん、上手だね」とほほえんでいる。にんにくは来 年6月の収穫だが、その茎の青々した様が見事で目の保養となる。茶の間から、 義父母がその成長ぶりを眺めることができるはずだ。
その日の義父は別人のようであった。いや、いつもの自分を取り戻したと言っ た方が正確かもしれない。認知症という病に向き合ったここ数ケ月、この先、 どうなっていくのか、という言い知れぬ不安に身構える日々だった。何か、憑 き物が落ちたようだ。



◇介護の情報
『週刊文春』は、現在認知症を患う人数は462万人で、近い将来には人口の10 分の1近くが認知症患者になるというショッキングなデータを示しながら認知 症ケアの先端をゆくスウェーデンの取り組みを例に「悔いなき介護の処方」を 特集していた。
悔いなき介護とは、ほんと介護にあたる家族にとって福音だ。これは大変、参 考になった。あわせて認知症に関する介護の手引きのような専門書も『認知症 の介護』(長谷川和夫著)など何冊か読んでみた。ネットにも介護の体験談が数 多くアップされていた。認知症に関する情報は、豊富にあるのは力強いし、全 国に患者の家族らで組織するネットワークも充実してきた。NPOなどの団体が 積極的に地域ぐるみで患者を守るという意識が定着しつつあるのにも目を見張 った。

とくにスウェーデンの介護スペシャリストからの「相手の世界に寄り添う」と いうメッセージは心に残った。その他書籍などで見た「自分らしい介護」とい うアドバイスや、ひとりで抱え込まず介護保険制度をフルに活用することが大 事という指摘も有益だった。
これだけ読んだのだからもう怖いものはないというものではない。が、やれる ものは全部やろうという、と前向きに情報を収集し、地域の相談センターにも 足を運んでケアマネージャーを紹介してもらい医師にも面談させたりしたこと は本文で書いた通りだ。
が、介護の現実は、擦り切れるような神経戦で続いて終わりが見えないところ が、いっそう不安をかきたてる。ともすれば絶望の淵を片足で立っているよう な危うさを感じることがしばしばだ。それぞれに患者の事情が異なるわけだか ら最終的には自分たちが最良の介護の方法を決めなくてはならない。その結論 は、長い道のりだから、家族が総力を挙げて向かう、という覚悟であり、その ために家族があるのではないか、と気付かされた。
ところでもうそんなに若くはない。還暦を迎えて、いわばもう少しで老々介護 に足を突っ込む年齢だ。そして親の介護に捉われているけれど、ひょっとして 自分がそんなに遠くない先で認知症にならないという保証はどこにもないので ある。



◇一緒に暮らす
この数か月、家内が命がけでふんばった。義父の快復は彼女の思いが通じたの だと思う。ぼくも微力ながら力になりたいと念じてきた。それは、ぼくの実父 に最後まで献身的に尽くしてくれた家内への恩返しでもある。
年末年始は、愛犬を連れて実家に行くことにした。義父が、それは安心だ、幸 せだわ、と満面笑みを浮かべていた。
「いやあ、ワンちゃん大好きだから、楽しみだ」ともいう。父の形見の愛ちゃ んも一緒だ。家族の絆、それは3・11の教訓でもあるのだが、ぼくらにとって は介護の処方といってもつまり「一緒に暮らす」ということに尽きると思う。

以上