◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2007/05/16 http://dndi.jp/

ロシア体験紀行(その2)

〜古都・サンクトペテルブルグの街から〜

DND事務局の出口です。専用のチャーター機の針路は北西へ、思い出を残した ボルガ河畔のチュヴァシ共和国から一路モスクワの上空を通過して約3時間、次 の舞台は、サンクトペテルブルグ、ロシア・ロマノフ王朝の遺産をそっくり引き 継ぐ豪奢な古都でした。栄華を極めた格式の街の今の姿を紹介します。


5月というのに街は雪が吹きつけていました。夕刻の気温零度。到着したホテ ルは大理石を敷きつめたモダンなアングレテーレでした。そのまん前には、天に そびえる堂々のイサク聖堂で、黄金のドームが遥か目の上高く霞んで見えました。 凄いところだ〜。ホテル代は一泊300ユーロ、円換算で4万8000円でしょうか。  ユーロの高騰で余計に高く感じられますが、これが平均的な価格というから、 驚きです。


さて、チェックインしてから急いで、船上から街をウオッチングするという。 さっそく小一時間の運河クルーズへ。水の都、北のヴェネチアとも呼ばれている らしいが、こんな天気じゃよせばいいのに、猛烈な外の冷え込みで船内からは窓 が水滴で曇ってよく見えない。甲板にでれば吹きつける雪で凍えそうだ。が、そ こは北の国育ち、このキーンと耳鳴りするような寒さが妙に心地よい。ひとりハ イテンション、ダジャレを連発してはしゃいでいたかもしれません。


街を縁取るように流れるネヴァ川、それに並行して東西に川や運河、それに幾 つもの水路が掘られていました。金色に輝く旧海軍省、その前の宮殿橋をくぐる と、その東側にバロック様式のエルミタージュ美術館、それに宮殿だという。な るほど、あれが世界のエルミタージュですか〜。


淡い緑の壁に白い柱、金の装飾が施されていました。ピョートル大帝の妃、エ カテリーナ2世が冬を過ごすから冬の宮殿、それに対して白鳥運河やフォンタン カ川などに囲まれた庭園の一角を夏の宮殿と呼ぶ。冬と夏の宮殿、そう解説する ロシア人通訳の女性に、じゃあ、春と秋はどこで暮らすのか?と聞くと、大笑い されました。こっちはまじめに聞いたつもりでしたが、笑ってごまかされたかな 〜。


運河にそって風格のある壮麗な石積みの建築群が続きます。それは見事なもの でした。そして、教会や宮殿、広場や庭園、それに噴水に彫刻…ヨーロッパの大 国を目指し、西欧に憑かれた皇帝の都市国家建設に賭ける意気込みがひしひしと 感じられました。サンクトペテルブルグは、大帝の守護聖人、聖ペトロの町とい う意味という。


その豪奢な生活ぶりは、果たしてどんなものだったのでしょうか。とはいって も、確かに凄いけれど、そんな暮らしになんらシンパシーを感じるものではあり ませんし、それほどうらやましいとは思いません。なんだか、どこもかしこも金 ピカが目について、これじゃ落ち着かないなあ〜。


が、調べると、1703年の創建当時、この場所が一面の沼地で建設に多大な労苦 と艱難を強いたというのは容易に想像できます。運河を堀って、杭を打ち、石を 運んで強固な土台を築く。雪や氷、洪水など自然との闘いが余儀なくされたこと でしょう。「地球の歩き方」(ダイヤモンド社)によると、建設にかり出された のは、捕虜のスウェーデン兵や農奴らで、4万人以上(6万人という説も)が疫病 や飢えで死んで行ったという。


後に、「涙と屍の上に…」建てられたと非難する知識人もいたそうですが、実 際、多くの重い犠牲の上に成り立っていながら、そんな悲劇の裏面を微塵も感じ させないのは不思議な気がします。逆にむしろ、開放的で、海風が吹き抜けてい くような進取の気風に満ちている、という印象を持ちました。


翌日は晴れ渡っていました。でも朝7時、キリリ、風は頬を刺すように冷たい。 タオルを顔に巻いて散歩にでました。変な格好だがしょうがない、と思っていた ら、頭からマフラーを巻くお年寄りのロシア人とすれ違いましたが、なんだか貧 乏くさいのか、若者はこんな風にはしていません。


イサク広場からネヴァ川に沿った宮殿河岸通りに出ました。宮殿橋から望むエ ルミタージュ美術館の佇まいが絵になる、というので立ってみると、時間が早い ためか、逆光でした。朝の光はとても強い。己の影が巨人のようでした。


もっと歩くと、トロイツキー橋のちょっと先が夏の庭園があり、戻って、モイ カ川を渡り、ロシア美術史を一堂に集めたロシア美術館、いま東京の上野の東京 都美術館で、その国立ロシア美術館展「大地の美」が開催中ですね(7月8日ま で)、その前を抜けて芸術広場へ。そして洒落た構えの由緒あるグランドホテル ヨーロッパ(ラウンジでホットチョコレートはおススメです)を横切って繁華な ネフスキー通りにでました。


そこのデパートで実は、前の晩、父が所望したロシアの伝統的なミンクの毛皮 の帽子を土産に買いました。モスクワは物価が高いから、ここも高いけれどモス クワほどでなない、という地元の情報を聞いていたからでした。夜といっても白 夜なのでしょうか、夜の9時すぎでも戸外は、夕暮れ気分でした。


どうも周辺が騒がしいなあ、と思ったら、若い警官がパレードの警備にかり出 されていました。そうか、その日は5月1日、メーデーだ。少し前、反体制の暴 動を伝えるニュースが、サンクトペテルブルグからありましたね。そのためかも しれません。が、10b間隔で街頭に立つ、若い男女の警官らの表情は明るく、 緊迫感はありません。質問にも気さくに応じていました。


これからは、終日、観光スポットめぐりです。市内から南西30キロ、バスで40 分余り走りました。フィンランド湾に面した噴水と庭園、それに金の装飾をあし らったピョートル大帝の夏の大宮殿、ペテルゴーフです。そこは近年、人気急上 昇らしい。エルミタージュ美術館前のネヴァ川に接岸した船着場から高速艇の便 があり、ほぼ40分程度で着くという。


だが、この日は残念ながら冬枯れで名物の噴水はストップしたまま、庭園は工 事中らしくビニールシートで覆われている個所もありました。宮殿前から下に7 段の階段があり37の銅像、64の噴水、142の噴き出し口があるという。当時の技 術の粋を集めたというファンターン、高さ20bに達する噴水の競演、それは、そ れは壮観なのでしょう。その金色の彫刻が並ぶ庭園の水のない噴水は、殺風景で した。噴水とて肩身の狭い思いをしているのに違いない。


それでも勝手口のような手狭なエントランスには、昼前から入場を待つ長い列 ができていました。観光バスを仕立てた一群は、中国、韓国からの観光客でした。 現地のロシア人が、中国語で中国の団体客に説明している様子は、不思議な気が しました。


帰る途中、通訳の女性が、トヨタが建設を進めている自動車工場はこの近くら しい、という。行ってみるべきでしたね。サンクトにはトヨタに次いで日産が進 出を決めていますね。いま、車の需要、その高級車の出荷台数はうなぎのぼりで、 凄いらしい。日銀出身でロシア大使館勤務などのキャリアを生かしてロシア事情 に精通する、キャピタリストの大坪祐介さんのレポートを読むと、急成長するロ シア経済を詳細に分析しながら、自動車の分野に限っていえば、「日本車はロシ ア市場でも高い評価と人気を得ており、毎年飛躍的な売り上げの伸びを示してい る。ロシア国内の自動車需要は当分衰える気配がない」(日本経済研究センター 会報、2006年11月)という見通しでした。確かに街は、車の洪水で、1000万円ク ラスの高級車は珍しくありませんでした。


〜こうしたロシア経済の底辺を支えているのが石油、天然ガスといったエネル ギー、あるいは金属などの天然資源であることはいうまでもない。BRICsの 中でも安定的に貿易黒字を維持できるのは天然資源に恵まれたロシアだけである 〜との大坪さんの昨年の分析でも鮮度は失われていません。むしろ、その予測が 加速している気配が感じられます。


ロシア経済全般の研究や報告は、最近、目立って多くなってきているようです が、もっと必要ですね。いま懸命に資料を集めていますので、大坪さんとのイン タビューなどが実現したタイミングを見て報告することにしますね。


帰途のバスに乗ってまもなく、通訳が、あれがチャイナタウンの建設現場です、 というので慌てて窓の外に目をやると、火星人の頭のように横に伸びた茶色の奇 怪なビルがほぼ完成しており、その周辺はざっと数百bにわたってブルーの柵が 幹線道路沿いに張り巡らされていました。


中国の赤い旗が風になびいていました。広大な敷地だ〜これから何が建設され るのだろう、目算でざっと数十ヘクタール規模はあったでしょうか。ロシアでい ま、盛んにインフラ投資と国内消費が加速しているようです。ここまでの印象を 言えば、新生ロシアはまったく別人でした。その変貌のスピードに私も含めて日 本人の多くが、理解できない事態が続いているような気がします。物不足、政治 不安、冷戦、KGB…旧ソ連の暗いイメージが強すぎて、頭の切り替えがうまく いかないようです。大坪さんは、ロシアへの「既成概念のリセット」を促してい ます。


再び街の中に戻って、トロイツキー橋を渡って夏の庭園の対岸にある、西に皇 帝一族が眠るペトロパヴロフスク聖堂、正面にトロイツカヤ広場、そしてその東 側の大ネフカ川とネヴァ川の合流地点にロシア革命の口火を切った巡洋艦「オー ロラ」が係留されています。1905年の日露戦争の時に日本軍の砲撃を受けて舷側 に大穴を開けられた、というオーロラの絵が展示施設に展示されているという。


のどかな昼下がり、ずいぶんとここにも人が溢れかえっていました。周辺にみ やげ屋の出店が立ち並んで、定番のマトリョーシカなどの民芸品、キーホルダー、 ピンバッジ、それに旗や真鍮の古いラッパなども売っていました。そこで記念写 真を撮ろうとすると、船体の真後ろのビルがアングルに入ってしまう。その屋上 にブルーの文字で鮮やかに「SΛMSNG」、この韓国の電気メーカー、サムス ンの看板がひと際、目立っていました。


逆に振り返ると、粛然とした古めかしいビルが広い敷地に威容を誇っていまし た。それは、「ガスプロム」のサンクトペテルブルグの支社でした。ロシア新興 財閥(オリガルヒ)のひとつ、天然ガスの生産・供給では世界最大級のロシア 企業で、ロシア連邦政府への影響力は強大という。2004年12月、このガスプロム は国営石油会社のロスネフチを吸収合併し、58の子会社、約30万人の従業員を抱 える、という情報は、グーグルからの検索で得たものです。グーグルといえば、 スタンフォード大学の当時学生だった創業者のひとり、Sergey Brin氏はロシア 移民であることはよく知られています。


このガスプロムをめぐっては、来春に2期目の任期満了となるプーチン大統領 が、政権移譲の後、このガスプロムに"天下り"し実権を握る意向だ、という風評 がささやかれています。天下りというのは適切ではない表現かもしれませんが、 要は実権を握るという意味で、それが本当かどうかは不確かですが、まあ現政権 とは太いパイプがあるのは間違いないようです。当面、昨今のロシアのエネル ギー戦略からは目が離せないようです。


さて、いろいろ思考を巡らせながらも、ついにエルミタージュ美術館に足を運 んでいました。建都300周年を祝って復元されてそして2003年に公開されたエカ テリーナの「琥珀の間」、そこは残念ながら休館でした。お金を払って撮影許可 を取りました。この膨大なコレクションをどういう具合に鑑賞すればいいのでし ょうか。数時間の駆け足ではもったいない。


214室はダ・ヴィンチの部屋、傑作は、妙に大人びた赤ちゃんを抱いた「ベヌ アの聖母」でした。254室はレンブラントの作品が50点以上?並んで、まあなん と贅沢な配置なのでしょう。どこから観ていいのか、目移りして立ち往生してし まいました。入ってすぐ右横の壁から一つ一つ丹念に見ていくと、左後方の縦に 仕切った衝立の壁の絵が視界に入ってくる、そして今度は、仕切りの壁の絵が互 いに主張し合っている風でした。


そのひとつ、暗い闇に浮かぶ女性の顔が気になってしようがない。有名な「放 蕩息子の帰還」、息子を抱きかかえる父親の朱のマントが鮮烈でした。息子の左 足の上履きが脱げていました。う〜む、奥が深いなあ、見飽きない名画でした。 ずっとこの世界に浸っていたい、そんな気持ちにさせてくれました。


しかし、そんな至福の時間は長く続きません。向こうから、早く急いで〜って、 また手まねきして不愉快な顔をこちらに見せている〜。う〜む、美術館鑑賞の鉄 則、それは団体で行くところじゃありません、行っても集合時間を決めるだけに して、一緒に観賞する必要はなし、ですね。みんながもうお茶にする、というか ら、そこで別れて冬宮の3階へ、ルノワール、セザンヌ、モネ、ゴッホ、ゴーギ ャンと著名な作家の絵画を急いで見て回って、そしてマチスの「ダンス」と「ス イング」の大作が対になって飾られている部屋で、一息つきました。分厚く重い 図録は4000ルーブル、ほぼ2万円の買い物でした。街のショップではその半額で 販売しているところもありました。


世界の名画を4000点超えるコレクションを誇るエルミタージュ美術館でしたが、 しかし、ロシア美術の繊細さは、これまたどれを取っても素晴らしく、感動的で したね。モスクワ市内のトレチャコフ美術館に足を運んで見て、それはさらに強 い確信に変わりました。絵画は、素人がみても感動するものでなければならない というのは、トレチャコフ美術館に誘ってくれたこのミッションのリーダー格で、 尊敬する実業家の田村文彦さんでした。


美術館の窓から外を眺めると、そこは、ナポレオンに勝利記念して建立したア レクサンドルの円柱がある宮殿広場でした。そこを散策する家族連れに午後のや わらかな陽が遠慮なく降り注いでいました。


街の探索はもうすぐ終わります。サンクトペテルブルグ最後の夜は、といって も1泊2日ですが、通称・マリイーンカ、200年以上の歴史を持つマリインスキー 劇場に身をゆだねていました。内部は重厚で5階建て、観客収容1700人という。 その夜は、ガラコンサートの観劇でした。チャイコフスキーやロッシニーのオペ ラ、バレエの晴れやかな舞台が続きました。


そして、劇場の専属の交響楽団が演奏したのが、マスカーニの代表作、歌劇 「カヴァレリア・ルスティカーナ」(田舎の騎士道)の間奏曲でした。1890年5 月17日の初演以来、全イタリアで熱狂的な成功を収めたといういわくつきの曲で すね。ああ、なんという美しさ〜。


抑えを効かせた天上の響きは、その序奏の瞬間からもう激しく胸を打ちました。 甘く切ない旋律に癒されながら、なんだか意味なく溢れる涙をどうしても抑えら れません。朝、寒さで顔を覆った木綿の黄色いタオルは、その夜も役に立ちまし た。いやあ、なんとも感動が連続しています。


サンクトペテルブルグのレニングラード駅から深夜23時55分、モスクワに向け て走る、「赤い矢号」はコンパートメント式の寝台特急でした。2人用は1等車、 4人用は2等車となっていました。午前8時前、モスクワに着きました。もう朝 から喧噪の慌ただしさが伝わってきます。予定通り、知人のマンションに世話に なって、お風呂、それにご飯に味噌汁のブランチでリラックスし、午後は、すぐ 近くのマリオットグランドホテルで、日本とロシアを結ぶ、経済交流の橋渡しを 手掛ける、日本センター統括所長の朝妻幸雄さんとの会談が予定されていました。 これは、「起業するなら埼玉」を掲げる埼玉県のチャレンジ・ベンチャー交流サ ロンの研修会で知り合った株式会社ICST社長の横井博之さんの紹介でした。 横井さんは、埼玉県の中堅企業でも注目株で、ロシアビジネスに成果をあげる一 方、学生ベンチャーの支援にも積極的にかかわる若手起業家の一人でした。


で、朝妻さん、きっちりしたスーツ姿でエントランスに入るなり、すでに目線 は僕を捉えていました。ソファーの席について、和やかに話が弾みました。日本 センターがいま第2フェーズに入って、ロシアの企業と日本の中小企業のマッチ ングを進めていくことを重点にしている、という。僕らが進めていることと基本 的に一緒ということもあって、お互いに連携していくことになりました。元丸紅 のロシアの責任者だったそうです。ロシア在住40年、もう覚悟を決めていらっ しゃる使命感の強い人のようです。ご出身が新潟県で、ロシア新潟県人会の会長 を務めていらっしゃいました。早速、新潟県知事の泉田裕彦さんにその旨のメー ルを打ちました。うまく繋がってくれればいいのですが…。


昨晩まで滞在したサンクトペテルブルグの事に話が及んだ時でした。僕が、サ ンクトペテルブルグは、世界的なチェロ奏者のロストロポービチさんのお住まい があり、そこの一室をロストロポービチさんの友人の建築家、丹下健三先生が飛 騨高山風の和風の部屋を設計されてそうですね、と説明していると、「お亡くな りになりましたね」と朝妻さんが言うので、「もう2年か3年前になるでしょう か」と言うと、「確か、先月の27日で昨日は告別式だったようです」という。ロ ストロポービチさんが逝った、という事をそこで知り、少し動揺が走りました。 なんという事でしょう。


テーブルの英字新聞が、昨日の葬儀で、参列者から「ブラボー」という追悼の 言葉が湧きあがっていたことを伝えていました。ふ〜む。


もう10数年前の秋、東京の明治記念館で第5回の世界文化賞の授賞式が式典に 続き、晩餐夕べが開かれていました。ロストロポービチさんは音楽部門の受賞者 で、その大らかで人懐っこい人柄から、いつも多くの人の語らいの輪の中心的存 在でした。肩を組んでなごみ、頬を寄せて愛情を表現していました。その会場で、 演奏をして聴かせていました。サービス精神が旺盛で、ロシア特有のもてなしの 心を随所にふりまいていらっしゃいました。僕は当時、丹下先生のアテンダーで、 そのお二人の親しげな様子をすぐそばで見ていました。


音楽家でありながら、権力を恐れない歴史の証言者、そして夢を追い続ける、 現代のドンキホーテを名乗って憚らない勇者でした。日曜の夜、NHKの教育テ レビは23時から、HV(ハイヴィジョン)スペシャル「追悼ロストロポービチ75 歳最後のドンキホーテ」映像詩の2時間番組を放映していました。豪奢な宮殿や 財宝も凄いけれど、ひとりの偉大なロシアの魂の存在も見逃せません。気高く美 しい音楽家の波乱に富んだ半生は特筆すべきことです。


次回、ロシア体験紀行の締めは、その最後のドンキホーテを題材にしてみたい と思います。


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