◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2005/07/06 http://dndi.jp/

杉田清さんの21世紀研究所考

DND事務局の出口です。またまた、悪い癖、どうしても人への興味、関心が 先走ってしまう傾向があるようです。写真に映るその表情をジッと眺めていると、 その人の柔和なにおい、細やかさ、そして、おっとりした優しさの半面、一徹、 そして愚直な人柄がほうふつとしてきます。


 杉田清さん。元・新日本製鐵フェローで日本工学アカディミー会員、熱、耐火、 セラミックス分野の重鎮で、日本のモノづくりを耐火物技術の面から支えてきた 工学博士、というのが率直な印象です。


 ご専門のさわりを知る手がかりとして、日本鉄鋼協会監修の叢書「鉄鋼技術の 流れ」シリーズ全10巻の第3巻を杉田さんが「製鉄・製鋼用耐火物〜高温への挑 戦の記録」というテーマで執筆されていました。その解説の一部を紹介すると、 戦後の半世紀を中心に耐火物技術の歴史を、耐火原料から操業まで、高炉から連 続鋳造まで、その変遷の背景を分析し、歴史の中から今後の展望を試みる、とい い、耐火物・溶鋼の相互反応など、境界領域の課題も重視し、古代からの耐火物 の歩みが、楽しく読める、とありました。


 う〜む。この分野になると、どなたかにお手伝いいただかないと、実感として つかめきれない。耐火物というと、鉄鋼、ガラス、セメント、セラミックスも入 るのでしょうか、こういう材料は高温工業には不可欠で重要なのは、分かります が、産業廃棄物処理の溶融炉のプラントの性能にも影響を及ぼすのでしょうか〜 いやいや、もう僕の理解の限界です。


 が、戦後復興の動きが加速する昭和29年、大阪大学工学部応用化学科を卒業し、 八幡製鐵、現在の新日本製鐵に入社して以来、一貫して技術部、開発部の最前線 で指揮を取り、高度な匠の技を創り、磨き、そして伝えてきたようです。最終の 肩書きは、フェロー、技術開発本部での常務取締役待遇でした。


 と、こんな風に紹介すれば、親しい間柄のように誤解されかねません。が、実 は、一度も面識がなく、電話も交わしていません。あったのは、たった数回の メールでのやり取りだけでした。初めてのそのメールは先週でした。しかし、知 れば知るほど、関心が驚きに、さらに興味が尊敬へと変わるのに、それほどの時 間はかかりませんでした。


 「DNDメルマガ読者の杉田と申します。毎号興味深く読ませていただいてお ります‥」との過分な挨拶の後、昨年来、ある地域研究センターに関わっていて、 その機関紙に、今後の将来の指針としての研究センターのあるべき姿について、 エッセイという形で発表し、それを是非、一読して、もしご意見などいただけれ ば、というもったいないくらい丁寧な申し出を受けていました。


 数日前、その杉田さんのエッセイが掲載された機関紙が手紙と一緒に届きまし た。上記の略歴も同封されていました。雑誌は、今年3月に岡山セラミックス技 術振興財団(島津義明理事長、山口明良研究所長・元名古屋工業大学教授)が発行 した「セラミックス岡山」でした。エッセイというので、気楽にページをめくり ましたら、そこには数々の含蓄のあるメッセージが惜しみなく、ふんだんに散り ばめられていました。耐火物技術を極めるスーパーマイスターは、文章も達人で した。


 「これからの研究所を考えるために〜岡山セラミックスセンターへの期待」と 題した論文は、7ページに及び、行数を数えると25文字がざっと444行、1万1000 字、原稿用紙で27枚分の労作です。まあ、かつての編集経験を活かして生意気に タイトルをつけるとすれば、「提言!21世紀の研究所像、科学技術創造立国への 日本の布石」と、大仰に構えていたかもしれませんが、杉田さんは、さらっとし ています。


 学者らしく、その構成はしっかりしていました。文節が短くて読みやすい。全 部で14章。その冒頭の、第1章「研究所の時代がやってくる」では、21世紀の日 本が第一に目指すべきは、得意の"モノづくり"に"チエづくり"(知識創造)を加 えた科学技術創造立国であろう、と言い切り、この国家目標に向けて、日本人が その勤勉さを失わずに創造性を発揮できれば、生きがいのある豊かな国として発 展し、国際社会にも貢献できる、と確信し、この新しい動きでの中心的役割のひ とつを担うのが"研究所"という存在であり、いよいよ日本に本格的な研究所の時 代が訪れつつある、と断じていました。


 産、学、官を問わず、知識創造の拠点という役割を持つ研究所の将来像を描く ため、歴史的考察から入り、岡山セラミックセンターと類似の旧西ドイツの首 都・ボンに設立された、1950年当時は自由世界で唯一の耐火物専門の公設研究所 を引き合いに、その代表的な業績のいくつかを、それも国際的な評価の高い実例 を紹介していました。


 世界最初の耐火物国際会議をアーヘン工大と共催したのもこの研究所だった、 というから、それはつとに有名なのかもしれません。欧米各国や東南アジアから の長期の訪問、留学する研究者が多く、若きエンジニアとしての杉田さんが1961 年の秋、そこを訪れていました。当時、耐火物技術のバイブル的な参考書で注目 を浴びていた所長のK.コノピキイ博士との出会いや研究所の印象を述懐してい ました。


 さらに掘り下げて、研究所の発祥がギリシャ以前の古代に遡ること、そしてそ の原点は、人間の本能とでもいうべき、好奇心と創造願望であり、近代的な研究 所の原型は、ルネッサンス期の絵画に登場する、中世の錬金術師の仕事場であろ う、という。やり方は、理論(哲学)と検証(実験)の併用で、現代の手法と変 わらない。研究という作業、その仕事場、いわゆる研究所が本格化するのがルネ ッサンス期から産業革命期で、ワットの蒸気機関発明とグラスゴー大学の関係に 見られるように18世紀当時すでに大学の役割は大きく、今日まで欧米の研究開発 には大学との連携が格別重視されてきた、と指摘していました。ヨーロッパでは、 科学技術者の自宅にも研究用の実験室が設けられていて、ニュートン(錬金術  研究)やトーマス(製鋼法開発)の自宅には、実験炉があり、「彼らは皆、夢を 追い求め、研究を楽しんでもいたが、その結果は人類に大きく貢献した」と、研 究所の原点に言及しています。


 近代から現代への変遷を第4章の「役に立つ研究から始まった米国の研究所」 で詳述し、その冒頭では、今日の研究所活動から見れば、米国の研究所の歴史が 特に参考になる、として、民間研究所の第1号となる、1876年のペンシルベニア 鉄道の研究所では、西部開拓の大陸横断鉄道工事のための、土質調査の「調べる 研究所」、そして、発明王エジソンが同年に設立したメロンパーク研究所は「造 る(発明する)研究所」で、いずれもニーズへの対策として自然に誕生し、以来、 実際に役に立つ研究所は米国の伝統となった、と実例を挙げていました。


 なるほど、なるほど。アメリカはスタートから実利的で、社会のニーズへの対 応とは、驚きです。みんな初耳です。目からウロコ状態です。そして、戦前のG M社研究開発部門の指導者C.F.Kettering(ケタリング)氏の言葉を 引用していました。「企業が発展するためには、変革しかない。組織として変革 を創り出す部門が必要である。それが、研究所なのである」と。


 さて、そして次に、日本の研究所の経緯に触れて、戦後の中央研究所ブームの 時代を経て、1970年代からは、各製品毎の生産・販売との連携を優先した事業直 結型の研究所が志向され、今また新しい方向性が模索されているーという。大学 との連携が、欧米のように緊密でないことも日本の産・官の研究所の特徴であっ たと指摘し、その原因として欧米からの産・官への直接技術導入が主体で、大学 は殆ど関与しなかったという歴史的経緯があった、といい、しかし、日本の連携 不足の最大の原因は、大学と産・官の双方向の人事交流があまりにも少なかった ことである、とカーネギー財団が行った大学教授の生涯異動回数の調査(1993年) を例に指摘していました。


 ただ、戦前のわが国の世界に誇れる業績と研究風土を築いた研究所があったこ とを記述し、それは、オリジナリティーの高い研究に徹した本多光太郎博士を中 心とした東北大学・金属材料研究所、それと研究成果の企業化に抜群の実績と教 訓を残した理化学研究所である、と実名を挙げていました。


 第6章の「期待されている地域クラスター」からは、いよいよ本題へ。現状と 将来への提言に向かっていきます。地方の活性化は、いまや日本再生の重要課題 ‐という認識は多くの識者と共通しています。


 地域クラスターでの中核研究所、あるいは大学の役割は大きく、前述のGM社 のケタリング氏の考えを引用して、研究所は、地域変革の種作り・仕掛け人た れ!と檄を飛ばしていました。そして、その役割を列記し、情報発信としての成 果の公表は当然として地域の技術・産業、そして文化の広報役、コンサルタント として知識のデパート、あるいは技術の中央病院の機能、さらにもっと言えば、 出会いの場の提供、技術・事業の仲人役、特に、科学・技術・産業の難解な問題 をどのように市民に伝えるか、地域市民への通訳者として、広く周辺のコミュニ ティへの理解と支持を得ることの重要性を説いていました。


 圧巻は第8章。テーマこそ研究所の生命。研究開発活動の要素を3つ、「テー マ」、「人材」、「環境」と分類し、なかでも最重要なのは、「テーマ」といい ます。価値のない仕事は、魚のいない川で釣りをするようなものと指摘していま した。良いテーマの研究は、仮に研究が中断、あるいは失敗しても何か価値ある ものを残してくれる。また、良いテーマは、人材を集め、そして育てるから、優 秀なリーダーの必須の資質は、良いテーマを見分ける眼力といい、「テーマは創 造的努力の結晶であり、研究開発活動の生命である」と結論付けていました。


 杉田さんは、研究活動を格別に人間くさいものであり、その仕事場としての研 究所は、ひとつの生臭い生態系に例えて、望ましい環境条件を人的側面からも例 示し、第1に「明確な存在理由と使命感」を挙げていました。


 研究所論議でのタブー的な問題は、研究活動の生産性と効率であるーという。 研究所は、これまで芸術制作に近い知的生産活動として経済学が踏み込めない聖 域とする風潮があったと指摘、生産物が知的財産としてわが国の市民権を得てい る昨今、もはや聖域視できない。問題は、その計測、算定法である。生産価値は、 論文、特許、試験データ、計算・設計、コンサルタント業務などで一応計量が可 能である。しかし、その質的価値評価の正確な数値化は容易ではない。さらに、 日常的情報収集や学会活動などの間接的生産価値やタイミング効果については、 一層計量化は困難だが、その算定の方法論については今後さらに研究が必要であ ろう、という。思い当たるのは‥として米国の研究所で聞かれる言葉、「Pub lish or perish!」(論文を出せ、然らずんば消えうせろ)を紹介 して、研究所の生産性は、今後の国際競争で独創性と並んで日本の最重要課題に なる可能性さえある‐と予測していました。


 最後の第14章は、杉田さんのメッセージです。「わが国が唯一誇れる資源は、 人財である。その根拠は、日本人の知的能力などの優れた資質だけではなさそう である。鍵は、むしろ勤勉さにある。その理由は、日本人は働くことを楽しめる からである」といい、研究開発の楽しみを、学ぶ、予測する、創る、見つける、 驚き驚かす、発表する、人を知る−の7つを指摘し、続けて「研究者は日々の研 究に楽しく励んで欲しい。その先に、科学技術創造立国・日本がある」と結論づ けていました。


   このエッセイと呼ぶには、あまりに格調高い論文を読みながら、ふと、杉田さ んという人物に興味が行きます。


 お会いして、是非、聞いてみたい。いま、人生を振り返って、研究者・技術者 を志す動機、きっかけは何だったのでしょうか。失礼ですが、遣り残したことや、 悔いが残ることはありますか。いま、一番の楽しみは何ですか、そして幸せな人 生だったでしょうか?こんな質問への回答が、実は、いまさっき、まさに配信直 前に届きました。少しだけ紹介します。


 「会社在職時代を振り返るとき、やるだけはやった、エネルギーを完全燃焼し た、幸運にも恵まれた、という達成感と感謝が約70パーセント、あれはまずか った、力及ばす申し訳ない、今なら別の判断をしたなど悔恨が約30パーセント、 それにいまだ迷っていることが若干。仕事で遣り残したことはあまり気になりま せんが、後輩にしてやれなかったことなどは、いつまでも残ります」。


 同封の資料に杉田さんの、社外の履歴が記入されていました。九州大学工学部 講師(非常勤)、日本鉄鋼協会熱経済技術部会長、ファインセラミックスセンター 企画運営委員長、NEDO高性能工業炉プロ推進委員などなど、書ききれなませ ん。というより、残念なのは、その職のイメージが湧いてきません。が、UNI TECR終身名誉会員、Am.Ceram.Socフェローとの国際的な活動で の評価は高い。


 偶然ですが、本日アップの経済産業省の石黒憲彦さんは「志本主義のススメ」 第9回の後段に、野中郁次郎氏の著書「イノベーションの本質」(日経BP社) から、人間尊重の経営理念を徹底した井深大氏、その薫陶をうけた工場長、それ にトヨタの生産方式などとの出会いによって、日本の知識資産であるセル生産方 式が誕生したという経緯を解説していました。


 野中氏の「その創造力によって生産革新を絶え間なく繰り返していく(中略)、 その原点には一人の天才が生涯を通じて追求した理念があった」との文章を引用 し、「人間尊重の場作りが実は、最大の生産革新であり、知と献身による生産性 向上の武器だった」とも述べていました。


 知と献身、この言葉から、現場に徹し部下を支え抜いてきた、職場での杉田さ んの生き様が浮かび上がってくるようです。


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