◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2006/11/29 http://dndi.jp/

飯塚で、35年目の恩返し。

DND事務局の出口です。郷愁と追憶の筑豊、その中心が福岡県飯塚市という。しかし、この街の今をどう表現すればいいのでしょうか。当然ながら写真家・土門拳の世界「筑豊のこどもたち」は影をひそめ、作家・五木寛之の「青春の門」とて、すでにその「キリクサン」と呼ぶ男の誉れ、その武勇はもう寓話に近い。だから、その飯塚を昔の「川筋気質」で語るのは、もう時代遅れかもしれない。が、‥。


人口13万人のうち、なんと研究者、学生数が5000人、その英知で大学発等のITベンチャーがどんどん創出する情報産業分野に特化した理工系の学園都市−に変貌を遂げつつあり、その総称が、「e-ZUKAトライバレー構想」で、「大学が産業を創る」―そんなベンチャー企業が育つ街、アジアのシリコンバレーを目指す、という。すでにITソフト系の大学発ベンチャーなどが60社を数え、数年後には100社の大台に乗せる、という。う〜む、トライバレーの熱風を強く感じました。


この24日、飯塚市で開催のe-ZUKAトライバレー産学官技術交流会2006〜地域産学連携の最前線〜に参加してきました。九州経済産業局課長で、熱心に九州エリアの新規事業創出、産学官連携を推進し、DNDサイトで「産学連携道場」を発信する松田一也さんのお声かけでした。もう3年のお付き合いですがいつも懸命で、周りの人を立てる献身的な姿勢は、頭が下がります。


定刻通り、九州工業大学情報工学部の2201号講堂。民間出身で初心の市長、齋藤守史さん、九工大の情報工学部長の田中和博さんらが開会の挨拶に駆けつけてくれていました。九工大は、大学発ベンチャー企業創出数では、4年連続ベスト10入りの実力校ですから、地元飯塚のトライバレー構想の牽引になっているようです。セミナーは、冒頭、IT活用の「Quality IT Park」構想などを進めるインド・ケララ州の産業インフラ開発公社のプレゼンがあり、政策から投資、基盤整備、教育、医療、文化、市民生活など全般にわたって優れたIT活用の事例とインセンティブを披瀝し、あまりの美しさに「God's own」、神様の土地―と表現するのだそうだ。


余談ですが、インドといえば、本日朝、ニューデリーから帰国したばかりの黒川清さん、その時の人、イノベーション25戦略会議の会長は、さっそく「学術の風」の原稿を書いてくれています。北京から、インドから、そして午前中は帰国した足で知的クラスターのセミナーにゲストとして参加してきたようです。


今週の11月23日号のNatureは、安倍首相とサイエンス・アドバザーの黒川さんを捉えて、「日本に新首相、新学術顧問とともに科学政策を変えるチャンスが訪れた」と絶賛し、安倍首相については「新首相の業績で、科学政策にとって明るい傾向は、韓国や中国など影響の大きい隣国との関係を改善しようとする首相の決意である。科学と技術についてもアジア地域における共同研究の道を切り開いていけるはずである」と分析し、黒川さんについては、「日本の科学政策をさらに促進させうる人脈と経験があり、79万人の科学者を代表する日本学術会議の前会長として、過去に彼は、科学の諸問題に忌憚のない意見を述べており、日本の科学の長所と短所をも把握している」と鋭い解説も加えていました。


出色な記事でした。黒川さんが内閣特別顧問に就任して1ケ月、いやあ、外国メディアの露出、それもNatureのような権威の科学専門誌が好意的に発信してくれているのは、心強い。これは、黒川効果でしょうか。


で、インドの方の講演の次は、僕の出番です。「全国の産学連携の傾向と大学の課題」をざっくり50分。飯塚の人は、良い人です。真剣にこっちを向いていてくれていました。それで、舞台は、パネルに。そこではモデレーター役で、パネラーの近畿大学九州リエゾンセンターの矢野清之助さん、九州工業大学産学連携推進センターの大矢伸宏さんら重鎮、民間から森設計事務所代表の森直樹さん、東海産業執行役員の森重明(もりしげ・あきら)さんが加わり、僕が数人のコメンテータを要望すると、近畿大学九州リエゾンセンター長で教授の阿部浩一さん、飯塚研究開発機構部長の竹下一義さん、九州工業大学大学院教授の吉田隆一さん、九州工業大学助教授で、このセミナーの実行委員長の小黒龍一さん、そして、嫌がるのを無理に僕が直々頼んだ、飯塚市商工振興課長の薄井清広さんーと1時間半のタイトなスケジュールのバトルは、パネラー4人の報告が終わって、あああっ!もう35分しかない〜。


コメンテータ、会場からの質問、それをパネラーに戻して、また会場から、そしてコメンテータって、言う具合に回して、ざっと15人にマイクを向ける早業は、我ながら感心‥。


産学官連携って、抽象的じゃ困る。大学は地域にどう貢献できるか?炭鉱の街からの甦生は?5000人の教官、研究者、学生っていっても学生の97%は市外へでてしまう、どうする?という課題を俎上に、「グローバル化への対応」、「大学の産業創出」を深めました。活発でしたね。大学発ベンチャーの「ハウインターナショナル」社長の若い正田英樹さんは、「どうしたら、飯塚にシリコンバレーができるか?」って、積極的な質問も飛び出しました。


彼は、11月号の月刊「潮」の特別企画「地方の底力!」で、飯塚のベンチャー企業の集積を牽引する若手リーダーとして紹介されていました。


最後の質問は、会場の一番後ろ隅から、海外衛生放送の専門会社を九州工業大学発ベンチャーとして立ち上げたチュニジア出身のマルズキ・キルメンさんでした。グローバルという言葉は、日本の場合、たぶん多くは海外へどうビジネスを展開するか、という視点で語られるけれど、海外からくる留学生やビジネスマン、日本に住む外国人へのアプローチが少ないし、それほど考えていないのではーという質問がありました。


まったくその通りかもしれません。マルズキさんのように九州工業大学の博士課程を卒業して起業していながら、アパートが個人で借りられないーという問題も深刻かもしれません。この辺は、しっかり対応しなくてはならないでしょう。そのマルズキさんは、第1回の九州工業大学ビジネスプランコンテストでグランプリを獲得していました。頑張れ!マルズキさん。


交流会は、晴やかでしたね。福岡からかけつけてくれたのは、友人で麻生グループ事務局長の馬場研二さん、僕が大事にしているベンチャーって紹介してくれたのが、いま注目の(株)なうデータ研究所のマネージャー、大野国弘さん、お若い。インキュベーション施設のトライバレーセンターに入居しているNami-netの総務、関谷羔子さん、東京に営業所を置きながらの奮闘です。


市の担当者は、そんな具合でわずか数時間しかご一緒していないのに、企業誘致推進室長の田中淳(呼び捨て)は、優秀な奴なのに無邪気に僕の大学の後輩だってなついてくるし、大柄で美男の松本日出登(同)は、なかなか食通で頼もしい。紅一点の久原美保さんは、気が利きます。たぶん、この人に頼めば、なにもかもスムーズに動くでしょうね。


で、そのボス、経済部長は、梶原善充さん、帰りに嘉穂劇場の朱の大入り袋を持たせてくれました。極めつけは、薄井さん、58歳。帰りの電車は博多行きで途中までご一緒、何度も礼をとって恐縮し、笑顔で別れを惜しんでいる風なのが辛くて、降りたホームで立って見送る格好なので、促してどうぞ、って言ったら姿が見えないので、電車が動いてドア付近に立って伺っていたら、柱のそばで何度も頭を下げながら手を振ってくれていました。律儀だ。こんなことされると、涙がでちゃうじゃないですかね〜。


飯塚を誇りに生きて、そんなに出世はしなかったけれど、その気概は、「キリクサン」。わずかな時間でしたが、薄井さんが、「こんなに何でも話ができる相手は、そんなにいない」って言われたのは、僕の誉れです。


さて、さて、もう少し。筑豊の追憶をしましょうか。で、お世話になった窓口は、九州経済産業局から出向の飯塚市経済部商工振興課の産学連携室長の岡英明さん、そして部下の久原さん。久原さんの運転で、街の西端に位置する八木山(やきやま)へ案内してもらいました。どこか、街が一望できるところで写真を撮りたい、というお願いをしていたからです。静まり返ったその峠の茶屋の崖際の展望台に立って街を見下ろすと、視界が開けて息をのむようなパノラマが広がっていました。


まばゆい白亜の大学キャンパスは、開設20年目の九州工業大学情報工学部校舎だ、という。周辺に飯塚リサーチパーク、飯塚研究開発センター、それに福岡ソフトウエアセンター、やはり今年で40周年を刻んだ近畿大学九州工学部などの研究棟が集積していました。国道が東西に3本がクロスして走り、南北には街の中心を流れる遠賀川(おんががわ)、そして博多から北九州市へ続くJR福北ゆたか線、なだらかな丘陵と山並みがゆったりと街を包み込んでいるようでした。


あれは〜。地表から天を突くような隆起、ぼんやり霞む三角のひと山、それがボタ山だ、という。草が覆っているのかしら、かつての黒く不気味な影はなく、うっすら緑の山に変貌していました。


岡さんの案内で街を歩いてみました。アーケードがかかった商店街は、清潔で、往来のおばちゃんらは、みんな親しげに話かけてきます。有名な千鳥まんじゅうの千鳥屋総本店で買い物をした後、東町交差点付近を北に折れて進むと、左右に広く屋根を伸ばした木造2階の芝居小屋は、嘉穂劇場でした。


なんと屋根の青、庇は漆喰の白壁、金色の飾り金具、そして紅柄のバルコニー、その彩色の見事なことといったらない。ここを舞台に過去4回、今回のセミナーを主催する地元の産学官連携の主な団体が第2水曜日に集まる「ニーズ(2水)の会」が会議を召集したことがある、という。最近では、近畿大学産業理工学部40周年記念講演会が開催されました。さて、座布団を敷いた桟敷席などで1200人収容のその小屋では、どんな会合になるのでしょう〜。今度、そんな機会があったら、そこへもぐりこんでやろっかなあ〜。


嘉穂劇場といえば、少し前、朝日新聞の夕刊「筑豊の夕焼け」Iに取り上げられていました。「旅役者の誇り嘉穂劇場」との見出しで、その由来に触れて、「嘉穂劇場の主は、伊藤英子(87)だった。1922年、父の隆が石炭王・麻生太吉(あそう・たきち)の弟らと前身の『中座』を開設した。火災や台風で倒れ、満州事変が起きた31年に借金して再建。64年から英子が経営を背負ってきた」と解説していました。


03年7月の集中豪雨による水害で水没した際は、嘉穂を救おうーと俳優や歌舞伎役者、著名なタレントが寄付に動いてくれた、ことも紹介していました。


あれれっ、嘉穂劇場の駐車場から、遠賀川方向に目をやると、あのボタ山が八木山峠からは、ひとコブだったのに、そこからは3つ、大中小と並んで見えていました。どうしても、筑豊の影を引きずるようですね。


ひとつの産業の勃興から衰退、その流転の必然を漂わせながら、じっと息をこらして甦生のチャンスを伺っていたのでしょうか。興隆と繁栄、覚悟と落胆、挑戦と復興、その時代のそれぞれの場面に共感と憧憬が重なってきます。


八木山峠の茶屋に大きな立て看板には、市内の全域のイラストマップが描かれていました。その右上、北東の外れ、そこに「目尾」の文字が偶然、目に止まりました。岡さんが、「しゃかのお」と読むという。それ以上の、言及はありませんでしたが、なぜか、この珍しい地名がずっと気になっていました。


馬場さんが、飯塚は、麻生グループの本陣、いわば発祥の地だから分からないことがあれば、気軽にどうぞ、っていうからその前日23日、勤労感謝の休日にわざわざホテルに資料を持参してくれていました。


株式会社麻生、創業明治5年、本社所在地、飯塚市芳雄町7の8、グループ社数62社、グループ社員数5300人、凄いなあ。僕はてっきり本社福岡市と認識していました。が、違う。飯塚を創り、育て、守り、そして一緒に息づいているように感じます。炭鉱の閉山後も逃げないで、しっかり地元を支えてきたんですね。で、麻生セメントは有名ですが、メディカル、病院運営は九州中心に5つ、飯塚の病院は筑豊の中核的役割を担い、そのベッド数1116床というから驚きです。環境・土木・建築のファシリティー、それにIT,介護福祉、教育、人材育成、人材サービスと手広くしかも堅実にハンドリングしているんですね。外相の麻生太郎さんのご実家って言えばいいのでしょうか。


そして、書類の中に一冊の分厚いコピーが入っていました。表紙は、墨痕鮮やかなに「波乱の人たち 麻生太吉」と大書されていました。1872年、初代・麻生太吉さんは、その目尾の御用山で石炭採掘事業に着手する、いわば、麻生グループ発祥の原点が、「目尾」と感じました。


「波乱の人たち」の麻生太吉(3)の後段には、「いわゆるタヌキ掘り、日帰り坑道(まぶ)と呼ばれる原始的方法である。賀郎、太吉親子が友人3人と力を合わせて開坑したのが目尾(シャカノオ)である。賀郎54歳、太吉16歳だった」という。そこで、その親子はやはりなかなか知恵者で、時代の変化に対する対応が機敏で賢い。当時は、素封家で大庄屋が、いくら燃える石とて、そんなタフな手掘りの仕事はやらない。それも採炭は、地下水の処理が難題で、賀郎親子はその水との戦いに15段汲みという大排水法をあみ出して同業者をあっといわせてしまう。降り掛かる災難、大火、洪水への処置、最新の蒸気ポンプの導入、大財閥への鉱山の売却、飯塚への鉄道延伸の直訴、まあ、川船業者との軋轢もあって、この飯塚への鉄道の延伸、これがなかったら、ちょっと怖い。時代の革新を率先して導入し、己の会社の繁栄だけを考える、というそんな情けない記述はどこからもでてきません。ある時、短銃を隠し持った強請が、太吉さんを襲う場面があります。そこでのセリフがふるっていました。


「わしに何か罪があり、わしを生かしとくと社会に害毒を流すとでも言うとなら、殺されてもしかたがない。じゃが、わしはいま多くの事業ば経営して、その使用人、家族を入れると7、8千人になる。麻生太吉、これでもいささかは社会のために尽くしとるつもりじゃ。それをただ、金を貸さぬぐらいのことで殺すなどとは、これほど理にかわぬことはなかろう。正業につけ。正業についてマジメに働くなら、男一匹食うに困ることはないはずじゃ。その門出に、今日は飯ども食っていけ」と張りのある声で言い放った、という。こういうのも「キリクサン」というのでしょうか。いやあ、これも圧巻です。麻生グループの存在なくして、今の飯塚は語れない、というのは事実でしょう。


飯塚は、僕の恩人で大学の同級生の故郷です。前のメルマガで、彼への恩返しのつもりで講演をつとめますーって書いたら、こんなメールが届きました。


「出口さん 24日、飯塚での講演ですね。メルマガ読みました。恩返しに、とは誠に過分の有り難い言葉です。この世で出会う人は、出会うべくして会うもの、というのは、いま流行の江原スピリチュアリズムの何かになりましたが、縁のある人を大事にする出口君の人間力に学びたいと思います。ダッカにて。新井明男」。


あれから35年、今日あるのは、新井ちゃんのお蔭と思っております。いろいろご面倒をおかけしました。学生時代、彼の自宅で随分と食事をごちそうになりました。


「食の王国」って勝手に呼ぶ、飯塚。こんな山の中なのに、新鮮な魚介類が安くて豊富なのは、九州の中心、交通のクロスポイントになっているからでしょうか、それとも炭鉱全盛の名残なのでしょうか。お気に入りは、皮を焼いたレアの鳥をタマネギ、シソ、ネギを刻んでポン酢で食す「鳥のたたき」、クジラ各種、特に刺身は極上でした。飯塚は、なにもかも格別でした。その24日夜から、飯塚市経済部のスーパーアドバイザーになりました、とさ。あくまでボランティアですけれど‥。


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