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遥かなる追憶のロシアへ


DND事務局の出口です。遥かなるロシア、聖なるヴォルガ…僕のロシア紀行は、 実に35年ぶり、もう気持ちは飛んでおります〜。きっと雨は上がって、曇の晴れ 間から時折、日が差しているかもしれません。旧ソ連の社会主義支配に終止符を 打ち、市場システムの導入などで今日の経済の上昇機運をもたらしたエリツイン 前ロシア大統領、その急逝の報は、世界を駆け巡っていました。


新生ロシアを象徴する救世主キリスト聖堂。収容人員1万人というモスクワ最 大のその教会では、夜を徹しての弔問、そして葬儀、厳かにかつ盛大に執り行わ れるのでしょう。  


エリツインさんって、どんな大統領だったのでしょうか。評価はいろいろのよ うですが、悲願の北方領土、その一括返還の夢を一時見させてくれた、というと 誤解があるでしょうか。


朝日新聞は、民主主義への志向と予測不可能な行動、自由な言論の擁護と同時 に権威主義を併せ持った複雑な政治家だった、と評し、産経新聞は、1991年夏、 守旧派による軍事クーデターをねじ伏せ、敵の戦車にまたがって「民主ロシア誕 生」の雄叫びを上げた、あの雄姿を歴史は末永く記憶にとどめるだろう、と斉藤 勉記者の署名記事を掲載していました。


う〜む、戦車の上で演説するエリツインの、なんだかそんな緊迫の映像を見た ような気がしますね。斉藤記者といえば、2度のモスクワ特派員を経験し、「ソ 連、共産党宣言を放棄」の歴史的スクープをものにしたベテラン記者です。その 特ダネで新聞協会賞を射止めました。尊敬する先輩記者の一人です。現在もロシ アウオッチャーとしてのインサイダー的な記事には定評があります。で、その記 事で、こんなエピソードも紹介していました。


〜歴史は残酷である。「エリツインはなぜ、政治局員になれないのか」。記者 (斉藤氏)は最初のモスクワ勤務の初期の87年夏、親しいロシア人記者に尋ねた ことがある。答えはこうだった。「あの型破りな行動力と庶民の人気が他のお偉 方には目障り千万なのさ」と。


古今東西、いつの時代も出る杭は打たれるというのは共通しているのかもしれ ません。「出る杭」は打たれても「出すぎる杭」は、打たれない、というのはあ る先輩のご託宣でした。


斉藤記者は、続けてモスクワの「西側」外交官の評価を紹介して「エリツイン の最大の功績は、ロシアから長い行列をなくし、自由選挙を根付かせたことだ」 という。「だが、…」として、彼は、エリツインが「新興財閥・一族政治におぼ れ、意に染まぬ首相を次々と解任する独裁的統治が目立ち、川への転落事故とい う奇行も生んだ根っこからのアルコール癖は次第に健康をもむしばんでいった」 ともうひとつの側面を浮き彫りにしていました。


今朝の天声人語は、「貧しい農家の生まれだった。自著によれば、生後すぐの 洗礼のとき、司祭が桶で水浴させたまま引き上げるのを忘れた。母親が気づき、 人工呼吸で命を取り留めたという。厳寒の小屋で、家族は山羊に体をくっ付けて 暖をとったそうだ」という。こんな時は、こういう幼少の苦労話もいいかもしれ ません。


追悼の写真は、1995年10月ニューヨークで行われた米露首脳会談をとらえてい ました。クリントン氏がエリツイン氏に寄り添って肩に手を回す親密ぶりで、 「笑いすぎて涙をふくクリントン米大統領」というキャプションでした。


改革と権威主義の強面ながら、どこかユーモラスで憎めない存在だったようで す。日本人でごく親しかったのは、元首相の故・橋本龍太郎さんでしたね。「川 奈会談」での歓談はなごやかでした。


25日の葬儀には、その友好を温めたクリントン前大統領、ブッシュ元大統領 (現大統領の父)のほか、ドイツのケーラー大統領、カザフスタンのナザルバエ フ大統領らが出席する予定で、日本からは、斎藤泰雄駐ロ大使が出席するという。


それは、1972年5月のことでした。歴代の米国大統領で、初めて訪ソしたのが ニクソン大統領でした。現職の米大統領が戦後はじめてソ連を訪問したという意 味で、1959年のフルシチョフ・ソ連首相の訪米以来の画期的な出来事、と報じら れていました。米の対北越海上封鎖というベトナム問題をめぐる米ソ間の対立が 浮彫りになっていた状況にもかかわらず、それが実現した意義は大きく、米ソ間 の共存協力の関係がやっと動き始めたことを示すものとして評価されていました。


その当時、僕は大学2年の19歳でした。そんなこととは知らず、横浜から船で ナホトカに渡り、7泊8日1万キロ、そのシベリア鉄道経由でモスクワに入ってい ました。宿泊先は、いまでもあるそうですが、ウクライナホテルでした。ホテル のエントランスは勿論、街中が歓迎ムード一色で、ソ連と米国の国旗が華やかに 飾られていました。テレビのクルー、新聞記者らがざっと400から500人が大挙し て取材にきていました。


そうなんです、その歴史的な米ソ首脳会談の一端をそばで垣間見ていたんです。 その年は激動でした。2月はニクソンが訪中し、たちまち共同声明をだしていま した。ニクソンショックの激震がはしりました。わが国では、5月15日が念願 の沖縄返還、9月が日中国交回復という流れにありました。


まあ、作家、五木寛之さんの「さらばモスクワ愚連隊」、あるいは「青年は荒 野をめざす」という人気小説の舞台となったロシアへの放浪の旅はブームで、な にやらそこで、僕も己の一生の仕事をみつけたような気になっていました。


35年前の回想です。ホテル1階の食品売り場は、行列ができていました。体 格のいい女性店員はなんだか不機嫌で、リンゴ2個とオレンジ1個を買うつもりだ ったのが、小銭が足りなくてリンゴ1個、オレンジ1個と言い換えると、腰に手を あてて僕に指を差しながら、紙袋を放りなげて怒っているんですね。なんども注 文を変えるから頭にくるわ!って言う調子でした。その後、取り合ってくれない。 午後2時すぎると休憩タイム、その数分前に飛び込むと、「ニエット!」とドア をピシャリ閉めて、もう時間だ!と時計を指で叩いてすごんでいました。街で風 景にカメラを向けても「ニエット!」、気まずい空気が流れていました。


しかし、モスクワ大学がそびえる雀が丘に立って、蛇行して流れるモスクワ川 を隔てて見下ろす街の景色は素晴しく、正面にスタジアムでしょうか、城壁内は 赤、白の壁がひときわ光彩を放つ、ノヴォデヴィチ修道院、そこの墓地は、チ ェーホフ、ゴーゴリら歴史的人物や有名人が眠るという。エリツイン氏もそこに 埋葬されるらしい。手元にその当時の写真があります。なんか、懐かしい気分で すね。モスクワ大学の学生が近づいてきて、にわか仕立てのロシア語で話しかけ ると、「どうぞ、日本語で話してください」というから腰を抜かすほどでした。 日本語を学ぶ学生でした。日本人らしき学生がいる、と聞いて駆けつけてきたよ うでした。まあ、こんな追憶はこのくらいにして、いよいよ明日、成田からモス クワ、そしてヴォルガ川上流に位置するチュバシ共和国にチャーター機で向かい ます。27日は現地の大学でスピーチする予定です。いま、原稿を英語に訳して もらっている最中です。


なぜ、チュバシ共和国なのか、そうですよね。これは学術交流とビジネスが動 き始めているんです。その第1歩です。ロシアとビジネスを行う会社を設立し、 その役員として参加しています。知人にいろいろご相談申し上げると、気を付け てください、といわれることが多い。
 さて、どんなエキサイティングな展開が待っていることでしょう。旅の後半は、 世界屈指の美術館、宮殿のエルミタージュ美術館があるサンクト・ペテルブルグ に立ち寄ってきます。モスクワでは、ご紹介いただいた現地で活躍する日本人に 会う予定です。


ロシア紀行は、いつか折に触れてご報告します。尚、本日のサイトの窓には、 経済産業省審議官で、イタリア・ミラノ早歩きの視察に飛んだ石黒憲彦さんの 原稿は、世界一のインテリア見本市「サローネ」をルポした「感性価値創造」 の旅物語です。いやあ、お役人さんは、少し気の毒です。


*来週のメルマガはお休みします。


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