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『坂の上の雲』に思うこと

DNDメディア局の出口です。この長い物語は、その日本史上類のない幸福な 楽天家たちの物語である。(中略)楽天家たちは、そのような時代人としての 体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天に、もし 一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみを見つめて坂を のぼってゆくであろう。


はるか坂の上に一片の雲〜。このフレーズによってどれほど心を突き動かさ れたことか。あえて言うまでもなく作家、司馬遼太郎氏の長編小説『坂の上の 雲』(文春文庫、全8巻)の巻末に、司馬氏が書き添えた「あとがき」からの 抜粋です。わずかこの数行に物語の主題が凝縮されているように思います。


物語の中心人物は、伊予の松山で生まれた松山中学卒の3人です。短歌、俳 句の世界に新風を吹き込んだ正岡子規、陸軍騎兵創設者の秋山好古(よしふ る)、その弟でロシア帝国のバルチック艦隊を打ち負かした海軍参謀の真之 (さねゆき)で、物語は維新後の新しい針路を模索する日本の大きなうねりの 中で、日露戦争を軸に近代国家誕生に自らの役割を追い求めた青春群像を描い ているのです。貧しい家柄で、お互い助け合い、励まし合って生きる姿が、キ ラキラと輝いて眩しいほどなのですね。


その『坂の上の雲』が、今月29日の日曜夜8時からNHKスペシャルドラマとし て放送されます。スタートとなる第1部「少年の国」は全5回で、それ以降は20 10年、2011年の秋にそれぞれ4回、あわせて全部で13回放映されるという。こ の年の暮れは、『坂の上の雲』を題材にしながら、いま我が国の若者がなぜ希 望を失ってしまったか、その輝きを取り戻すにはどうすればいのか‐が問われ そうな気がしてきます。何か、そのヒントが見つかるでしょうか。


ドラマの主要キャストを見ると、晩年の子規役にどんな役もこなす気迫の香 川照之さん、好古役に二枚目の阿部寛さん、端正で彫りの深い顔立ちは生前の 好古とよく似ていらっしゃる。そして、主演格の真之に映画「おくりびと」で 主演した本木雅弘さん、また楽しみは、子規の妹、律の役に菅野美穂さんが抜 擢されているところです。その他、秋山兄弟の父役に伊東四朗さん、その妻に 竹下景子さん、好古の妻に松たか子さん、子規や真之と東大予備門で学友だっ た夏目漱石役に小澤征悦さん、後の総理大臣で神田の共立学校では子規らに英 語を教えた高橋是清役に西田敏行さん、日露戦争で陸軍の作戦を指揮した不出 世の軍師、児玉源太郎役に高橋秀樹さん、海軍大将の東郷平八郎役に渡哲也さ ん―という豪華な顔ぶれです。いまからワクワクしてきます。



:北海道、室蘭市にある日本製鋼所の「瑞泉閣」の展示品から、秋山好古の揮ごうがありました。独特の書体ですね。


余談ですが、今週の29日の日曜日夜といえば、TBS系列ではチャンピオンの 内藤大助に亀田興毅が挑むボクシング世界タイトルの決戦が、その一方で放映 されます。どっちを録画するか、どっちが勝つか、ふ〜む、迷うところです。


さて、坂の上に白い雲という言葉の響きから、何か暗示をかけられたような 粛然たる気持ちにさせられます。私が在籍した産経新聞社の新年の社員大会な どで社長が、その訓示の最後に極めゼリフのようにこのフレーズを多用してい たからです。


この小説は、昭和43年4月22日から47年8月4日まで足かけ4年以上にわたって 「サンケイ新聞」夕刊で連載されていました。そして司馬氏ご自身が産経新 聞のOBで、かつて京都の社寺回りや大学担当の記者であり、後に大阪本社の文 化部長を務めていたことなどが影響していたと思います。『坂の上の雲』と司 馬遼太郎氏の存在は、先輩記者らの数少ない誇りであり、その折に触れた思い 出の数々は彼らの自慢話にもなっていました。


そして、もうひとつ。これは私の勝手な推量でそれほどの根拠はありません。 日露戦争でロシア帝国最強のバルチック艦隊を破った日本海軍の奇跡的な勝利 が、いわば新聞部数や記者の数で弱小の産経新聞がスクープ記事では負けない、 大手の朝日、読売を相手に勝負を挑む、そんな鼓舞が刷り込まれていたのかも しれません。


その一片の白い雲を‐という一節を呪文とし、やがて新聞経営が切迫して ボーナスが危ぶまれると、我々は、飯のタネにこの記者稼業をやっているので はない、なんて虚勢を張る先輩も少なくありませんでした。


白い雲ならぬ赤いネオンを横目にみながら、思えば社内の一室に路上屋台か ら持ち帰った酒のつまみを並べて連日連夜、ジャーナリズム論を戦わせながら 明け方まで時間を忘れていました。その結果、身も心もボロボロでしたが、気力だけで戦っていた感じでした。。病で 逝った、痩せ我慢が常の先輩らは、ある意味、やはりはるか坂の上の雲をみつ める、誉高い猛者だったように思います。社会部長経験の増井誠さん、渡辺秀 茂さん、そして稲田幸男さん…私の目には、壮絶な戦死に映りました。


さて、話を本題に戻しましょう。いまなお、多くの司馬ファンの間で、この 歴史小説が繰り返し読み継がれるのは、なぜか。少年期に抱いた愚直で一途な 志が、ふつふつと胸のうちに甦ってくるからなのか、あるいは、明治の人の姿 に、忘じ難い日本人の原点を見てしまうからなのでしょうか。生まれ変われる ものなら、この時代に憧れる、というのもうなずけます。


このメルマガを書くために、再び全8巻をそろえてページをめくりあとがき や解説をチェックし、以前購入した『文藝春秋特別版』の没後10年特別企画― 司馬遼太郎ふたたび―と、最近発刊の『文藝春秋12号特別企画』−『坂の上の 雲』と司馬遼太郎−の2冊を交互に見比べながら、その小説の核心を探ろうと 試みたのです。そこで驚いたことが2,3ありました。


この物語は、資料収集に5年、執筆時間が4年と3ケ月、その著作が文庫本で 全8巻の長編でありながら、実は、歴史再発掘のような極めて史実に忠実なド キュメントだったのです。司馬氏は、小説というのは本来フィクションンなの ですが、フィクションをいっさい禁じて書くことにしたーと述べ、海軍や陸軍 の配置、歴史上の事実関係を克明に調べ上げたほか、軍艦の硬いタラップを踏 んだ時の感触やら、海軍軍人の制服の袖になぜ金筋がはいっているのか、など を自問し、識者に取材し聞き及んで再び反問する、という事実に肉薄する作業 を丹念に繰り返していたのですね。


そして、日本海海戦の現場となる沖ノ島に向かっては、その波の色、気分を 感じ取っている。ロシアの租借地だった旅順港における乃木司令官の無謀な肉 弾攻撃の一部始終を地図の上で再現しながら、その戦術の瑕疵を検証し、その 原因を「これはどう考えても縄張り意識です」と納得していくのです。


そして、「あとがき六」では、この長編を書き終えた時の感想をこう綴って います。「元来感傷を軽蔑する習慣を自分に課しているつもりでありながら、 夜中の数時間ぼう然としてしまった。頭の中は夜の闇が深く遠く、その中を蒸 気機関車が黒い無数の貨車の列を引きずりつつ轟々と通りすぎて行ったような 感じだった」と述懐していました。


第1巻の最初の章が「春や昔」、そして8巻の最終章が「雨の坂」、幕を下ろ す数ページには、子規の墓碑を訪ねる真之の姿を捉えて、「雨のなかで緑がは るかに煙り、真之はふと三笠の艦橋からのぞんだあの日の日本海の海原を思い 出した」と付け加え、続けて「秋山真之の生涯も、必ずしも長くはなかった。 大正7年2月4日、万49歳で没した」としたためていました。そして、好古の臨 終の場面を最後に、あっけないくらいの書き方で幕を下ろしていました。その ためでしょうか、余韻がいつまでも引きずってしまいます。


『坂の上の雲』の全登場人物、その人名は、いったい何人になるでしょう かーという疑問に、答えを出していたのが、作家で古本屋のご主人、出久根達 郎さんでした。


「数えてみた。酔狂、と笑うなかれ。司馬文学は、登場人物の多さに特徴が ある。ひとり一人の気質や言動を描き分けるのが、司馬氏の才筆であった。司 馬文学が面白いのは、無名の人物がでてこないからである。どんな人でも、名 前がある。名前を持って生きた。名無しに人はあり得ない。氏は、その信念で 書き綴った」とし、代表作『竜馬がゆく』が1140人を数え、名前を出した以上 は、1行なり2行なり、必ずその人の風貌姿勢を描いている、という。


で、『坂の上の雲』の場合は、全編通じて1087名である。上下5人の誤差が ある、と断りを入れていました。このうち、女性はたった22名。影が、薄いと 記述していました。紛らわしのは、ロシア人の名前だった、とも書いていまし た。


いやあ、その出久根さんは、これは古書業界の口碑として語りつがれている ことだが、と前置きして、「一時、東京の古本屋から『日露戦争』という文字 が一行でも使われている本は、すべて司馬氏の許に集められた、と言われてい る」というエピソードを紹介していました。神田の書店が資料収集を請け負っ て、トラック便で司馬氏の自宅に届けていたのです。司馬氏は、それを一冊ず つ目を通し、使用する本、しない本に分けたらしく、使用しない本は、即刻、 払う、そうしないと本に埋まってしまうからである、と、「司馬遼太郎ふたた び」の特別版の寄稿で紹介していました。


次の興味は、日露戦争の勝敗は何によって分かれたのか、という疑問であり、 その日露戦争以前と以後で、日本はどう変わったか−を司馬氏自ら疑問を投げ かけて考え、そして答えを出していました。


司馬氏は、その「あとがき二」で、要するにロシアは自らに負けたところが 多く日本はその優れた計画性を敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利を ひろいつづけたというのが、日露戦争であろう、と言い切り、そしてこんな諌 言を残していました。


戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを 知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰す るようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日 本人の国民的理性が大きく後退して狂噪の昭和期に入る。やがて国家と国民が 狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか40年の ちのことである。敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれ ば、長い民族の歴史から見れば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思 議なものであるーと国家の存亡と戦争の関係をこのように喝破されているので す。もう一冊の『文藝春秋特別企画』は、司馬氏の日本人論の一文として、こ んな記述を紹介していました。


「勝ちっぱなしの国は、やはりおかしくなる。もし、日露戦争に勝たなけれ ば、その後の日本は困った事態(ロシアの占領下)になったでしょう。ところ が、勝ったがために出てきた弊害も、非常に深刻なものがありました」と重ね て指摘しているのです。


出久根さんは、この坂の上の雲を執筆する動機には、先の敗戦の根因を探る 意識があったのではないか、とある確信のもとでそう推測し、難儀な日露戦争 の検証に着手しようとしたきっかけが、名文家の評価が高い秋山真之が起草し、 東郷平八郎が解散式で読み上げた「連合艦隊解散ノ辞」に注目した時ではない か、という。


「神明はただ平素の鍛錬に力め戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授 くると同時に、一勝に満足して治平に安んずる者よりただちにこれをうばふ。 古人いわく。勝つて兜の緒を締めよ、と。」


軍人の思想に、後世長く影響を与えたとされる部分と言われます。兜の緒を 締め忘れ、勝利に酔い、大言壮語した日本の行く末は、私たちも知っている‐ とは出久根さんの評でした。


なんだか、費用対効果などという、いわば銭勘定一辺倒に堕した"仕分けバ トル"が、連日、わが国の行く末を左右するハズの大舞台で演じられています。 愚かな茶番とさえ映る、この無駄遣い根絶の"公開処刑"が、国民の多くの喝采 を浴びている、という構図を司馬氏が生きていたら、どう表現したでしょうか。


日本ではディベートの強者をいかがわしいやつ、サギ、インチキ師、ヘラズ 口というんだ、という司馬氏の文章が奇妙に脳裏から離れれません。



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