DNDメディア局の出口です。知人のカメラマン、高野俊一さんは、ビュービュー風が鳴る東大・本郷のキャンパスの中庭で、熊腰の大きな体を折り曲げるようにカメラを構えて銀杏の巨木に向かって数枚連続でシャッターを切ると、チラッと時計に目をやって開催時刻が迫ったビジネスモデル学会の時間を確認し久々に東大に足を運んだためか元東大総長のご子息で著名な工学博士の研究室に出向いて撮影に臨んだことをふと思い出して、あの時、この銀杏は金色に輝いていたからたぶん晩秋だったと思う、と懐かしんでいた。
□皇室カメラマン、高野俊一さんのアングル
3月31日朝、これから開催されるビジネスモデル学会の会場は、いつもの東大の工学部2号館で、高野さんは不気味に静まりかえったキャンパスをその会場に向かって歩いた。強い風が、道路沿いの看板や駐輪場の自転車をなぎ倒していた。これは荒れる、まずいなあ、と思った。
彼は、元UPIに所属する皇室カメラマンで人物のポートレートを得意とする。ベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』でピューリッツァー賞などの国際賞を数多く受賞し、その後、カンボジア戦線で狙撃されて死亡した沢田教一氏ら戦場に散った数名の戦場カメラマンが高野さんの同僚だった。一時、彼も戦場カメラマンに憧れを抱いた。のっそり、その大きい体型では、上司が危険を察して戦地に行かせなかったのかもしれない。いまは一線を退いて写真コンテストの公的機関の審査委員長をつとめるなど後進の育成に余念がないのだが、つい最近まで皇室関係の貴重な画像をカメラに収めてきた。そうとう量の記録のポジフィルムを保存している。
お堅い雑誌から女性誌に至る各メディアがこぞって皇族関係の写真の有無を問い合わせてくる。先日はある著名な雑誌の編集担当が、高野さんから借りた貴重なポジフィルム写真を紛失したと詫びにきた。詫びて済む問題ではなかった。が、高野さんは感情を表にだすことはしなかった。僕も編集担当を囲んでその席に座った。ともかく気持ちが平らかなのである。数日後、写真のポジフィルムは見つかったが、紛失したことで一時、皇室にどう謝罪するか、頭を抱えていた。業界の人は、高野さんのことを"神様"と呼んでいる。
そんな高野さんに、ビジネスモデル学会の撮影をお願いした。カメラや機材が重いのでアシスタント役として岡田正さんが加わり車を手配し朝早く待ち合わせて岡田さんの運転で越谷を朝7時半に出発していた。カメラマンは体力勝負なのですね。
開会は10時だった。事務局スタッフの集合時間に合わせるため8時半には東大に入っていた。それでキャンパス周辺を散策していたのである。中庭は、やっと春の目覚めを迎えたばかりでうす紅の彼岸桜が3分咲きで風にあおられて枝がしなっていた。花が舞う。
元新聞記者は昔の習いとして取材時刻には遅れない。取材先の周辺をぐるり三周ぐらい歩き回る余裕を持てと教えられた。何を拾うか、わからないからだ。
高野さんは、のっそり、冬眠からでてきたクマさんのようだ。"神様"の異名をとるくらいだから柔和な表情なのだが、それが撮影となると気構えが動きに表れた。その眼が獲物を狙う野性味を帯びて光った。東日本大震災の大槌町などの現場をご一緒した時も素早かった。アングルを探して歩き回るのをいとわなかった。やっぱり巨匠の風格といわれるだけはあるなあ、と感心して撮影の仕草を見入っていた。
会場では、首から数台カメラをぶら下げて夕刻までシャッターを切り続けていた。学会の春季大会の写真は、おおよそ千数百枚撮っていた。ざっと7時間、1時間で200カットの計算だ。大変だったに違いないが、愚痴ひとつない。撮影を楽しんでいるようにみえた。その辺がこの人のやさしさでプロフェッションなのだろう。基調講演にたったゲストや役員、裏方さんの写真を記念に1枚1枚プリントしてくれた。
□ビジネスモデル学会はアジアのエネルギー源
大会の感想を聞いたら、「アカデミックでしょ学会は、人を寄せつけない気難しさが付きまとうが、ビジネスモデル学会は特別なのか、みなさん気さくで和気あいあいでしたので、少し違うなあ、と思いました。それにパワフルというか、内容も充実していました。聞き入ってしまって撮影を忘れるほどでした。それにアジアっぽいエネルギーを感じました。パネリスト中の出口センセイも、私が知らない一面を見た感じだしそれなりに貫禄があった」とほめた。
激動のアジア、その最前線に行ってみたくなった、と笑ったが、眼は熱を帯びて本気に見えた。寛容で大らかな高野さんを、変容著しいアジアの最もホットな最前線にいざなうことになるのだろうか。案外、それは時間の問題というのは、ご本人が知る由もない。僕ですらノーマークだったのだから。
数日後、高野さんが撮った写真がCDなった。はやる心を抑えてどうかなあ、と見たら流石だわ、う〜む、唸った。
ドアを隔てた会場の外の丸窓から中を覗き込むその先に、パネル討論の壇上がライトを浴びて浮き立っていた。左にモデレータ役で会長の松島克守さん、その隣がアジアウオッチャーで法政大学経営革新フォーラム21事務局長の増田辰弘さん、右側に紅一点で上海在住15年のジャーナリスト、姫田小夏さん、右端に図体の大きい僕がどこか得意気にマイクを握っていた。
□座談の名手、松島会長の俯瞰magic
パネル討論は、パネリストのひとりとして参加したから、よけいにわくわくした。会場からの意見や質問が途切れず鋭い突っ込みや指摘があった。「生活産業のアジア展開」という今回のテーマをひねり出した副会長の平野正雄さん、代表幹事でアクセンチュアの中谷幸俊さんらの援護射撃も光った。発表の研究論文のコーナーを受け持った運営委員の藤田育夫さんや、実行委員長で全体を統括した立教大学教授の張輝さんらがその推移を見守った。
では、本題に入りましょうか。ビジネスモデル学会の春季大会で浮かび上がったものは何か。加速するアジアを俯瞰するうえで、いま注目すべきホットスポットはどこか。進行役で座談の名手、松島さんの見事な采配で次第に、そのベールを剥いでいくことになる。
司会役の松島さんが、冒頭、この日のプログラムを急ぎ足で振り返り経済産業省の局長、石黒憲彦さん、アサヒグループホールディングスの取締役、古田土俊男さん、資生堂の中国事業部マーケティング開発部長の大亀雅彦さんの力のこもった講演にそれぞれに的確に解説しコメントを加えた。
□経産省局長、アサヒグループ、そして資生堂
石黒さんが、付加価値の高い企業の数多くの事例を紐解きながら産業構造の変化と産業政策を大きくとらえてみせたし、アサヒグループホールディングス取締役、古田土さんは、感動をわかちあうアサヒグループのアジアでのアライアンス戦略のダイナミズムを解いた。資生堂の大亀さんは中国で放映するTVCM「一瞬之美一生之美」の洗練された映像を紹介しながら、資生堂の中国進出における現地化の徹底などを紹介した。
付け加えると、質疑で、中谷さんがご苦労はあったか、何を心がけたか、と大亀さんに聞いた。中国に昨年まで駐在した5年余りは、ひとことで楽しかったと迷わずいった。毎日、一生懸命、邁進したら結果がついてきた。一緒に汗をかき、現地の社員と苦労も喜びも分かち合った。忘れられない生涯の思い出となったと述べて、「一体感」を強調していました。
4番目に登壇した増田さんは、引き続きパネリストを務めるのでその席でご本人から直に聞くことになった。アジア各国の、それも新聞社の特派員でも知りえない現場に密着した"路地裏ストーリー"は滅多に聞けるものではない。生々しくて面白かった。増田さんってどんな人物なのだろうか。興味を持った参加者も多かったことでしょう。そういう意味では、今回の登壇者の顔ぶれは、出色でした。
そのなかで松島さんが特に強調したのは資生堂のコンセプトでした。この30年余りで中国全土に5000店舗にも及ぶビジネス展開を成し遂げた要因のひとつに、まあ、それは資生堂の社名の恩返しというのだが、その地に沁み込んでいくという現地化への徹底ぶりに触れて、実はハーバードビジネススクールがリーダー論で述べているように、いわばセオリー通りなのだ、と松島さんは指摘した。新しい組織でいきなりああせいこうせいと強く指示したってうまくいかないものだ。ほんとうに大地に沁み込んでいくように戦略を実行した成果とその見事さを大亀さんのスピーチからうかがえた、と語った。
パネルは、松島さんの意のままに進行した。まるで俯瞰学的magicそのものでした。その場で、いきなりパネリストに設問を投げかける。いやあ、不安が的中だ。事前に打ち合わせがないから、さて、どうなるのだろうかと、少し緊張しながら身構えていた。僕としては講演者がパネリスト加わらないこところを少しまとめてそこからいくつかの方向性を導き出せばよい、と踏んでいた。が、考えてみればそれは松島さんの役割だった。
「段取りに真実なし」とは、シンガーソングライター・さだまさしさんのメッセージでした。生放送などできめ細かく段取りすると、段取りが優先して面白くない、という意味なのだが、会場を埋め尽くす来場者からすれば、パネリストが用意した原稿をそらんじるよりドギマギしているほうが、リアル感があってよいのかもしれない。パネルは先行きの見えない流れの中にあった。
□パネリストは、増田辰弘氏、姫田小夏、そして出口編集長
いまアジアはなんなのか、これが最初の質問だ。ぼくは、上海に3回、それに昨年、四川省・成都、海南島等を取材した体験から、日本はアジアなのだろうか、と疑問を口にした。アジアの国々を訪れると日本を忘れてしまう。海南島に住みつきたいが勇気がない。アジアはぼくにとって遠い国、自分が進化していかないとアジアは近づいてこない。アジアを引き込むことができない、などと抽象的な話に終始した。
姫田さんは上海15年在住の立場から、いろんな企業が出たり入ったり生まれたり消滅したりしていくのを見てきた、と前置きして、2000年からの10年、バブル崩壊の直前で崩壊せずに止まり、さらにこの先の10年の方向性は、全人代など中国首脳部が打ち出した経済施策が民間の企業が主役となる「民営化」と断じ、不動産投資を基本にしたこれまでのビジネスモデルは通用しなくなり、次になにがけん引していくのか、企業の発展をもたらすのか、みんなが鵜の目鷹の目でアンテナを高くしている、と述べた。
続く、増田さんは、いまのアジアは何なのかと自問し、経済は躁のアジア、鬱の日本と言えるのではないか、と語り、中国のバブル崩壊の危機といっても不動産をみんなが売っているわけではなく、やはり買う。トレンドというか情報が一つに流れないところがアジア的で、それと金持ちが急増しており、富裕層のその上があると思わなかった、と独自の視点に切れをみせた。
まあ、増田さんのなんとも渋い話しぶりについ引き込まれてしまうのだが、この人のたとえ話が面白いのだ。
先が見えたら、ダメだという。日本は、10年、20年、さらに30年先まで今後どうなっていくか見えるから、元気をなくしてしまう、といって歌手の井沢八郎の「ああ、上野駅」の歌を引き合いにだした。
あの頃、集団就職で貧しく悲惨な出稼ぎを強いられた。が、元気があった。夢がいっぱい詰まっていた。先が見えないから夢中で努力したのではないか、若者は先を見ないで努力することが大事なのかなあ、と思うのです、とこれまた味のある話をする。
松島さんは、坂の上の雲は、峰に雲がかかって先がみえなかった、という話がある、と笑いととって、インドと中国のひとりあたりのGDPの比較で1989年当時は、インドは中国の上にいた。いまは中国が日本を抜いて世界第2位、インドの3倍近い、とこの10年の胡錦濤政権は、非常にうまくいった、と評価した。次の10年は、どうなるか、と疑問を発し、会場に向かって意見を求めた。どうですか、といいつつ、せっかく東大にきて終日、イスに座って黙っていると、「ウツになりますから」と、ここでも会場を笑わせた。
中国は資本主義か、共産主義かの質問があった。
家の所有は認められていないが、使用権としての扱いだがこの先の更新がいつまで可能かはわからないと姫田さん、日本の場合、相続税によって親から継承した土地、家屋の資産が3代でなくなるシビアな状況だが、中国は相続税も贈与税もない。そのため、中国では親から財産をもらった羽振りのいい若者が増えている、と言った。
これに対して増田さんは、ゆっくりした口調で、われわれ日本にいて日本の制度からアジアをみる、世界をのぞむという癖がある。そうではなくて彼らの視点から日本を見ると、日本の活性化はどうしたらすすむか、その辺がよくみえてくるのではないか、と発想をかえてください、と訴えた。
さて、松島さんの次なる設問は、いまアジアと日本の付き合い方、つまり日本人の立ち位置というか、気持ちの持ち方やアジアへのアプローチの仕方というのはどうか、と説明を加えた。
ぼくは、ゴルフに例えてアジアへのアプローチは、打ち方、スタイルは様々で、資生堂のように徹底してその土地にあわせて浸透していく現地化の処世もあれば、日本のオリジナリティやきめ細やかさ、もてなしの心、例えばウエイトレスや仲居さんが、ひざをくずして接待するという日本式をアジアに持ち込んで成功するケースもある。洗練された日本のよさを売り込むというのは現地化と対極にある手法だと語り、カレーのCoCo一番のインド進出の「インド人もびっくりプロジェクト」の話題を提供した。成功モデルは現地の実情にあわせて多様化していることを強調した。
松島さんは、熊本ラーメンの「味千」とか、増田さんが講演「急速に変わるアジアのビジネスモデル」の中で紹介した中国の結婚式に時間管理を取り入れるなど日本式の採用で成功している「ワタベウエディング」などを例に、積極的に日本の文化をビジネスモデルに持ち込んで成功させる「アジアの日本化」、その半面、日本がアジア化するという話しもある、とその対照を際立たせた。増田さんが紹介した、アジア各地におけるしたたかな日本人のビジネスの風景は鮮やかでした。
姫田さんはそこで、このワタベの日本人総経理が、週末か月末に女性従業員とダンスする"踊る総経理"として尊敬されているというエピソードを紹介し中国人と向き合うことが成功企業の条件ではないか、と言った。
発言に気が抜けなかったのは、増田さんでした。バンコクの喫茶店で、日本人が数人たむろして株や、マンション、投資を話題にしていたのを目撃し、日本から海外にお金を移しているのではないか、と推測する。日本の国債が危うくなるというマスコミに煽られてそれを不安に思った日本人がアジアに生活拠点を変えているというのだ。これを日本のアジア化、台湾化が進んでいる、と指摘した。そして、日本のモデルで成功したというのが頭に張りめぐらされて、最初はそれでよかったが、いまアジアモデルが形成されていることを理解すべきで、それに合わせないと経営が難しくなる、と言い切った。
□会場からの忌憚のない意見も
会場の多くの人らも頷いて、増田さんの現場に根差した生々しい話に耳を傾けていた。すると、会場の後ろ寄り席で手を挙げる熟年の男性がいた。その男性がマイクを持って話し始めると、会場はシーンと静まり返った。
聞いていると悲観的な話が多い、と口火を切った。少し、この中年の紳士の"ご意見"に耳を傾けてみたい。
決して日本の企業がアジアの中で遅れているわけじゃない。表に説明していないだけです。ベトナムを見ると、カップラーメンのメジャーのところの75%は日本の企業です。中国もそうなのだけれど、ブランド名が日本人には分からない。合弁企業が多いですから、表に出ない。統計も中国は発表していません。むしろ、欧米の開発機械の能力が合理的になりすぎたため、ユニークな技術がでてこなくなった。日本の化学業界はトレジャーアイランドで、合成される化合物というのは他の国ではあまり合成されていない。機械工学の部分もトレジャーアイランドです。日本をターゲットにしたミッション団はひんぱんに来ています、と淡々と説得口調で話した。
そして、日本がアジア化するということはなくて、日本人自身、日本の企業体としてアジア化する必要性はどこにもなくて、むしろ日本の企業体がアジアのそれぞれの国の中でどうやってビジネスモデルを展開するか、です。これから成功した企業がどうして成功したのかをベンチマークとする方が重要なのではないか、と言った。
まあ、決して悲観的な話に終始していたわけではないのだが、そう受け止める方もいるということだろう。松島さんは、「大変、心強い話し」と、頷いた。
□アジアのホットスポットはどこ?
さて、いよいよ3つ目、最後の質問だ。やさしく思えるが、これが難題だった。満を持して気構える松島さん、いまアジアのホットスポットはどこだろうか?とパネリストにふった。順番が逆回りとなって、増田さんが台北、バンコク、ホーチミン、そして大連だと4都市を挙げた。この4都市は日本人、日本企業の風が吹く。日本人へのシンパシーがある、という。あんまり構えず、ちょっと遊び感覚で来たというほうが余計にいい。日本企業がもっと羽ばたける道がある、と言った。
松島さんが、ふいに不敵な笑いを浮かべた。口をついて出た言葉が、「日本企業の中にアジアのホットスポットがある」でした。うまいことをいう。
姫田さんは、まあ、これは先ほどからの話の流れで、上海と思ったらその通りで、上海というキーワードは消え去らないと、名言をはいた。姫田さんは期待を裏切らないのである。次に、ぼくの番、アジアのハワイ、リゾートの海南島の名前を繰り返した。赤米、バンブーダンス…などを紹介して、ひょっとしてひょっとしたら海南島に日本の原点があるかもしれない。どうぞ、海南島に自分探しの旅に出てみませんか、と呼びかけた。すると、会場から少し笑いが起こった。
以上で、パネル討論の概略である。しかし、ここで終わらないのが松島スタイルで、海南島の話をフォローしながら、松島さんが最後に発したメッセージが、いま最もアジアの中でホットスポットといえば…このビジネスモデル学会の会場ではないでしょうか、と結んだら、うま〜いっ、とひと声飛んで会場がどっと沸いた。やるもんだわ。真面目に答えていたのに、そうきたかい。ホットスポット、日本企業の中にというあたりで気づくべきだった。いやいや、参った!(^^)!
□最大の賛辞を贈った松島会長
懇親会は、東大内のレストランで開かれた。外は強い風が吹き荒れる嵐だった。が、来場者130人を越え、懇親会にはそれでも半数を数えた。熱気であふれた。実行委員長の張輝さんが、頬を紅潮させていた。この人の覚悟が導火線となってみんなが協力した素晴らしい春季大会となった。松島さんも最大の賛辞を贈った。平野さんは、さらなる質の向上をと訴えた。
□副会長の平野正雄氏の慧眼
さて、いくつか書き漏れたことを付け加えます。まず、学会きっての論客、副会長の平野さんは、現在M&I 代表、東京大学大学院非常勤講師、そして元マッキンゼー及びカーライル日本代表のキャリアをもつ。立て板に水、ともかくよどみがない。話し言葉が即、文章になる、というのも珍しく、そのGentleでcoolな存在は光った。
さて、平野さんがパネル討論の途中で、松島さんから「せっかくきたのだから…」と指名を受けた。以下は、その平野さんが述べたご意見です。
「私もね、さきほどの経済産業省の石黒局長の貴重な講演、そのあとに続いたアサヒグループホールデインングスの古田土取締役、資生堂の大亀さん、さらにパネリストにもでていただいた増田先生の話をお聞きして、ある種、日本のリーディングインダストリーの主役交代が進みつつあるのかなあ、というのが率直な感想でした。
日本のリーディングインダストリーは変わらなければならない。増田さんが、太って飛べないツバメの話をされたが、結局、日本の貿易を支えてきた家電なんかもそうだが、成功体験が溢れている企業はなかなか変化できない。すると、同じビジネスモデル、同じような経営形態でやってきてしばらくはそれで成功してきた。が、新興国が台頭するなどの変化に応じて経営のあり方を転換しなければならないのだけれど、しきれなかった。現場や技術が力をもったとしても経営や組織で負けてしまったというところだ。
いま新たな成長産業としてアジアを視野におさめ活性化しているのは輸出産業ではなく、新しいタイプの業種、本日のテーマの生活産業やサービスということになります。日本が成長の過程で蓄えてきたものの中で、生活レベルの洗練化であるとか、安心、安全という価値を高めて蓄積されているのだけれど、それを産業力としてアジアに転換していくことは、これまで十分にできていなかったのではないか。クロネコヤマトのよりハイタッチなサービスでアジアの中で競争力が出てきている。コンビニのように24時間、あれだけの品揃えであふれている業態、セコムのような家庭、企業に対するきめ細かいセキュリティの提供と、セキュリティにとどまらずヘルスケアとかのサービスを含める洗練されたサービスがこれからのアジアの国々が豊かになっていくなかで、今後、求められるということです。洗練された時代、その時こそ、日本のサービス、生活産業が競争力を持つようになる。
今後、10年、20年というなかで、日本の競争力をけん引してきた主役が変りつつあるのではないか。それでは、一方、製造業ってなくなるのか、といえば、アジアの製造業と日本は同一であるという事は理解していかなくてはならない。むしろアジアの中でサプライチェーンを展開し国際競争力のあるコスト構造に作り変えるところだと思う。そういう意味からすれば、これは産業構造が変わることです。すると、日本の経済の道筋がみえてくるのではないか。」
□人気のビジネスモデル学会主催のイブニングセッション4月23日
さて、平野さんは4月23日夕刻から開催する、会員並びにその友人を対象にしたビジネスモデル学会のイブニングセッションでお話をします。テーマは、「価値創造型イノベーション-アップルはなぜ成功したのか」で、質疑を含めて1 時間半、意見交換並びに懇親会が用意されています。場所は、「霞ヶ関ナレッジスクエア エキスパート倶楽部」 で、会費3,000 円 (講演のみは、1,000 円)。参加人数に制限があります。また会員以外は、会員の紹介が必要です。僕も参加します。ご希望の方は、お声掛けくださっても結構です。
□嵐を呼んだビジネスモデル学会
列島を西から東へと襲った今月3日の暴風雨は凄かった。その爪痕が生々しい。なんと爆弾低気圧と呼ぶらしい。文字通り台風並みの破壊力で和歌山41.9m、新潟の佐渡で43.5m、秋田県・酒田、栃木県・日光などでも軒並み40mを越える観測史上最大の瞬間風速を記録した。痛ましくも宮城県で28歳の看護師の女性が杉の木の下敷きになって死亡するなど4人が犠牲となり重軽傷者が440人余りに及んだ。被害はさらに拡大し4日はその勢いで北へ。東北、北海道が猛吹雪となった。知人から強風で岩手県・釜石の仮設住宅の屋根が飛んだと聞くと、また三陸沿岸の被災地への気持ちがゆらぐ。
さて、3月31日の土曜日も荒れ模様だった。このところ土、日といったら風雨に見舞われっぱなしだ。春休み真っ最中というのに迷惑このうえない。低く暗雲が垂れ込めて時折、突風が砂埃を巻き上げていた。午後からは雨が吹き荒れた。ほころび始めた桜に心を寄せると、こちらも心が穏やかではいられなかった。破天の中で開催されたビジネスモデル学会春季大会、嵐を呼ぶ大会となった。
講演後、会場からの質問を受ける、
アサヒグループホールディングス取締役の古田土さん
ビジネスモデル学会、松島会長ら役員とゲストスピーカーの記念撮影