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遺影の中の社会部長

DND事務局の出口です。にこやかな笑みを浮かべながら、まっすぐ正面を向い て、その口から、「いいね、特ダネなら迷わずドーンといこうよ。記事を全面差 し替えよう。降版(締め切り)まで時間があるじゃない」って、軽くポンと指示が でてきそうでした。しかし、いくら待っても言葉はなく、その澄んだ瞳はずっと 同じ一点に定まったままでした。そして、だんだん表情がくぐもってきて、何か を訴えかけてくるようでした。


遺影の中でやすらぐ増井誠さん、僕にとっては、不滅の社会部長でした。が、 惜しまれつつ逝ってしまいました。享年64歳。産経新聞社のワシントン特派員 から花の社会部長への栄転、そして2階級特進で編集長に抜擢されて、社運を賭 けた日本初の大幅カラー化作戦の陣頭にあたっていました。


その晴れやかな頃に新人として末席を汚していました。内示のその夜の宴、1 00人に及ぶ部内の万座の席で、部長の増井さんは、僕の名を呼んで、警視庁捜 査2課、4課を担当し、さらに防犯部、交通部の担当も兼務、それぞれに複数部 下をつける。そして、フジサンケイグループの環境芸術プロジェクトの特命とあ わせて、3足のワラジになるが、頼むぞ、と手を差し出して激励してくれました。


ODAの聖域に初めて捜査が踏み込んだJICAの汚職事件のスクープ、都庁の教職 員採用試験問題漏洩事件など、その記事のひとつひとつに増井さんの笑顔が二重 写しになって思い起こされます。環境芸術プロジェクトは、お台場のフジテレビ 進出という成果で結実しました。続く、都庁のキャップ職も建築家・丹下健三氏 の担当も、ニューヨーク、パリ、シンガポール、チュニスなど長期の海外取材の 数々もみんな、思えば、増井さんとの出会いが発端だったかもしれません。


昼夜の別のない24時間の記者生活ながら、同じ釜の飯の仲間をひとりひとり しっかりみて、いささかの偏見もなく的確に評価していました。懸命になれば、 彼の下なら旨い飯といい仕事にありつける−と誰もが感じていました。そして、 おしゃれで、無類の美食家でした。


招待の懇談を赤坂で終えて、料亭の庭続きの弾き語りのバーへ立ち寄りました。 バーボンを3人で3杯ずつ飲んで、会計を済ました増井さんに、「あれでどのく らいですか?」と後学のためにその代金を質問すると、「いくらだと思う?」と 聞くので「3人×3杯×900円」と計算して8100円と答えると、「55だ よ」というので、「5500円?」と念を押すと、一笑に付されてしまいました。 一ケタ単位が違っていたようでした。うひゃ〜どういう計算!焼肉はよく行きま した。麻布や六本木、新宿周辺の隠れ家を知っていて、よく大勢で連れて行って くれました。マイクを持つとその美声で、陽水の曲を聴かせていました。


しかし、やがて歯車が暗転してしまいます。編集長という立場の絶頂の時期に 虚々実々の怪文書が出回る騒動が持ち上がってしまいました。編集局内に動揺が 走り、もう彼の威光が失せ始めていました。嫉妬渦巻く社内の裏事情は、知る由 もありません。しかし、ひとりの中心者の失脚を境に運命の軸がぐるり回り始め、 人生の明暗をくっきり浮かび上がらせることになってしまいました。その増井さ んの側近らが一人去り、二人去りして‥。逆に批判を向けていた人たちが、勢い を増し、やがて役員になり社の中枢幹部として上り詰めていきました。


批判の急先鋒は、政治部や経済部出身が中心でした。社会部と経済、政治の硬 派連合の主導権争いのように解説する先輩もいました。昭和から平成へと年号が 変わり、日本の経済がまもなくバブルの局面を走り出そうとしている時期でした。 花も枯れて、社会部全盛時代の終わりを告げているようでした。


しかし、新たな部署で増井さんは、次々と企画を練って孤軍奮闘を続けていま した。何か、大きな仕事の成果を持って再起をかけていたのかもしれません。部 下はいない、予算はない、新規事業のGOサインがなかなか降りない‥というジレ ンマのなかで、苦悶や減失の底を内心ずいぶん彷徨っていたようでしたが、弱音 を吐く人ではありませんでした。傍から見ていて気の毒な処遇でした。


当時、増井さんは、まだ40歳前半でしたから、自分の能力と経験を別の世界 で生かすように、次ぎの一歩を踏み出せばいいものを、「自分がやらなければ ‥」というそんな会社へのこだわりや、執念に似た強い思いが、ずっと尾を引い ていたようでした。


チャンスは訪れませんでした。はっきりとその現実を認識した時は、ちょっと したトラブルがいくつも重なり、社を辞めざるをえない状況に置かれていたよう です。その後、海外特派員時代の友人の誘いで、長野県の通信部の記者として再 スタートし、多くの語らいの輪の中に身を置いていたようです。


しかし、数年後、不慮の病に倒れ、療養とリハビリの車椅子生活を余儀なくさ れていました。奥様や家族の献身的な支えがあって、昨年は、社会部OB会に参加 して顔を見せていました。社会部時代を懐かしみながらも、名指しで恨み節を口 にするので、「増井さん、みんな、わかっていますよ。血圧が上って体に障るか ら、もう止めましょう」となだめても体の震えは止まりませんでした。そして、 追い討ちをかけるように、がんの宣告。晩年は、悔しさと怒りと、その不甲斐な さからくる苛立ちで、神経をすり減らしていたようです。


東京の新宿区の斎場には、訃報を聞いて友人、知人らが駆けつけて長い焼香の 列が続いていました。6日の通夜では、テレビでなじみの著名な方々のお顔が多 数、見受けられました。生前の交遊の広さを印象づけていました。


僕は、裏方としてお手伝いさせていただきました。が、気持ちが嵐のように揺 れていました。いつも夢中で、ちょっと、社内の時流が見えていなかったのでし ょうか、あるいは、警戒心が薄く、誰彼を信用してしまうからなのでしょうか。 しかし、増井さんの後輩から、陸続と役員が誕生し、局長も多く輩出した功績は、 大きく、みんな集まってきて、さながら社会部OB会の様相で、最後までなかなか 席を立とうとしませんでした。いくら飲んでもこういう日は酔いません。


告別式の夜、CDショップから届いた、注文のCDは、バイオリニストの都留教博 氏の曲でした。癒しの「記憶の旅」のメロディーをボリュームいっぱいにして目 を閉じると、タバコの煙が充満した、かつての社会部の大部屋の風景が浮かんで きました。休日というのに、増井さんが、カシミアのセーターを背中に引っ掛け て、ふらり、社に上がっていました。他社に特ダネを抜かれて、怒っても苦しく も増井さんは、いつも笑っているようでした。


みんな家庭を遠くにして、毎晩午前様。それじゃ、寿命を縮めます。各社と競 いながら時間に追われ、それでも苦しいとは思わない。一種の興奮状態、クライ マーズ・ハイだったのかもしれません。


あれは、足利市の里にある、旅荘「巌華園」。どこかみんなで行こうか〜増井 さんを慕って、みんな家族で行きましたね。束の間の休日でした。炉辺を囲んで、 エプロン姿の増井さんが、バーベキューの仕上がりをみながら、みんなの皿に取 り分けてくれていました。奥様の乙女さんが、静かな笑みを浮かべていました。


辛くても楽しかった日々、その夢の続きを見てみたい。夢なら夢から覚まさな いでください。合掌。


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