◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2009/02/25 http://dndi.jp/

佐藤剛蔵氏の子孫ら100年目の邂逅

 〜海峡をわたった一冊の書物の機縁〜
 〜黒川先生と朱先生との偶然の必然〜
 〜大学発ベンチャー「テラ」の上場承認〜
 〜連載は、比嘉照夫教授と塩沢文朗さん〜
 〜DND登録念願の10000人突破、速報!〜

DNDメディア局の出口です。遠いかすかな記憶から過去の扉を開けると、消 え失せていた往時の人物が、にわかに命を吹き返したかのように甦ってくるよ うでした。20世紀初頭の動乱期、海を渡って韓国近代医学の礎を築いた数多く の日本人医学者らの100年目の邂逅、そこに初対面ながら誇らしげな子孫の晴 れやかな顔がありました。


その端緒は、韓国近代医学の史実を自叙伝風に綴った『朝鮮医育史』の最後 の一冊でした。この書物が、捨てられる寸前に日韓の医学者間でリレーされ海 峡を行き来して、そしてコピーされて幾人もの人の心を揺さぶっているのです。 戦争の葛藤、その屈折した痛みを越えてあくまで教育者としての信念を貫く姿 は、感動的で多くの示唆に富む一編のドラマを見るようでした。


きっかけは、黒川清さんと朱軫淳さんの、日韓のアカデミアの相互信頼でし た。少し長めですけれど、お許しください。



写真:久々の対面となった黒川先生と朱先生


この本の著者は、日本人医学者の佐藤剛蔵氏(1880年−1960年)。日韓併合 前の1907年6月(明治40年)、京都帝大医学部を卒業の翌年に平壌公立同仁医 院長として韓国に渡りました。当時、27歳でした。それから終戦の1945年12月 末まで38年間6ケ月に及ぶ、その半生を韓国医学の発展に尽力し、そして、喜 寿のお祝いの記念に知人らの協力もあって『朝鮮医育史』という本にまとめて いたのです。その序に、「朝鮮医育史といっても私の朝鮮医育に関する追想追 憶である」と書かれていました。


ご記憶がありますでしょうか。京城医専校長当時の教え子らが高齢だが健在 だ、ということで取材方々一昨年秋、内閣特別顧問(当時)の黒川清さんに同 行し、ソウルに韓国学術院副会長の朱軫淳氏らを訪ねたことは、以前のメルマ ガvol.245、246「韓国近代医学史に刻む佐藤剛蔵氏を訪ねて」(前篇、後編) で紹介した通りです。今回は、その続編となります。


僕の手元にある、その一冊は、ソウルで食事をしている時に、僕がジャーナ リストとしてこの辺のいきさつをルポする、との黒川さんの紹介があって、朱 先生がたまたま一冊を鞄に忍ばせていたものを、その場でプレゼントしてくれ たものでした。


その本の中で、佐藤氏の人柄を偲ぶのにふさわしいのが「笈(きゅう)を負 うて来た医学徒」というエピソードです。明治41年春、平壌に派遣されてまも ない頃の話です。


〜うすら寒い日早朝でした。その講義をしていた洋室の窓の外から大声で呼 ぶ者がいました。見れば、白い朝鮮服に黒い朝鮮帽をかぶった大男でした。そ の荷物を斜めに背中にしばりつけた格好で、単刀直入に「こちらは大へん熱心 に医学を教えてくれるそうだが、自分もこちらで医学を学びたいから、何とか 都合して入学させてくれぬか」という。


聞くと、その頃、汽車はなかったので、遠く咸鏡南道咸興から徒歩でやって きたと話していました。「笈を負うて」ということばがあるが、私にはその言 葉通りその儘の姿でその青年がやってきたような感じがしてならなかった。直 ちに入学させてやった。


この青年はすごく心掛けがよく韓国併合後、平壌慈恵医院医学徒に継承せら れ、後に京城の総督府医院付属医学講習所給費生として転入し、卒業してから は郷里・咸興で開業し、その地方において信用を得て有力者になりました。当 時の朝鮮青年の向上心が盛んな地方といえば、京城以北では平壌と咸興であっ た〜。


これを読んで、胸にぐっと熱いものが込み上げてきました。何度読んでも、 新鮮な感動を憶えます。そして、佐藤氏のなんと度量の大きいことでしょう。 「笈(きゅう)」とは、修行する時に仏像や供物、経文などを入れて背負う箱で、 修験者に欠かせない法具でもあったらしいのです。この場合は、背負うように 作られている本箱で、笈を背負って旅をする、つまり遠方に遊学することを指 すのだそうです。


咸鏡南道咸興。調べると、古代は高句麗の領地で、朝鮮王朝を築いた李成桂 の生誕地でもあります。地図を見ると、韓半島の東北に位置し、すぐ東は日本 海です。そこから、南西方向の平壌まで歩いて数百キロの険しい山合を越えて 来たのですね。咸興(ハムフン)、日本語の発音でカンコウ、この地名がまた 奇妙な符号をもたらすことになります。


さて、その追憶の韓国訪問から1年4ケ月、今度は朱先生らを日本に招いての ワークショップが今月20日午後、東京の政策研究大学院大学で開催されたので す。題して「韓国近代医学史―佐藤剛蔵その足跡を考える」。このシンポには、 ソウル大学医学部の教官や駐福岡大韓民国総領事館領事のゲストに加え、熊本県から佐藤剛蔵氏の孫の佐々木定さんをはじめ、香川県から医学博士の内田立身さん、都内から芳賀稔さんら、韓国の近代医学を行政、教育の両面で支えた京城医専や大韓医院ゆかりの子孫が顔をそろえていました。主催の黒川さんをはじめ、近代医学史の研究を続けている、医師で研究者の石田純郎さんらのお誘いでごく少数ですが、子孫の関係者が一堂に会するのは初めてのことです。


まず黒川さんが、「よくいらっしゃいました」と歓迎の言葉を述べた後、21 世紀の日韓関係を考えるうえで大事なのは、「この歴史から何を学ぶか、なの です」と前置きして、「グローバリズムの視点を持った人材を一人でも多く育 てていきたい。そのためのワークショップです」と、この趣旨に触れていまし た。


そして黒川さんが、朱先生との出会い、この会の開催の原点について語り始 めました。それが実は『朝鮮医育史』の最後の一冊の始まりでした。この書物 をめぐっては、本当に不思議なことがたくさんあって、実に多くの方々が連環 していることにまず驚かされます。黒川さんは、それを「一期一会」と表現し ていました。


例えば、5年前、黒川さんが韓国学士院の設立50周年のお祝いの席に招かれ た時のことでした。韓国のアカデミアがそれぞれ、何か珍しい物を展示用に持 参する、という決まりになっていて、朱先生は、たまたまこの本を持ってきて いたのでした。そこで黒川さんは、副会長の朱先生から「ちょっといらっしゃ い。珍しいものをお見せしましょう」と、その本を差し出されたのです。常に 教育者たらんと志した佐藤剛蔵氏の、その瑞々しい感性が文章の行間ににじみ 出ていた、と黒川さんは述懐していました。



写真:挨拶に立つ黒川先生


書籍は、B5サイズで123ページあり、最初のページに、佐藤氏の写真と略歴、 記念写真が数枚並んでしました。奥付をみると、昭和31年5月5日発行、非売品 とあり、発行者が佐藤先生喜寿祝賀会となっていました。佐藤氏が逝去する2 年前の出版でした。その序を読むと、そもそも天理大学に創設の朝鮮学会副会 長で文学博士の畏友、高橋亨氏(元京城帝国大学教授)の勧めで朝鮮の医育、 衛生施設などについて書き、それを朝鮮学報で発表した、というものに加筆し、 佐藤氏ゆかりの人々が喜寿の祝いに出版したものでした。



写真:佐藤剛蔵著『朝鮮医育史』


黒川さんはその折、朱先生に「このコピーありますか?この原本を貸してい ただけたら、コピーして関係者に知らせたい」と言うと、こちらでコピーして 送ります、との返事があって、それから朱先生から20部が黒川さんのご自宅に 届けられたのです。


黒川さんのそれからの動きは機敏でした。佐藤剛蔵氏の子孫を探す手がかり を京都大学医学部の関係者にあたり、それでも埒があかないので、週刊新潮の 掲示板に「佐藤剛蔵氏」の子孫をご存知ないか、と告知することにしたのでし た。すると、佐藤家の菩提寺である新潟県長岡の善照寺のご住職から、その年 の押し詰まった頃、熊本県の佐々木定さんの宅に夜、電話が入ったそうです。


パネリストに登場した佐々木さんが、その辺のいきさつを詳細に述べてくれ ました。電話は、なんだか黒川先生という方が佐藤剛蔵の子孫を探しているそ うだ、と。佐々木さんは、その翌朝黒川さんに電話を入れ、翌年の初夏、東京 で黒川さんと対面することになるのです。偶然、岡山在住の医師で石田純朗さ んも「韓国の近代医学史」の研究をしていることなどが判明し、佐藤剛蔵氏が 校長時代の教え子が健在なうちにその周辺の歴史的資料を集め、その功績を後 世に残そう、という趣旨で、何かが動き始めたのです。折に触れて連絡を取り、 一昨年秋に満を持してソウルを訪問した、といういきさつがあるわけです。



写真:佐藤剛蔵氏の孫の佐々木定さん


朱先生は客席から、終始にこやかな笑みを浮かべておりました。時折、立っ て、黒川先生がタネを蒔いてくれたお陰で、韓国と日本の関係に新たな橋を渡 してくれました、感謝です、と謝辞を述べる場面が印象的でした。ソフト帽の 似合う、心のやさしい朱先生の言動や振る舞いを間近で見ていると、人間の品 格というか、美しく老いることの大切さを意識させられました。若い頃から、 苦難に向かう、そんな姿勢が、その後の人生をも決定づけるのかもしれません。


朱先生の講演の順番がまわってきました。「解放後の医学者としての道」― というタイトルでした。敗戦の8月15日前夜の沈痛な校庭の様子、46年頃に流 行したコレラの防疫対応に追われるのです。そこでの一大事は、佐藤校長が在 籍した京城医専が、米国の軍政の圧力で京城帝国大学医学部に編入される事態 が起こったのでした。これに対して京城医専の学生、教員、同窓生がこぞって 反対運動を展開したところ、この動きに乗じて米軍政反対の左翼勢力が加勢し、 それが大きな社会問題化した。当時、学生会長の立場にあった朱先生に逮捕令 状が出されてしまうのです。やむなく田舎の知人のところに逃げて身を隠して いたそうです。そんなこともあったのですね。


校長の佐藤先生を守るため、朱先生ら学生が協力して釜山の港までかくまっ て無事に見送った、という話もお聞きしていました。1953年ごろになると、韓 半島の動乱が収まり、各大学で授業が再開され、朱先生はソウル女子医科大学 の生化学の助教授に招聘され、定年で退官する1982年までの33年間、医学教育、 研究に専念します。その間、米国への留学もされています。ご専門は栄養学だ という。それぞれに葛藤があり、混乱の社会事情の中でも向学の念は忘れるこ とがなかったのです。



写真:朱先生


さて、そこで朱先生は、途中でこの本との関わりについて、こんなエピソー ドを披露するではありませんか。『朝鮮医育史』は、京都帝大の教授で知人の 鈴江緑衣郎さんから送られてきたものだ、という。


ある時、鈴江さんからこんな連絡が入った。父の書斎を整理していたら、こ んな書物がでてきました。これを持っていても私には役に立たないが、あなた (朱先生)なら関心がおありになるかもしれないと思うので送ります。必要が なかったらゴミ箱にでも捨ててください−という。


朱先生は、この本が届いた日にひと晩で読んで、感動を受けるのです。「目 からウロコ」で、韓国の近代医学の道筋にいたる、これまでの疑問に霧が晴れ ていくようでした、と述懐されていました。鈴江さんがゴミ箱に破棄していた ら、あるいは朱先生が、その本を黒川さんに教えていなかったら、韓国学士院 の記念で「珍し物の展示」という企画がなかったら…いくつものifが重なるで はありませんか。


そこで、僕の興味は次に、この貴重な本を送ってくれた鈴江緑衣郎氏とは、 どんな人物なのか−に飛びました。


このワークショップに香川県の高松市から参加していた、香川県赤十字血液 センター所長で医学博士の内田立身さんが、よくご存知だったのです。その ワークショップの場で説明してくれました。が、その脈絡がよく理解できなか ったため、後日、失礼を承知でご自宅や職場に電話を入れて、再びお話を聞く ことができました。一度しか面識がないのに、丁寧に説明くださり、ご祖父の 関連の資料の送付もお約束いただきました。


これも不思議なことでした。実は、鈴江先生は、国立栄養研究所の所長を歴 任され、京都大学医化学の早石修研究室の看板教授で、大変有名な学者だった のです。


その前に、内田さんの講演の内容に触れましょう。内田さんのご祖父は、内 田徒志氏で、大韓医院付属医学学校の教授でした。初期の1905年に韓国に渡た り大韓医院の設立にかかわるなど、1911年にドイツのミュンヘンに留学するま での5年間を京城で過ごしました。内田さんの資料によると、徒志氏を韓国に 誘ったのは、東大卒で徒志氏より一年早く渡韓していた大韓医院衛生部長の 佐々木四方志氏でした。この会場で同席している佐々木定さんのご祖父でした。 なんという人間模様なのでしょう。


内田さんの講演は、さらに「祖父 内田徒志の思い出」に言及しました。祖 父の活躍を偲ぶ写真が数枚紹介されました。ドイツに留学する際の壮行を祝う 学生らとの記念写真が目にとまりました。


内田さんは、古いアルバムがその原型をとどめぬくらいばらついていて、こ の写真帳の最後のページにこんな書き残しがあった、と、その文章を紹介して いました。


「やがて我百年の後、この画消ゆることなく、墨蹟滅せざれば余の歴史を語 るの料として、血族の誰かの手に送り届けられんことを望むのみ」という文面 でした。まるでこの度のステージを予感していたかのような記述でした。格調 高い文章ですね。



写真:祖父、徒志氏(左端)との記念写真におさまる幼少のころの内田さん(前 列真ん中)


もうひとつ、内田さんは、伊勢新聞に掲載された徒志氏の手記を紹介しまし た。そのタイトルが「退韓記」で、日韓併合の1910年10月から9回にわたって 大韓医院設立当時の状況などを伝えています。その最終回の一文です。


「さるにても、この京城の一隅において、洋館巍峨として、雲にそびゆる大 韓医院の隠れたる歴史と没せられたる功績とは、爾後、何人の口によって伝え られるであろうか。在韓五年、長しと言うに足らざれども、社会物資の上に顕 したる変化は、この期間に於いて最も著明であったかも計られない」と。


いやいや内田徒志氏の、その慧眼に感服してしまいます。「何人の口によっ て伝えられるであろうか」の個所に至っては、今まさにそれを伝えようと、パ ソコンを打っている僕の姿をあたかも見通しているようで、ギクリとしてしま いました。いやあ、なんとも機縁の極みです。


ひとりで興奮してもしょうがないのですが、繰り返しになりますが、佐々木 四方志氏といえば、この日、熊本県から参加していた佐々木定さんの祖父とい う関係です。佐々木定さんは、また佐藤剛蔵氏の孫でもあるわけです。つまり 四方志氏の3男の東さん、剛蔵氏の長女のハツさんが結ばれて、そして生まれ た長男が定さんなのです。おじいちゃんお二人とも韓国近代医学の発展に尽力 されていたのです。定さんは年々、その風貌が晩年の剛蔵氏に似てきたのだ、 という。そのため、ソウルのホテルで定さんが朱先生に初めてあった時、ソフ ト帽をとって礼をとり、思わず朱先生に「校長先生!」といわせたのは、以前 にもメルマガで紹介しましたが、その驚きを佐々木さんは、今回も語っておら れました。余程、嬉しかったのでしょう。


話があれこれ飛んでしまいますが、本題に話を戻しましょう。


内田さんは、鈴江教授が1964年に京都大学を退官される直前に講義を受けて いたそうです。また卒業して福島県立医大の助教授時代には、鈴江教授は国立 栄養研究所の所長に就任されており、そこの研究所の主催で東京・経団連会館 で国際シンポジウムが開かれた際、内田さんが講演を行うのですが、その席で 鈴江先生とご一緒したことをとても懐かしんでいらっしゃいました。


内田さんのご専門は貧血で、貧血といえば鉄分、鉄分は栄養です、というの です。鈴江教授と内田さん、それに朱先生、みなさん「栄養学」つながりだっ たのですね。朱先生は、内田さんが鈴江教授の教え子だったことはご存知だっ たのか、どうか。この辺の詳しい語りが次回のワークショップなどでできるな ら、いいなあ、と思います。


それでも僕の疑問は尽きません。では、なぜ、この書物が鈴江教授のご尊父 の書斎にあったのか。ご尊父とは、どんな人物だったのでしょう―というのは 誰だってそう思うところでしょう。再び、迷惑を覚悟で内田さんに電話してみ ました。内田さんによると、ご尊父は鈴江懐(きたす)氏という。ネットで調 べると大正13年京都帝大医学部卒、京都帝大医学部教授を歴任し、京都府の旧 制高校同窓生で作る「神綾文庫」8巻に「医癌」と題した、味わい深い講演の 内容が紹介されています。そこで「医」の使命を明確に解いていました。また 感光色素の病理学への導入などの研究成果で注目されていたらしい、ことなど が分かりました。さらに俳句や書、絵画、それに小唄など多趣味な病理学の先 生と評されていたようです。しかし、佐藤剛蔵氏との接点は、探し当てられま せんでした。その唯一のつながりが、京都帝大医学部の先輩後輩でした。懐氏 は、昭和63年逝去、享年88歳と記述されていました。


このメルマガを打っている最中に、以前に佐々木四方志氏の略歴の問い合わ せが寄せられた慶応大学三田メディアセンターの担当者からメールが入り、昨 日の僕からの問い合わせの回答として、鈴江懐氏は日本病理学会の会長を歴任 し、アレルギー研究の草分け的存在で、リューマチ研究の権威と教えてくれま した。が、やはり佐藤剛蔵氏との交流や関係は、もっと別の方法で探すべきな のかもしれません。


ふ〜む。そうなれば、鈴江教授に直接取材するしか、ないではないか。と、 思ってまずネットで検索すると…残念ながらその緑衣郎さんの訃報にヒットし てしまいました。昨年6月24日、83歳でした。遅かったのですね。


『朝鮮医育史』の最後のページ の「付記」に、「この単行本は私の喜寿記 念として有隣会会員有志その他各位及城大京城医専の医化学教室に関係のある 方々の多大なる厚志により刊行せられてものであって深甚の謝意を表す次第で ある」と述べられていました。有隣会とはどういう組織なのだろう。ご存知の 方がいらっしゃれば、どうぞ、ご一報していただけないでしょうか。



写真:今回のプログラムを企画した石田さん。



写真:講演に立つ李忠浩さん(右)とソウル大学の李興基さん(まん中)


ワークショップの会場の隅に『朝鮮医育史』の本がのったテーブルを囲んで、 開会前から感嘆の声が湧きあがっていました。その中心にいたのが、1916年に 朝鮮総督府医院付属医学講習所の改組に伴って発足した京城医専の初代校長と なる軍医総監の芳賀栄次郎氏の、その3人の子孫でした。そのひとりの芳賀稔 さん、医師で現在(社)防衛衛生協会会長を務めています。芳賀栄次郎氏が務 めた校長の要職は、続いて2代目が北里柴三郎に師事し赤痢の病原菌を発見す る細菌学権威の志賀潔氏で、そして3代目が佐藤剛蔵氏となります。さしずめ、 初代の総督府医院長は、藤田嗣章氏で、洋画家の藤田嗣治の父親です。


さて、その芳賀さん、パネリストと一般参加者との意見交換の際に芳賀栄次 郎氏のエピソードを紹介してくれました。栄次郎には9男2女の子宝に恵まれて、 稔さんは6男の長男で、栄高さん、栄一さんらは従兄弟にあたります。芳賀家 には、ご尊父の代から祖父の栄次郎さんと祖母の喜和さんの名前をとって「栄 喜会」なる従兄弟親戚の集まりがあるのだそうです。毎年大勢が集まるという。


芳賀さんは、栄次郎氏が書いた本を持参し、その中の「朝鮮施政25周年につ いての感懐」と題する、付録の章をコピーして参加者に配ってくれました。栄 次郎氏は、医学施設の予算獲得に手腕を発揮したほか、ドイツのシーメンス社 からX線装置購入を申請します。が、「骨を写す機械」という理由で却下され るのですが、その費用を自分で捻出して購入、東京軍医学校に設置し戦傷治療 に役立てたという。これが我が国のX線導入第一号となるのです。そのいくつ かの決断に堂々たる貫録を感じさせるものがありました。稔さんに聞くと、そ れはきっと会津藩の白虎隊の流れを汲む、会津魂が流れているからじゃないで しょうか、と語り、今回のこの会に参加して、「祖父の偉大さをあらためて感 じることができて感激でした」と話していました。



写真:芳賀栄次郎氏の孫、左から稔さん、栄高さん、栄一さん


今度は、会場中央で盛り上がっていました。朱先生と、その歳恰好がよく似 ているダンディな男性が、朱先生のひとこと一言に歓声を上げているではあり ませんか。その男性は、中村眞生さん、86歳でした。話題になっていたのは、 朱先生のご出身が咸興ということで、そこが中村さんにとっては再婚した母親 の嫁ぎ先だったのです。幼いころ中村さんが住んでいたのです。終戦を光州で 迎えた中村さんがいの一番に向かった先が、家族のいる咸興でした。その翌年 5月、咸境から金剛山の山を越えて国境近くの川で顔を洗っているところを発 見され、コウリャン畑を這いつくばって逃げ帰ったのだという。


中村さんによると、韓国の人は、普段から水を大切に扱います。それが顔を 洗う仕草に顕著にでるのです。川の水でさえ両手ですくって頬に含ませるよう にやさしく濡らすのです。が、日本人はじゃぶじゃぶとしぶきをあげて洗うで しょう、それで日本人と見破られてしまった、という。


ふ〜む。僕の興味は尽きません。やはり中村さんのご自宅に電話を入れて細 かく聞くのです。すると、朱先生が咸南中学校卒で、中村さんが日本人学校の 咸境公立商業学校卒でした。咸南中学は野球の名門で、同級生の山本ら3人が 通っていて、その彼らを朱先生もご存知だったという奇縁で、なんだか懐かし さが込み上げての歓声だったようなのです。


中村さんの妻、真沙子さんは83歳、親類の佐々木恵美さんは86歳で、中村さ んとご一緒にお二人も会場に仲よく姿を見せていました。お揃いの、肩から洒 落た皮のポシェットを下げて、配布された資料を丹念にご覧になっていました。 小柄で華奢でしたが、凛とした美しい声を発していました。



写真:佐々木恵美さんに取材する、私。


お聞きすると、恵美さんはソウルで生まれ、真沙子さんとは日本人学校の京 城第一高等女子校の先輩後輩の関係で、恵美さんの夫、四郎さんは、真沙子さ んの母親の弟という、なんとも近い関係なのだという。真沙子さんの父親、橋 本要作さんは転勤でソウルを訪れ、中央逓信局の局長でした。恵美さんのしな やかな物腰と教養は、梨花女子専門大学卒後、長く国語の教師を務めていたこ とによるのかもしれません。



写真:100年の邂逅、左から黒川先生、佐々木恵美さん、朱先生、中村さんご夫 妻


ダンディでスリムな中村さん、ご自宅に電話して取材している時に、まるで サングラス姿は俳優のようでした、と印象を述べると、「その通り」らしく、 米国の映画に4本助演男優で出演しており、テレビのコマーシャルなどにも頻 繁にでていた、という。この人、何物?とさらに突っ込んで聞くと、生まれは 父の仕事の関係でカナダのバンクーバーでした。父親の死去で日本に戻り、母親の再婚が縁で韓国に渡ったという。戦後は、再び東京に帰り、カナダ公使館 で出生届を発行してもらって市民権を得て、そしてトロントへ、1951年のこと でした。剣道場の東加武道館を開いたのが1964年、長男14歳、長女12歳の時で、 名誉館長に笹森順造氏を招いていたという。いやあ、なんとも波乱の人生です ね。



写真:ダンディな中村さん


そして、今回、実質的運営を担った政策研究大学院大学准教授の角南篤さんは、 中学の時にカナダに留学し、その時の身元引受人が中村さんだった、というの ですから、奇妙な人脈相関図ができそうです。中学でカナダに留学を希望する 角南少年の対応について、当時の教育機関の裁定は、NO!。中村さんは、カナ ダから飛んできて直談判したのだそうだ〜。いやあ、快活で愉快で、気持ちの 優しい中村さんでした。カナダでは、Lawrenceと呼ばれているそうです。



写真:政策研究大学院大学の角南さんとJSTの小岩井さん


一冊の本が縁で、ぐるり辿ってみれば、黒川先生→朱先生→中村さん→角南 先生→黒川先生となってひと回り、さらに黒川先生→朱先生→佐藤剛蔵氏→ 佐々木定氏→佐々木四方志氏→内田徒志氏→内田立身先生→鈴江緑衣郎氏・鈴 江懐氏→朱先生→石田先生→芳賀栄次郎・芳賀稔さんら→佐藤剛蔵氏→黒川先 生→出口というところでしょうか。やっと出口が見つかりました。



写真:朱先生、黒川先生、佐々木さん、内田さんらを囲んで。


忘却の彼方に消え失せていた史実の断片が、一冊の本の発見によって、甦っ てきました。それを可能にした、黒川先生と朱先生の縁の不思議さを思わずに いられません。100年の邂逅、それと戦争を軸にした時代への回想は単に懐か しさにとどまる筈はありませんでした。さまざまな時代への葛藤や痛みに翻弄 されず、教育者として信念、そしてゆるぎない姿勢を貫いた、佐藤剛蔵氏の生 き方に学ぶべきところが大いにある、というのが黒川先生の最初のひらめきで あり、その後の活動の動機づけになっているようです。


最後に、内田さんから届いた感想をご紹介します。「全く埋もれていたわが 親族の仕事の再発掘ができ、私にとっては感激的でした。その後の進展としま しては、残された事例などのオリジナルは、ソウル大医学博物館(徒志の旧勤 務先)に寄贈し自宅に複写を残すこととし、4月はじめソウルに持参します。 貴重な会合を企画していただいたことを改めて感謝申し上げます」



写真:パネリストやスタッフも含めみんなで記念撮影


※なお、JSTサイエンスポータルのレビューのコーナーで編集長の小岩井忠道 氏が、このシンポジウムの様子詳細を伝えています。以下のURLからご覧に なれます。http://scienceportal.jp/news/review/0902/0902231.html



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※その他のお知らせです。短めにお伝えします。
■「大学発バイオベンチャーの上場承認」:東大エッジキャピタルがリード投 資先となっている「テラ株式会社」(新宿区、矢崎雄一郎社長)のジャスダッ クNEOの上場が23日承認されました。上場日は3月26日。「テラ」は、細胞治療 や免疫療法、再生医療など最先端医療を提供するバイオベンチャーで、創業が 2004年6月。


■連載は、塩沢文朗氏の「原点回帰の旅」の48回「峠」で、副題が、「時代を 映す人と自然の接点」。峠の歴史に思いをはせながら、ご自身の故郷の峠を思 い起こすのも一考です。それにしても「峠」の文字は、日本語としては巧みな 構成です。山に上下、唸ってしまいますね。個人的にこういうトーンの原稿は お気に入りです。


■もうひとつの連載が比嘉照夫教授の「甦れ!食と健康と地球環境」の第4回 は、「EMによるトリインフルエンザパンデミック対策」の実験的知見を披瀝し ております。このところの比嘉先生のご指摘は、もっと詳細にお聞きしたい内 容が盛りだくさんですね。一度、ご講演でも考えてみましょうか。


■僕がコーディネートする埼玉県のチャレンジベンチャー交流サロンは26日午 後18時半から、埼玉県のJR埼京線北与野駅すぐの埼玉県創業・ベンチャー支援 センター4階会議室で開催です。ゲスト講師は、東京大学教授で産学連携本部 の指揮をとる各務茂夫氏、テーマが「大学発ベンチャーと社会変革」です。ス マートでテンポの良い語り口と、わが国最強の大学発ベンチャー支援のその経 営技術の確かさを感じ取っていただけるものと期待しております。また今回か ら、(株)桧家住宅常務の加藤進久氏による、ワンポイントレッスン「IPO講 座」がスタートします。自らのご体験をベースにした、教科書に載らない、実 践的IPOの処方です。


■一押しイベントは、一橋大学イノベーション研究センター主催、(財)バイ オインダストリー協会など共催の産学官連携ワークショップ「バイオ・イノ ベーションの過程と今後の戦略」。3月10日13時から、東京・六本木アカデ ミーヒルズ49階で。
お申し込みはhttp://www.iir.hit-u.ac.jp/iir-w3/index.html


■DNDユーザー登録が10000人を超えました。9999人、10000人、10001のご紹介 は、来週以降に。まあ、お陰様で念願の1万人達成です(*^_^*)。


【お願い】佐藤剛蔵氏や京城医専など韓国近代医学に関する、関係者の現在の消息をはじめ、書籍や写真、手紙等の歴史的資料を集めております。ご存知の方がいらっしゃれば、DNDメディア局編集部までお知らせください。寄せられた資料やご意見は、このたび佐藤剛蔵氏の功績や存在を世に問うきっかけとなった前日本学術会議会長で政策研究大学院大学教授の黒川清先生にお伝えすることになります。
ご連絡先:韓国近代医学史に関する資料準備室
電話03−5822−9820
E-mail :info@dndi.jp
DNDメディア局編集長  出口俊一


記憶を記録に!DNDメディア塾
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