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『そうか、もう君はいないのか』

  〜城山三郎氏の妻を語る回想録を読んで〜

DNDメディア局の出口です。「ё」。ワードで「記号」と打って、その表記 を順にスクロールしていくと、この文字はすぐに見つかりました。ロシア語で 「ヨウ」と発音する、キリル文字のひとつなのですね。遺されたその人の仕事 場にはこの「ё」が付けられた秘かな原稿の断片やメモなどが多く点在してい ました。妻、容子(ようこ)のヨウを示す印だった、という。


じっとその文字を眺めれば、どこか微笑ましい妖精のウインクのように見え てくる。どうしてこんな自分にしかわからないような暗号めいた文字を潜ませ たのでしょう、きっと、それも彼一流の照れ隠しだったのか―。それにしても、 その全編にわたって、妻への優しく、深い思いがストレートに伝わってきます。 こういうのを「真水のような文章」というのでしょうか。


昨年3月、79歳で逝った作家、城山三郎さんの遺稿をまとめた『そうか、も う君はいないのか』(新潮社)は、城山さんより7年早く死去した妻、容子さ んとの愛惜を綴った回想録です。うらやましいくらいの幸せな夫婦の情景が浮 かんできます。今年1月の発売以来、大変話題になっていますのですでに読ん だ方も多いと思います。


読み終えると、しばらくその心地よい余韻に浸ひたれます。そして、「あと がき」を読んで、その「ё」の意味を知り、もう一度最初のページを開くと、 なんだか愛別離苦の切ない気分に打ちのめされてしまいそうで、ページが進み ません。


しかし、「お茶の水駅近くのビル。」という書き出しで始まる、婦人雑誌の 講演会の出た模様は、おかしいことといったら、ない。容子さんがその会場に こっそり紛れ込み、まだ心も表情も硬さが残る演題の夫、城山さんと目があう なり、両手を頭の上と下に持ってきて、子供じみた仕草で笑わすのだ、という。


もっと、にこやかにね、そう、そうよ、笑って、というような容子さんの精 いっぱいの声援だったのでしょうか。本の中では、いくつになっても愛くるし い容子さんの姿が生き生きしていました。昭和26年春、学生時代のお二人が偶 然出会う名古屋の公衆図書館前での様子を「間違って、天から妖精が落ちてき た」と表現するほど、城山さんにはとくに鮮烈だったのでしょう。オレンジ色 の明るいワンピース姿の娘という当時の身につけていた服の印象を記憶してい ました。初対面の時に着ていた妻の当時の服を覚えています?


城山さんは、最愛の伴侶の死を目前にして、そんな悲しみの極みに、残され るも者は何ができるのか、と自問し続けます。そして、私は容子の手を握って、 その時が少しでも遅れるようにと、ただ祈るばかりであった、と述懐していま した。


そして、その時…。
2000年2月24日、杉浦容子、永眠。享年68歳。


あっという間の別れ、という感じが強い―という風にペンを走らせ、その時 の微妙な心の動きに触れています。ここが大事なところなので余分な解説は不 要と自らに言い聞かせて、これから読む人のためにも控えなければなりません。


ただ、この場面でこの本のタイトルとなった「そうか、もう君はいないの か」、という言葉が万感胸に迫ってきます。妻に先立たれた夫、愛する人との 別れ、その喪失感は、想像を絶するものがあるようです。この深い悲しみは経 験者じゃないと実感できないかもしれません。


最後の特攻隊員らを描いた渾身の『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごと く』(新潮文庫)という城山さんの本があります。その主題の、はかなくも幸 せな時間を持って死んでいった特攻隊員と、その後、せつない、むなしい時間 を過ごすことになる残された方と、「これはどっちが、より不幸なのだろう か」という問題設定は、その取材中に容子さんを亡くしたという事情からの着 想だった、とその背景を明かす記述も目に留まりました。


さて、ご本人はその苦衷にどう折り合いをつけたのか、その痛手とは裏腹に、 逆にひとつのエピソードを題材に、「思ってもみなかった明るい最後。また、 してやられた。悲しいけれど、また笑いたくなる。」と紹介し、君らしいフィ ナーレだったとあっさり結んでいました。


う〜む。城山文学には、その得意の経済小説や伝記、エッセイ集、それに対 談などで、随分多くの人を勇気づけてきました。会社勤めで左遷に遭遇したら 城山三郎を読む、そうすれば元気がでる。だから、その遺稿の書き出し、そし て最後も結果的に「笑い」で結んで、読む人に少しでも希望を与えることに心 を砕いていたのではないか、と思ってしまいます。まあ、それを意識して書い たという感じがしないのは、この人の人柄、当然ながら書くことの意味をよく わきまえていらっしゃるからなのかもしれませんね。


だが、「あとがき」を読むと、それは、どうもいささか事情が違っているの で、戸惑ってしまいます。そばについてお二人を看取った、次女の井上紀子さ んが『父が遺してくれたもの―「最後の黄金の日々」』という優れた一文を寄 せています。どんな様子だったのか、実は「父は半身を削がれたまま生きてい た」とか、そして「駄々っ児のように、現実の母の死は拒絶し続けた」とかの 記述があり、どうも喪失のうちに自分を見失っていた時期もあるようです。


繰り返しになりますが、この遺稿は、容子さんが亡くなった後、出版社から の依頼で断片的に書きためた容子さんとの回想録で、いわば出会いからお別れ までの交歓のストーリーが収められています。


妻と死別し、残された夫が妻を語る、しかし、本が上梓された時はもうお二 人ともこの世にいない。この2本の独立したそれぞれのストーリーに紀子さん の率直な証言を加えたオムニバスが、「夫婦の最後」という構成で完結する、 ドキュメントを見せてもらったような感じがしてきました。


亡き妻を綴る、もうそれだけで悲しみが胸を締め付けてきます。夫婦の契り というか、確かな夫婦の関係は、その身近な子供らも幸せに導くものらしい。 それともこれは例外的なのでしょうか。妻に先立たれた夫はどうもへこたれる らしいが、その逆はまったく風景がちがってくるのは、いかなる理由によるも のなのか〜。


紀子さんは、幸せそうな父の顔に救われたという。微笑みを返したくなるよ うな、純心な子供のような安らいだ笑顔、これは間違いなく母への笑顔だった とその様子を書いていました。そして、よかったねぇ、お父さん。やっとお母 さんの所に行けて、という言葉が、不謹慎かもしれないが思わず口をついてで る、そして兄らと「ありがとう」を繰り返す日々で、さらりと春風に乗って、 初めて出会ってから少年少女の心のまま、あの世まで逝ってしまった二人だっ た、と表現していました。


一流のストーリーテラーは、自らの死をも見事なまでのドラマに仕立ててし まいました。妻をこんな風にいとおしく最後まで大切にできたらどんなに素敵 なことでしょう。それが実は、凡人にはなかなか容易じゃないことは、よく知 っているつもりですが、もっと努力が必要なことは確かです。


「妻」と題した城山さんの詩が2編、紹介されています。そのひとつの最後 の行を抜粋します。


〜五十億の中で ただ一人「おい」と呼べるおまえ
 律儀に寝息を続けてくれなくては困る〜


やすらかな寝息が聞こえてきそうですね。人生の晩年、長年連れ添った夫婦 のそれぞれが老いを迎え、あるいは病に伏し、そして最後の処方にどう臨むか、 城山さんのご夫婦が理想の姿とは自信をもって言い切れないのですが、亭主の あり様、夫の真の優しさとはなにか、そのヒントとして、城山さんのこの本の ことをひそかに語り継ぐ価値は、おおいにありそうです。


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