◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2010/07/14 http://dndi.jp/

父の介護の足元で見えたこと

 ・庭づくり、畑づくりの快適EM生活
 ・ハーブ、トマト、ゴーヤ、ぶどうの豊作
 ・幻覚を誘う「せん妄」という大敵への理解
 ・泊まり込み”厳戒介護”の家族力とその限界
〜連載・投稿〜
 ・黒川清氏「冨山和彦氏との挑戦的な対話」
 ・石黒憲彦氏「メディカルツーリズムとは」
 ・橋本正洋氏「ネイチャーのランキングから」
 ・読者投稿:「地場に役立つ科学技術を問う」

DNDメディア局の出口です。ぶわーんと、鈍い羽音を響かせながら、ずんぐりしたハチが今夏も狭い庭に花を求めて飛んできました。それは体長2センチもある大きなクマバチで、毎年、ハーブの花が咲き揃うこの季節にやってくる。どこからくるのかしら。黒い仮面に黄色いマントを纏っているような戦闘的なスタイルは、ちょっと近寄りがたい威圧感を覚えます。蜂の一刺し、こんなのにやられたら、ひとたまりもない。




:花の蜜に夢中のクマバチ

が、図体からして鈍感で、ひたすら花の蜜に夢中らしく周辺を少しも気にする様子がない。尻が重いから、花に飛び移ると枝が大きく揺れ、その反動を無邪気に楽しんでいるようにも見える。慣れると、警戒することもなく無遠慮に鼻先をかすめて飛ぶ。ぶわーん、と。その光景が微笑ましい。気持ちが和んでくるようです。しかし、このクマバチだってやがて飛べない日がやってくるのだろうか。



:3年前に父と作った小さな畑





ここに花を植えたら、と言いだしたのは父でした。フォト日記によると、2007年の5月、地面に埋まった枯木の太い根を汗だくになって引き抜いた。そこに土を盛り、土づくりには有用微生物群のEM活性液を撒いたから、なんでもよく育つ。花は、ラベンダーやローズマリー、チェリーセージ、ジャイアントヒソップなどのハーブ系に加え、小さな赤い花をつけるツボサンゴや耳飾りのような黄色いアズテックゴールド、お気に入りのシモツケ草、そしてどこまでも地を這うツルニチニチソウとにぎやかです。ゴーヤもその時初めて植えました。



:ラベンダーにゴーヤ

今年もゴーヤが屋根近くまでツルを伸ばし、長いイボイボの実をたくさん付け始めています。朝日が差し込む窓側を緑のカーテンで覆った。昨夏の終わり頃、熟したゴーヤから赤い種を採ってそれを洗ってひと冬保存し、春に近所にも配り二晩水に浸して撒いたら律儀に芽を出した。種を撒いた覚えがないところからも芽が出てくる。自然の生命力の旺盛さに感心した。


庭づくりに熱が入り、年齢とともに徐々に高じて行きます。素人の私の場合は、わずかな箱庭のようなものですから、もっと本格的にやってらっしゃる方にしてみれば稚拙で笑われてしまいそうです。今春は、玄関わきの駐車場をつぶして、ブロックで仕切った簡易の畑をこしらえた。


畑を作る、と知って、股関節が病むのに父がじっとしていられない。外に車イスを出し、身を乗り出すようにしてあれこれ指示をする。竹を組んで柵をこしらえた。指先が器用で、イスから立ち上がって針金や紐で竹を縦、横に縛る。これが巧なんですね。竹の根本は、スコップで周りの土を押し込んで固めていました。竹を揺らしてもビクともしなくなる、という。これをきちっとやる。黒土に培養土をまぜ、それに腐葉土を入れ、肥料にEMのボカシをパラパラ撒いた。


春先にエンドウ豆、その収穫が終わる頃、次にトマトやナス、ピーマン、万願寺トウガラシなどの好みの苗を欲張って植えた。父が植えすぎじゃないか、とか、もっと苗と苗の間隔を離さないといけない、とかいうから、ナスやトウガラシは鉢に植え替えた。



:トマト畑

その昔、EMの無農薬野菜や果物が、ジューシーで本来の味が濃いので虜になってしまった。それで、畑を作るつもりでEMで家庭の生ごみを堆肥化しようとやってみたが、それが結構、面倒なのでバケツを放置しそのまま忘れてしまっていた。特許フリーのEMは誰でも気軽に始められるが、やはりなんでも根気が必要です。残念ながら飽きっぽい性格には向かない。手をかけた分しか、成果が得られないが、その逆もしかりで、やることをきちっとやれば最大の収穫が得られる、というのは道理です。


EM技術の開発者の比嘉照夫先生によると、土壌を良くすればいい果実が獲れる。いい果実から良質な種が獲れるので、余計な化学肥料はいらないし、種苗に経費がかからない-安全で安心の無農薬野菜がふんだんに取れて、豊かになる。そして健康になる、環境にもいいという理屈は、分かりやすい。が、これをやってみると、農業は、マメじゃないと務まらないのですね。



:畑はトマトがいっぱい

数年経って、生ごみを堆肥化したバケツに気付き恐る恐る密閉式の中をのぞいたら、発酵した甘い香りが漂っていた。まったく腐っていなかったのには、腰を抜かした。これを堆肥に庭のあっちこっちに埋め込んだ。家の周辺はしばらくEMの匂いに包まれて、なんだか健康になりそうな気分で、胸いっぱい空気を吸い込んでみたりした。


この効果が、いまごろになって現れてきたかもしれない。これは単に春先の雨が幸いしたのか、どうか、その本当の理由は分かりません。その驚くような現象が、今年になって頻発しているのです。


花屋で、ふた房垂れ下がったぶどうの鉢を買って、そのまま野ざらし状態のぶどうの木が、実を付けた。ほぼ10年ぶり。枯れた茶色い幹から、突如つるが伸び、大きな葉を広げ花が咲いた。枝葉の方向にそって支柱を立てて誘導すると、見事に実を膨らませていく。全部で6房、いまは長さが20センチ以上もある巨峰です。



:たわわに実ったブドウ

知り合いの長野のぶどう農家の桜井さんに聞くと、ひと房の粒は30から35粒に間引きしないといけない。8月下旬に色づいたら、紙の袋を被せて鳥がついばみに来るのを防ぐ、という。ご指南の通り、青いぶどうの房から小さい粒を間引きしていると、なんだか可哀想というか、痛々しいというか、どうせ売るわけじゃないし、多少甘みがなくてもいいや、と途中で止めた。


たった1本の花しか咲かなかったラベンダーが茂って今年は、百本近い花を咲かせた。さらに日陰で開花を忘れていた生垣のツツジが、久しぶりに淡いピンクの花を長く咲かせた。そして、年々やせ細っていた二本の対のハナミズキが立派に白と赤の花をそれぞれ咲かせた。地植えのバラ、墨田の花火のガクアジサイも育ちがよく、例年よりはるかに花の数が多く葉も大きい。



:スイレンとメダカ


どうしたのでしょうか。今朝、メダカの水槽をのぞいて見ると、水槽に入れたままのスイレンが蕾をつけ、ピンクと白の花を開きかけていました。ここ4〜5年、花を咲かせる気配すらなかった。携帯で写しました。そばのメダカは、これは栃木の益子産の天然の黒メダカの一種、陶芸家の佐藤巧さんから譲ってもらったメダカの2代目かな。メダカは3つの水槽にいま50匹近くいる。今年もすでに15匹生まれて育った。


奇妙な現象はまだあります。クマバチが好むハーブのジャイアントヒソップのブルーの花やチェリーセージの赤や白の花だって、その背丈が1メートルをはるかに超える成長ぶり、枯れたはずのサンショウの木が葉を甦らせているし、そばからおびただしい数のミョウガが青い葉を伸ばしているのです。



:年中咲いている鮮やかな赤い花

父との本格的な同居は、昨年秋で、歩行が困難になり車イスを余儀なくされたからでした。日光から埼玉の私の家に呼び寄せたのです。が、1人住まいが長い父としては、同居は気を遣って迷惑をかけるから、庭の花が心配だから、といろんな理由をつけて、一刻も早く帰ろうとする。が、車イスじゃ無理に決まっているのだが、気持ちは日光に向いている。父が花咲か爺さんに思えてならない。


せめて、と、父と一緒に愛犬を連れ、花も持ち帰った。白、ピンクのふんわりした花が咲くアザレヤの鉢を7鉢、花桃の木、紫陽花、薄紫のユリ、真紅のダリア、山リンゴの木、モミジの鉢二つなど、いずれも父が丹精を込めたものの一部でした。家の周辺は、さながら俄かにガーデンの趣です。


毎朝、5時過ぎに目が覚めると、犬の散歩より早く、長靴姿で庭木の手入れ、菜園の散水が楽しみになってきました。少し、水をやりすぎるのではないか、と何度か注意された。父との同居で、庭木の手入れや野菜の栽培方法、土いじりなどを教えてもらうことができた。そのためか、家の周辺の花木がすこぶる元気がいい。花が好きな父が花に生気を与えたのかも知れない。その昔、父は大阪で生まれ、家は造園業を営んでいた。そこに十数人の庭師がいて、ホテルや寺の庭を管理していたらしい。父の親の弟が石屋で、庭と石でいいコンビだった。それだから、庭木をいじるのが好きなんですね。


父の背中を見ながら、庭いじりのどこに面白みがあるのか、さっぱりわからなかった。やっとですね、年齢のせいか、毎朝早くあっちにいったりこっちにいったりしながら庭の周辺を見回るのが無性に楽しい。夏だと、ひと汗かくのが爽快です。野菜畑から、もぎたての野菜でご飯を作る、というのもいいでしょ。ゴーヤやトマト、ナスのほか、いつも育っている葉物のが、パセリ、細ネギ、アシタバ、ミツバ、シソ、サンショウ、セリと豊富です。庭づくり、野菜づくりには、日々、新しい発見と驚きがある。もう、すっかり私は、ハマッてしまったかも知れません。


父と一緒に庭に立つと、あれこれ指示が飛ぶ。私の事を、昔と同じ「しゅん」と呼び捨てにし、「しゅん、あそこに虫がいるわ」、「しゅん、バラの花が終わったら、花の下、葉が5枚ある上から切り落とすといい」と、遠慮がない。父との合作のその畑は、梅雨が明けて日が照ると、いっせいに色づいて収穫期を迎えることでしょう。父が、無事に病院から戻ってくれれば、庭に出て一緒に収穫しながら退院を祝ってやりたい、と思う。


先月末、父が高熱を出して倒れ、救急車で病院に運ばれた。股関節変形症を病むその周辺に激痛が襲う。顔をゆがめ、唸り声を上げて苦しがっていました。緊急入院となりました。それから、ほぼ2週間、昼夜付き添いを余儀なくされています。入院のその夜から、父の身に信じられないことが起こってしまいます。


天井に指を差して、あそこに蛇がいる、という。それを手で払おうとしたかと思えば、奇妙な話を口走り、目は虚ろで、言葉の意味が聞き取れない。が、知り合いのおばあさんが登場する。大切に育てた野菜が盗まれた。それがないと生活ができなくなるから、皆様、どうか、おばあさんを助けてあげてください。お願いしますーと、懇願するような哀願調の声で繰り返す。


夜中、目を離した隙に点滴のチューブを引き抜く。点滴の針の上から包帯をすれば、包帯も力で引き裂いて管を抜くのです。酸素吸入ケースのガラスの箱をいつの間にか取り外し、チューブはきちんと長さをそろえて縛ってある。点滴のチューブが抜けて血だらけになっていた。


明け方、ベッドの柵を越えて出ようとする。足が痛いのだから動けないハズなのに足を柵に上げていたらしい。「どうしたの、おじいちゃん」と聞くと、大きい人力車が迎えにきたから、それに乗ろうとしたが、足が届かない。それに乗らないと間に合わない。だから、柵を越えて乗ったが、運転する車夫がどこかにいってみあたらないーと、たどたどしくしゃべる。


おじいちゃん、どこへ行くつもりだったの?いやあ、知らない。何も聞いていない。その人力車は、おじいちゃんをお迎えにきたのじゃない?一人で行っちゃだめだよ。行くなら、愛ちゃん(父の愛犬)も誘ったら、どう?いやあ、愛がかわいそうだよ、というのです。


意識が混濁し、幻覚を起こすらしい。入院してすぐにこんな意識障害のような症状があるものか、わが目を疑うほどでした。どうも、それは薬による副作用じゃないか、その幻覚症状と思った。


みなさん、これはなんだと思いますか。聞いてびっくりでした。北海道の妹に報告がてら聞くと、お年寄りが入院などで急に環境が変わると、そのような症状がよくある、うちの義母もそういう症状になった、と解説する。知ってしまえば、どうってことはない。知らないと、あたふたしてしまうのです。憶えていてくださいね。間違っても、薬が原因じゃないか、と邪推して医師に詰め寄ることのないように、気を付け下さい。


それにしても、環境が変わった程度で、あんな風な幻覚症状が出てくるものですか?と、これまた誰もが疑問に思うらしい。妹の亭主も、当初信じられなかったし、この私も薬の副作用以外考えられなかった。これって、他人事と思いますか。あなたが、そうならないとも限らないのです。


点滴を乱暴に抜いたり、酸素吸入器の本体を外したり、と、四六時中、目が離せない。そのために、交代で父を見張っていなくてはならない。父に痛みが襲う。体を動かしながら痛みが和らぐ位置を探っても、そのポイントが見つからなくて身悶えする。さらに動けばそれだけ苦痛が伴うのに、動きを止めようとしない。痛み止めの座薬は、その副作用で血圧を著しく下げたり、心臓に負担をかけてしまうから、極力避けなければならない。


苦痛と幻覚で表情が歪み、「どうして、こんな状態に・・・」と、つい口から恨み節が漏れる。そこにいるのは、いつものやさしい父ではありません。父は、終日、眠るのを忘れているようでした。


看護師によると、これはアルツハイマーでもなければ、薬による幻覚症状でもない。いわば「せん妄」と呼ぶ症状という。入院直後とか、術後とか、何かしらの環境の変化で起こる症状で、一週間で平常に戻ることもあれば、そうでないケースもあり、一日に繰り返し襲うこともあれば、平常に戻ってくることもある、という。北海道の妹の説明の通りでした。ごく一般的でありふれた症状であるはずなのに、あんまり知られていないのではないか、と疑問に思ってしまった。


う〜む、「せん妄」ですか。初耳でした。


ウィキペディアで調べると、「せん妄」(譫妄、せんもう、delirium)は、意識混濁に加えて幻覚や錯覚が見られるような状態。健康な人でも寝ている人を強引に起こすと同じ症状を起こす。ICUやCCUで管理されている患者によく起こる。急激な精神運動興奮(カテーテルを引き抜くなど)や、問診上明らかな見当意識障害で気が付かれることが多い。


大手術後の患者(術後せん妄)、アルツハイマー病、脳卒中、代謝障害、アルコール依存症の患者にも見られる。通常は対症療法が行なわれる。「入院した途端、急にボケて(痴呆のように見える)しまって、自分がどこにいるのか、あるいは今日が何月何日かさえもわからなくなってしまった」というエピソードが極めて典型的である。通常は、退院する頃にはなくなっているので、安心してよい所見である、とのことでした。う〜む。


ご存知でしたか。父がおかしい、と最初は心配をし随分落ち込んだ。家人は、付き添うことでその「せん妄」を発症しないように、手を握り、声をかけ、ずっとそばにいるように努めていました。


こうなると、仕事が手につきません。頃合いを見計らって、病院に通い数日泊り込みました。体を少し浮かせるように抱いて背中をさすると、気持ち良さそうに目を細めます。手を握って「大丈夫だよ」と声をかける。ベッドからずり落ちるから、頭の側にまわってセーノをの掛け声で体を引き上げる。深夜、抱きかかえてベッドに横座りにさせる。数十分すると、横になりたい、といい出す。その繰り返し・・・。


無造作に抱きかかえるから、持病の腰を痛めてしまった。付添いの人の神経が擦りきってしまいそうです。男性は情けないくらい気が弱い。家人は、先月末から毎日、病院での寝泊りが続いています。介護者が介護される事態になる、というのもまんざら大げさでもないことがわかります。私の場合、2日連続の泊まりで疲労がピークに達し、こちらの意識が混濁してきそうでした。


仕事帰りに一旦家に帰って着替え、犬の散歩を終えて病院に向かう。深夜、家に戻り、翌朝は、家人が病院から帰るので朝の食事は、私の役目となります。せめて料理ぐらいできなきゃだめですね。


豆腐を切り分けてモズク酢で一品、ナスの皮をむいて蒸し、それを細かく切り裂いて豆板醤にごま油で食す。ピーマンは大きめに切ってじゃこを加えて炒め、醤油、みりん、お酒で仕上げる。完熟のトマトをこれも蒸して皮を取り、氷に冷やして四つ切にし、レタスの上にのせてそこにゴマ油、胡椒をふって味を調え、さらにパルメザンチーズをふりまくサラダの一品、時にはオクラなど野菜たっぷりのカレー、エノキを加えた牛丼、チキンかつ煮も料理する。


家人は帰宅すると急いで掃除に洗濯をし、そしてシャワーを浴びる。その間に食事を整えて、食べさせて再び病院に送り出す、という連携です。が、これもいつまで続くやら。介護は、一家 挙げての戦争かも知れません。寝たきりや、重病の患者を抱えた家族の心労はいかばかりか、少し分かる気がしてきました。


高齢化にいかに対応するか。これは社会システムの問題と、それと個人の生活レベル問題が、横たわっている気がします。詳しい説明は避けますが、家族構成にも関係があるし、家の構造も考えなくてはいけない。職場環境や地域の医療体制にも大いに影響されますね。単身赴任という状況では、まず介護の対応は難しいし、家庭と職場の相互の協調が求められることでしょう。そんなことを真剣に考えてしまいました。


この先、父がひょっとして寝たきりにならないとも限りません。何にもアイディアが思いつきません。手術をする医師から、万が一の覚悟を聞かれた。人工呼吸器で延命をはかりますか、どうするか、事前に決めてほしいと迫る。そんな深刻な事態か、と問うと、もしもの事態に対しての対応をお聞きしたい、という。とりあえず、という処置はない。ひとたび、延命措置を講じると、その後、人工呼吸器は止められない。それを止めると、「医師は、犯罪に問われます」と厳しい表情でいう。高齢者の介護や病気の治療には、絶えずこういった生と死の問題に直面するという事も知った。


どうする?その決断が迫られる日が近づいてきました。


当初の予定より2日遅れで、手術することになりました。夕刻5時から1時間半の予定が、2時間半余りになった。私は、会社から家に帰り、着替えてから病院に急ぎました。夜7時半、西の空に茜色の夕焼けが広がっていました。手術が終わったかもしれない。


病室に急ぐと、身体のあっちこっちからチューブにまかれた父が、酸素マスクの中でスースー寝息をたてていました。左足の付け根から二本の太い管が、傷口を洗浄するものだという。これを誤って抜かれたら大変なことになるから、注意してください、と看護師から言われた。


麻酔から意識が戻り始めると、案の定、せん妄の症状が少し出ていました。手を動かし、チューブを抜きとろうとする。そうしないように手袋をはめるかどうか、手袋をすると一応管を抜く心配は遠のくが、患者のストレスが高じてせん妄が激しくなる懸念があるらしい。どっちにしても誰かが付き添って見張っていなければならない。


その心労のせいだろいうと、思う。泊まりが2週間目に入った家人が3キロ減量、私が6キロも減った。介護ダイエットと言ったが、笑いが続かない。あんまりほっそりして顔がシャープになり、ついでにお腹周りがぐっとへっ込んでいたので、看護師さんがTシャツ姿の私を見るなり、「あらっ!今日は、お孫さんですか〜」だって、いくらなんでもそれはねぇ。病気の人や病気の人を抱えた家族から笑いが消える、というのは本当かもしれない、と思った。心が折れないように、と祈らざるを得ない日々が、この先どのくらい続くのだろうか。


今朝、電車で、体の不自由な男性が母親らしき70歳ぐらいのご婦人に支えられて乗ってきた。思うように機敏に動けない。席を譲って、その男性の腕をとって静かに座らせた。電車はそんな事情にお構いなしで急発進するからその反動で男性の体が隣の女性に寄れた。若い女性は、露骨に不機嫌な顔をしていた。そこはシルバーシートなのに。母親に席を譲る気配がない。この状況を考えて下さい、って言おうとしたが、周辺に気まずい空気が流れたらそのお母さんが辛い思いをするかもしれないと、思ってそのセリフを呑み込んだ。その男性が降りるとき、やはりすぐに席が立てないから、腕をとって起こしドアまで抱えるようにサポートした。母親が、何度も繰り返し頭を下げていた。お母さん、随分頑張ってきたんだね、って心でつぶやいた。が、もうどれほど長い時間が過ぎてしまったのか、その辺りの事情を読み取る力は、まったく持ち合わせていません。


このお母さんも、うちの家人と一緒で健気に懸命なんだ、と思ったら、少しでも手助けして気がほぐれた。あのまま見過ごしていたら、見て見ぬふりをしていたら、かなり後悔していたかもしれない。父の介護のことを思えば、ほんの1分のお手伝いです。なんということじゃない。他人の痛みを自分の痛みとして感じられるか、どうか。介護の現実と向き合って、この歳になって、初めて、やっとその意味が、それでも少しわかるような気がしてきた。やはり、人生、報恩感謝の4文字ですかね。


◇    ◇    ◇    ◇    ◇



■冨山和彦氏との挑戦的な対話
【コラム】黒川清氏の『学術の風』は、「冨山和彦さんとの極めて挑戦的な対話」。本文にも書かれている通り、黒川先生がご推奨の図書『会社は頭から腐る』、『指一本の執念が勝負を決める』の著者で、産業再生機構でご活躍の論客、経営共創基盤代表の冨山和彦氏とのエキサイティングな対談だった様子が伺えます。
 経営共創基盤の設立3周年を記念したイベントで、一橋大学の伊藤邦雄教授との対談あり、武田薬品工業の長谷川閑史社長の講演あり、そしてパート3が、黒川先生との対談という構成だったようです。
 「長谷川社長はいつも正論を遠慮なく発言し、企業のトップらしくどんどん実行している実力経営者です。ダボス会議でも評価の高い経営者のお一人 です。いつもながらの思い切った、切れ味するどい日本の将来への危機感いっぱいのお話をさらに盛り上げようと、冨山さんも私も、2人はステージで立ったまま、かなり思い切った、挑戦的な発言のやり取りに終始しました」。


黒川先生が、冒頭、会場参加者に女性がわずか数人(1桁ですね)しかいないことに問答無用の切り込みで挑発したらしいことが書かれています。また、冨山さんの会社約100 人の80%の「キャリア」社員で大学新卒者は「ゼロ」(これが普通でいいのですけど、)だとか、iPodに比べてiPadの部品では日本製が激減しているとか、日本人の固有の「強さ」と「弱さ」についての認識の弱さ、グローバル人脈(個人的な)ネットワークの少ないこと、「できない理由」などは聞きたくない、など具体的な事例や提案などをあげながら、黒川先生は「対話でした」というが、どうもこの文脈から読むと「吠えた!」感じですね。


最後に、さて、一人ひとりが行動を起こせるか、これこそが鍵です―というメッセージを忘れません。



■注目のメディカルツーリズムとは
【連載】経済産業省局長の石黒憲彦氏『志本主義のススメ』第145回は、前回に続いて「医療・介護関連産業は成長産業になるか?(その2)」。最初のパラグラフの小見出しが「もう一つの自律的市場」で、是回と今回の関係をこういう表現で説明されています。
 「前回は、医療・介護関連産業が成長産業となるための一つの分野として、病気にならない、病気と上手に付き合うための、疾病予防、介護予防、見守りのための生活支援サービスが、制度的にオープンな形で公的セクターと連動することで、発展していける可能性を指摘しました。今回は我々がもう一つ注目している分野を述べます。それはいわゆるメディカルツーリズムです」と。
 そのメディカルツーリズムにご注目ください。外国患者を受け入れる、そして医療市場を広げる、という戦略です。大胆で構想が大きい。心臓移植などで海外に渡航する、先端医療を受けるため韓国に飛ぶ、というような話は聞くが、実は、わが国がその潜在的有力市場となりうる、と断じているのです。
 その現実的課題を例に、例えば医療滞在ビザの発行など、うーむ、ユニークな発想ですね。海外拠点やネットワークの整備を指摘され、外国人医師や介護師受け入れ問題と合わせて、「日本の医療のグローバル化は、さらに日本の医療水準を上げるいい機会」というのは頷けます。いいものはどんどんやれば、と思います。要はスピードも大事と思いませんか。


 なお、石黒さんの商務情報政策局では、医療介護関連サービスの実証実験やメディカルツーリズムに関する調査事業を実施するかたわら、これらの政策のビジョンと今後の施策の考え方を整理すべく昨年夏に立ちあげた医療産業研究会(座長 伊東元重東京大学経済学部長)が、この6月30日に「医療生活産業」と定義した新たな政策提言を盛り込んだ報告書をとりまとめ公表しました、という。以下のURLからご覧ください。 http://www.meti.go.jp/press/20100630001/20100630001.html


■ネイチャーの学術誌からのランキングから 【連載】特許庁審査業務部長の橋本正洋氏『イノベーション戦略と知財』は第25回「科学と技術とイノベーション、その1:侍ジャパンと日本の強さ」。その冒頭に、W杯サッカーの日本の戦術論に触れて、「個々の選手の能力(戦略論上の兵器技術に相当)が劣勢の時のチームとしての戦い型(戦闘遂行能力として技能、集団凝縮性などの戦闘組織・戦術論)、控えやスタッフの一体化や選手のモチベーションの維持(士気等の戦術論)、食事を含めた合宿等の支援体制(後方支援、ロジスティックス)などに優れていたことが今回の日本チームの躍進の基礎となる戦略論ではなかったでしょうか」と個人的視点を入れて分析し、平田竹男早稲田大学教授の『サッカーという名の戦争』(新潮社)の著書を紹介しています。


続けて、「日本のイノベーション戦略における強みはどこにあるのか」と自問自答し、ネイチャージャパン(性格には、NPGネイチャーアジア・パシフィック社)が好評しているアジア地域におけるネイチャー等の学術誌に掲載された論文をベースに実施している各種ランキング(nature asia-pacific publishing index)を紹介しています。


特筆すべきは、例えば、1998年から2009年までの論文の国別ランキング推移を見ると、日本は2005年、2006年に若干低下したもののその後伸び続け、第2位の中国、第3位の豪州に比べて「アジアでの日本の研究機関の圧倒的な存在感」と誇示しています。こんなランキングがあるとは、知りませんでしたね。
 だが、この科学力を活かして最適なテーマで技術力を磨き、知財を押さえ、組織力を持ってイノベーションを実現する必要がある、と問題提起され、日本は科学力が強いうちに何をすべきか、次なる考察のテーマを披瀝されているのです。


【読者からの声】「地場の産業に役立つ科学技術」を問う!
JSTサテライト高知の事務局長、佐藤暢氏
・『社長島耕作』と「もぬけの殻ニッポン」
http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm100630.html


いつも以上に興味深く、そしてやや複雑な思いで拝読いたしました。
 「島耕作」シリーズは、個人的には最近ご無沙汰していますが、数年前に中国を取り上げていた頃(あの頃は専務でしたかね)、張輝さんが代表を務める日中テクノビジネスフォーラムのプロジェクト等に関わっていた時期と重なり、関心を持って毎週楽しみにしていたことを思い出します。


さて、今回は"韓国"、"技術流出"をテーマに取り上げておりましたが、この手の話を最近聞くに付け、思い出すことがあります。あれは90年代後半だったと思いますが、NHKで、日本の企業(たとえば東芝)がリストラを行い、会社を去った技術者が韓国企業にハンティングされ、結果として半導体事業で日韓が逆転しつつある…といった報道特集をしていたと思います。私は社会人駆け出しの頃でしたので、その内容には非常に衝撃的な印象が残っています。


「まいど1号」で一躍「時の人」となった東大阪の青木社長のお話を伺ったのは2004年のことです。日本の若者が「3K」だといってものづくりを敬遠し、「カッコ悪い」といって中小企業を敬遠し、東大阪も苦境であった頃、中国の行政官が企業の技術者にダイレクトコンタクトをかけてきます。日本の行政が知らない間に、ベテラン技術者が「中国で技術指導をして欲しい」と短期(1〜3ヶ月)の指導のために中国に渡ります。中国の若者はハングリー精神に燃え、瞳を輝かせて話を聞き、汗水を流して作業に打ち込む。ベテラン技術者としては技術者冥利に尽きる瞬間だそうです。反面、「これで本当に良いのか」と苦悩するのだという。そんな話をしてくれました。


この話を、やはり2004年のことですが、DND連載でもご活躍中の石黒さんにぶつけたことがあります。
http://www.tb-innovations.co.jp/JCTBF_Sympo/1st_Net.Sympo.link3.11.htm


あの当時、石黒さんも「人材を通じた技術流出を危惧している」といったことをおっしゃられていたと記憶しています。あれから6年が経ちました。


4月に出口さんともご一緒した、上海での技術取引市場への視察の話を周囲にしますと、中国への進出という点に対しては、まだまだ慎重論や不信論も根強いのだなあと感じます。その一方で、「(中国に追い抜かれるのではないかという危機感に対して)必要以上に騒ぐことはない」という声もあるようです。いずれが適切な現状認識なのか、私はコメントするべき立場にありません。が、中国の勢いをどのように捉えるべきかについて、2004年にビジネスモデル学会が行った北京コンベンションでも議論されたことが思い出されます。つい最近の日経にも「中国資本がやってきた レナウン、ラオックスの現場」の記事がありましたね。中国といい、今回のメルマガでの出口さんが取り上げた韓国といい、アジアのパワーに、日本はホントに飲み込まれてしまうのではないかと危惧しています(あくまで個人的な感想の域を出ませんが)。


話を戻して科学技術です。出口さんのおっしゃる「もぬけの殻ニッポン」に関連して、最近、私の周囲では、「このままでは『地域イノベーション』が死後になる」「国は地域科学技術を捨てるのでしょうか」といった声を耳にするようになってきました。さきに閣議決定された「新成長戦略」には、「研究成果を地域の活性化につなげる取組を進める」とあります。しかし地域経済にとって、最先端やグローバルあるいは新フロンティア分野の科学技術というのは、なかなか実感できるものではないように思います。むしろたとえば、「伝統産業に培われた技術の高付加価値化」とか、「高齢化に対応した農林水産業のロボット化」といった声(地域のニーズ)に対して、科学技術が如何に応えていくべきか。


これはまさに「科学技術による地域活性化」だと思うのですが、如何でしょうか。「地場の産業に役立つ科学技術のありかた」について、もっと議論されても良いような気がしています。


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