◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2009/08/05 http://dndi.jp/

東武浅草で靴磨き60年目の危機

  ・教授ら常連が、靴磨き存続の嘆願書
  ・如是閑が涙した「お茶ノ水のクツ磨き」
  ・黒川清氏ご推奨の『アメリカ後の世界』
  ・谷明人氏の連載『おじさんも、大志をいだけ!』

DNDメディア局の出口です。浅草寺がある雷門と江戸花火の隅田川を南北に 隔てる東武浅草駅。その一角で、一途に靴磨きを続けてきた向島生まれの島藤 俊明さん(71)が、いま途方に暮れています。


親の代から数えて今年でちょうど60年、その長き靴磨きが閉鎖の危機に追い 込まれているのです。湿った空気が淀んで、息をするのも苦しい。白い空から、 今にも雨が落ちてきそうな微妙な雲行きです。見上げれば、戦後間もなく東 京・浅草で始めた靴磨きに、その人生の大半を捧げて逝った愚直な父・延造さ んの面影が悲しく浮かんできます。


先月の初旬、長年、使用許可をもらっている東武商事の担当者から、靴磨き の場所のそばでエレベータ工事が入るので8月10日を期限に立ち退いてくださ い-という営業の閉鎖を通告されたのです。その期日が5日後に迫っているので す。翌11日は、靴磨きの台座など一式が、東武商事が手配したトラックに積ま れて埼玉の家に運ばれる予定なのですが、その後の見通しはたっていない。


そのいくらかの毎月の収入がなくなる影響も少なくない。が、東武電車を利 用するお客様サービスという意味から、他は600円に値上げしているのに、料 金を1回400円に据え置いてお役にたってきたという自負もあります。また、5 年前に89歳で逝った父、延造さんから引き継いだ靴磨きの仕事が、ここでこん な格好で突然途絶えてしまうことに納得がいかない。その思いが伝わらないの が口惜しい。


島藤さんは、なんとか継続する妙案はないものか、浅草駅のどこかほかの場 所、あるいは東武日光線の北千住駅とか、靴磨きの継続を求めて東武商事に掛 け合ってきました。が、東武商事の親会社である、東武鉄道の判断や意見を待 たねばならない、とかの理由で、この1ケ月、話し合いの場は持たれてきませ んでした。昨日の4日午前中に向島の東武商事に出向いて、「手数料」名目の 月々の"ショバ代"を支払いに行ったあと、再度、継続を求めると、本日5日に なって、担当者から「いま代替の場所を探している」との返事をもらった、と いくぶん表情を緩めていました。「ずっと探してくれていたのだと思うと、う れしい気持ちになるが、やはり10日以降どうなってしまうか、不安だ」と気持 ちが晴れないのです。


お客さま重視の東武鉄道としても、島藤さんが不法に占拠しているなら論外 ですが、賃貸契約のような形をとって毎月、賃料を払っているのですから、ハ イ!これでおしまいという事にはならないハズです。立ち退きに伴う、なんら かの対応をするのは、当然と思いますね。


東武浅草駅周辺は、靴の問屋やメーカーがひしめく靴のメッカです。その靴をメンテナンスし、大切に磨いてくれるのですから、靴磨きの仕事を見下して粗末にしては罰があたる、というものです。そこで記者稼業の悪い癖でなん でも疑ってしまって、だから始末におえないのですが、いきなり立ち退きを迫 って継続の嘆願に対して1ケ月も対応せず、土壇場になって「別の場所を探し ている」と言って撤退を余儀なくさせて、「後は知らん」ということを、黙っ て見過ごすことができないのです。東武鉄道の広報に電話して聞いてみると、 調べて数時間後に電話をかけてくれました。担当者は、「バリアフリーの工事 が入り、お客の通行の妨げにもなるし、浅草駅構内では継続できなくなるので、 ご本人の了承の上で立ち退いてもらうことになっています」という。


東武浅草駅は松屋デパートの2階部分に線路を引き込み、改札やホームが設 置され、デパートの中を電車が発着する格好です。浅草駅は、普通電車のほか、 東武日光駅行きなど特急スペーシアの発着駅ともなります。日光や鬼怒川温泉、 会津地方まで伸びる日光や会津線、群馬県の伊勢崎や太田に向かう伊勢崎線が あります。我が家の越谷からは毎日東武線を利用するので特に馴染みのある路 線なのです。東武鉄道の広報によると、浅草駅の1日の平均乗降客は5万4000人 (平成20年度)に及ぶ、という。


さて、その浅草駅の改札を出て、向い側奥のコンコースのトイレの手前左脇 が、島藤さんの仕事場所です。壁際に横1メートル、幅1メートルの狭さです。 木の箱を重ねたような一段高い客用の腰かけ台の下に、靴修理台を逆さにした 鉄製の足置きがあり、父親の代から使い込んでいるもので、年季が入ってピカ ピカに輝いていました。この台に何人が足を預けたことか、どんな人たちが入 れ変わったことでしょう、鈍く光る足置きを見ていると、さまざまな想像をか きたたせてくれそうでした。


先代の延造さんが、東武浅草駅の1階西側の入口付近で靴磨きを始めたのが 昭和25年当時でした。数人の仕事仲間がそこで客待ちをしていたのです。道路 は、砂埃が舞う状態で、いまのように舗装されていません。雨が降るとぬかる んで、革靴はたちまち泥で汚れてしまいます。浅草に限らず靴磨きの需要は盛 んで、デパート入口の角や東京駅などでよく見られました。つい最近まで都会 の風物詩でした。が、私がよく利用した東京駅丸の内側、大手町の産経新聞社 脇、有楽町のガード下付近に、その姿は認められません。ここ十数年で一掃さ れてしまったのでしょうか、靴磨き受難の時代です。


浅草駅の建て替え工事に伴って、浅草駅1階から現在の2階のコンコースに移 ったのが20数年前だったという。戦後から数えれば、東武浅草駅の変遷ととも に半世紀余り、ずっと靴磨き一筋だったのですね。凄いことですね。


その靴磨きで、6人の子供を養い一家の生計を担ってきたのです。俊明さん は、中学、高校の時に靴磨きのバイトをしながら靴磨きのコツを覚えました。 父親の死去に伴って、現在は、弟さんや妹さんと3人で交代して継いできたの です。


敗戦の失意の中でどう生きるか、靴磨きは、その自立のモデルでした。靴墨 と布切れ、足置きの台と少々の水があれば、それで誰でも始められます。ちゃ んとコツを掴めば、子供にだってできる。どんな客が目の前に座るかわからな いドキドキ感があります。お客への気配りや、サイズに色、形、それにバリ エーションに富んだ靴の汚れもあるでしょう。雨、雪、風、それに暑さなど、 季節や気候への対処方法など、靴磨きの現場には、生きたビジネスの知識やノ ウハウが凝縮されている気がします。ぼんやりしていられないのです。靴磨き 恐るべし―なのです。


島藤さんに靴を磨いてもらいながら、こんなことを聞いてみました。
 靴磨きのプロとしての秘訣は?
「プロというほどのものではない。ただ、お客の靴をきれいにしたいという 単純な気持ちです」。

 お父さんに教えられたことは?
「人に喜んでもらう、ということですかね。技術とか、知識はその次のこと です。それと、お客と会話はしますが、どこで何をしているか、これからど こへいくか、などは、まったく余計なことです。客の中に入っていくことは しない、その戒めも大事なことと思っています」

 客の靴を見てその人物がわかりますか?
「だいたい、その客の社会的地位のようなものが見えてきます。公の仕事か、 エリートか、教授か、政治家か、まあ、政治家さんは、顔をみればわかりま すよね」

 政治家はどなたが?
「まあ、国務大臣経験者は、よくお見えになります。地元に帰られる時は、 立ち寄られます。お若いけど、立派な方です。」

 その政治家が、今度立ち寄って、ここに島藤さんがいらっしゃらないと、戸 惑ってウロウロし、廃業したと聞けば、きっとがっかりされるのではないか?

「う〜ん…そういうことを心配してくださる方もいます。こんな嘆願の手紙 を持ってきてくれました。ありがたいですね」

 その手紙は、常連客の一人が、靴磨きの存続を訴える東武鉄道宛の嘆願書で した。便せん数枚に、達筆な文字でこう綴られていました。

 〜私は、週1回福島から仕事で東京にきております。その際に、東武浅草駅 で靴を磨いていただいて何年経過したことでしょうか。お互い顔は知っていて も名前は知らず、靴を磨いている間だけの短い会話の中からニュースでは知り えない東京の情報を得ることができるのです。このたび、あの場所での靴磨き が存続できなくなるとのことで、大変残念に思っております。是非、何らかの 形で靴磨きを存続していただけないでしょうか。

 私と同様の気持ちのお客様も顧客も多いと思います。
 靴磨きの存続を重ねてお願い申し上げる次第です〜

 文面の末尾に差出人の名前が書き添えられていました。東京の大学で講義を 受け持つ大学教授という。わずか1平方メートルの作業場、そこに詰まった60 年の有形無形の価値は、計り知れない。歴史や伝統を重んじる浅草には、靴磨 きがよく似合うと思うのですが、どうでしょうか。常連の一人として、切に存 続をお願いしたい。



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これは余談になります。明治以後の著名な新聞人として知られる長谷川如是 閑に「クツ磨き」というコラムがあります。昭和26年5月6日号の「週刊朝日」 に掲載されたものです。その一部を青木彰著の『新聞力』から引用して紹介し ます。


戦後の混乱が続く、ある日のことでした。如是閑は、お茶ノ水のたもとで、 若い靴磨きに靴を磨かせようとします。ところが、その若者は、持っている靴 墨の質が悪いので、いい靴墨を持っている人に頼んでもらえないか、と如是閑 の申し出を断ったのです。


如是閑は、「いいから、その靴墨でやりなさい」となんどもその若者に催促 するのですが、彼は、「靴磨きが人の靴を台無しにしては申し訳ないことで す」と聞き入れない。


そこで、如是閑は、仕方なく小さな紙幣を彼に手渡して引き上げようとする が、その若者は、その金を受け取ろうとしない。如是閑は、ついに紙幣を投げ 出してその場から駆け去った、というのです。


このコラムの後、今度は東京新聞の元旦号「年頭小言」に、如是閑はこう記 述するのです。


〜涙に頬をぬらしながら(若者のところから)逃げていく私を、往来の人は何と思ったことだろう。私は立ち止って頬を拭(ぬぐ)いながら頭の中で叫んだ『日本は滅びない』…万人のために万人に踏まれながら生きている街頭の砂利のような人たちのうちに、このような『人間』をたった一人見出して…上層の日本は、どうあろうとも、その下層の街頭の砂利が、人間というコンクリートで堅固に舗装されていたら、その上の日本は断じてひっくりかえることはない〜。


この新聞が出て数日後、鎌倉の如是閑邸に、「お茶の水の靴磨きです」と名 乗る若者が訪れてくるのです。彼は、早大生で、そのときは10人近い男女と並 んで靴磨きのアルバイトを続けていたのです。彼以外は、みな本職でした。彼 は、「年頭小言」が載っている新聞を同業の人の数だけ買って、みんなに読ま せて、そしてこう言ったのです。


「われわれは、この往来の砂利となって人々に踏まれながら、日本の行く道 を固める人間になろうじゃないか」。それを聞いて、みんなは汚れた手で新聞 を握りしめながら泣いたという。


著者の故・青木さんは、産経新聞の元編集局長で、その後、筑波大学教授に 転身し、マスコミ志望の学生を対象とした私塾「青木塾」を開き、筑波大学か ら数多くのマスコミ人を輩出したのです。業界ではよく知られた事実です。


その青木さんは、靴磨きを如是閑の言う"下層の街頭の砂利"とは毛頭思わな い、としながら、「ただ如是閑の心のたかぶりには共感する」と述べ、当時の 新聞と読者・国民との濃密な結びつき、とりわけ新聞の重みとでも言ったもの に心を打たれるのである、と心情を語っていました。そこは私も青木さんとま ったく同感で、モノにはめぐまれないけれど、心の輝きを失わない確かな若者 の存在に涙し、わが国の将来に希望をつなぐ新聞人の大先達の振る舞いに心が 揺さぶられるのです。


戦後から60年近く続く、東武浅草駅の靴磨きが、廃業の憂き目に遭っている という噂を耳にして心中穏やかではありませんでした。取材がてらこの1週間 で4回も靴を磨いてもらいました。記念にスナップ写真も撮らせてもらいまし た。親子2代にわたる靴磨き60年目の危機なのですが、何か大事なものが失わ れていくような気がしてなりません。組織や立場で、尊い靴磨きの仕事が見下 されて邪魔者扱いされてはいないか。東武のコンコースでもっとも人間っぽい のが、靴磨きじゃないか、と思う。そこに気が付かないというところに、大い なる不幸と危機を感じるのです。


まあ、もうひとつの驚きは、"ショバ代"です。月10数万の靴磨きの収入の中 から3万円を超える"ショバ代"を長きにわたって取り続けてきたという。ひと 坪で計算すると10万円になる。ふ〜む。どう考えても1平方メートル5千円がい いところではないでしょうか。もし、それが事実ならどういう名目で、あるい はその積算根拠を聞いてみたいものです。というより、そもそもその「手数 料」の意味がよく分からない。まあ、東武鉄道にはお世話になっているので、 なんとか存続をお願いして、この辺で筆をおきましょう。元新聞記者の性癖で すのでご容赦ください。どこまでもいつまでも、疑り深いのです。



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【学術の風】黒川清さんの最新のコラムは『アメリカ後の世界The Post-Ameri can World』で、インド出身でNewsweek International Edition の編集者で、 気鋭のジャーナリストであるFareed Zakariaさんが2008年に著した著作の紹介 で、若い人にぜひ、と推奨しています。
抜粋すると、章の構成は
1.「アメリカ以外のすべての国」の台頭 2.地球規模の権力シフトが始まった 3.「非西洋」と「西洋」が混じり合う新しい世界 4.中国は「非対称な超大 国」の道をゆく 5.民主主義という宿命を背負うインド 6.アメリカはこのま ま没落するのか7.アメリカは自らをグローバル化できるかーの7章からなり、 「アメリカと中国を中心とする大きな政治経済という見方ばかりでなく、これ からの大国インドの中長期的な視点と課題などを盛り込んだ、大変興味深く、 また他の同類のテーマの書籍とは少し違った見方を与えています」と解説して います。中でも、タイトルになっている、「アメリカ後の世界」という意味に 触れて、「アメリカ一極ではなく、"その他の台頭"ということです。特に中国 とインドは、大きな問題を抱えていますが、その人口からも大きく成長し、世 界で大きな意味を持つことになるでしょう。その辺りの視点がなかなかのもの です」と指摘しています。
 ※彼はインドに生まれ、イスラム教徒の家庭で育ちます。小中高教育をムン バイの名門校で学び、Yale Universityに留学。さらに、Harvard大学において 政治学でPhDを取得。27歳という若さで「Foreign Affairs」(Council of For eign Affairsの出版物)の編集長へ大抜擢され、2000年から現職のNewsweekの 編集者となりました。
【連載】は、大学連携推進課長、谷明人さんの『列島巡礼 西へ東へ』の第9 回「おじさんも、大志をいだけ!」。谷さん、ゆかりの北海道大学へ、そこで は、少々タイトルが長いのですが、『「北大リサーチ&ビジネスパーク」を起 爆剤として地域活性化に関する産学官関係者会合』に潜入ルポです。
 〜海外では珍しくないのですが、北大は、旧国立大学で、最も早く、民間企 業の塩野義製薬がキャンパス内に研究所を建設した大学です。キャンパス北部 に、牛がのどかに草をはむ農場があるのですが、その一画を活用して、学内や 塩野義製薬の研究施設や、中小基盤整備機構のインキュベーションセンター、JST、 道立研究機関が複数集積しております〜と概要を説明し、今回の会合では〜近 藤龍夫北海道経済連合会会長、佐伯浩北海道大学総長、北海道庁幹部、政府か らは吉川貴盛経済産業副大臣といった、まさに産学官のトップのよる活発な意 見交換が行われました。経済の危機は産学官でしっかり結束して乗り切るとの、 一つのチャンスです。北海道は、バイオ、食糧といった強みに集中投資を行い、 日本の中の特色のある拠点を築いて行かれることを確信しております〜とエー ルを送っているのです。
 まあ、谷さんのコラムの魅力のひとつは、訪れた先の「都市学」の蘊蓄です ね。30年前、初めて札幌でみた観光のシンボル「時計台」のその前評判と現実 の落差の激しさを、質素で谷間にポツンと建つ低層木造建築と表現し、思わず 「めぞん一刻」と、高橋留美子さんの人気ラブコメディまんがを引き合いに出 すところは、柔軟な感性の賜ですね。加えて、三大がっかり観光地に話が及ん で、これも面白い。どうぞ、本文をお読みください。
 次回は、第10回「熱い浪速の産学連携」で、大阪大学の、" Industry on Ca mpus "を紹介しています。なお、メルマガは次週12日と19日がお休みとなりま す。谷さんの第10回は、次週にサイトにアップいたします。
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