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「弟」石原裕次郎さんの生涯

DND事務局の出口です。享年52歳、生きていれば70歳、もうあれから18年の歳月が流 れていました。ドラマのエンディングから「わが人生に悔いはなし」の曲、昭和の大 スター、石原裕次郎さんは、その渋く甘い声とともに多くの人の心に生き続けている ようです。やわらかな光と風、澄み切った空‥小春日和のような、静かな感動が広が っているようです。


 石原裕次郎さんの生涯を描いたテレビ朝日系ドラマ「弟」、5夜連続という番組構成 や視聴率ランキング上位5番組を独占という快挙もさることながら、久々にテレビから 目が離せませんでした。


やんちゃな幼少期、舞台は小樽、照れも飾りもない兄弟のリアルな日常から始まり、 無軌道な青春時代を経て一気に銀幕のスターへと駆け上がり、憧れの女優、北原三枝 さんとの結婚、独立プロ設立以後の病魔との闘い、そして臨終へと続くクライマック ス‥原作は、兄、石原慎太郎さんの同名の著作でしたから、ドラマとはいえ、自伝に 基づくノンフィクションを見ている風でした。


下校途中、陰湿なクラスメート数人に囲まれて殴られ続ける兄を、そばで立ち尽く すだけの弟、「なんで黙ってみているんだ」と叱りつける場面がありました。真っ青 な海を遠くに臨みながら、ハワイの別荘近くの高台で「みんなのお陰だよ」とポツリ、 アロハにサングラス姿の三浦友和さん扮する石原裕次郎さんのセリフも心に沁みまし た。慎太郎さんと裕次郎さん、兄弟でしか理解できない、兄弟だから分かり合えるー そんな兄弟の機微を随所にさりげなく表現していました。ある距離間を持って、冷静 に描き切っていました。


振り返れば、あの日‥。7月17日午後。ポケットベルがなり、社会部のデスクからの 慌てた指示で、当時、成城の自宅へ取材にかけつけていました。何社のカメラクルー を含む取材陣が詰め掛けており、沿道周辺は大勢のファンが幾重にも取り囲むように、 棺を乗せた車を見守り、手を合わせてもいました。その衝撃の訃報は、世間を多くの 悲しみに包んでいるようでした。


その深夜、東京・渋谷にある店に急ぎました。「ドンキホーテ」。会員制バーとい っても、カウンターに5から6席、テーブル席が3つほどの古く小さな店でした。肉じ ゃがが評判で、ボトルが並ぶ棚に赤いラジカセが、いつも裕次郎さんの唄ばかりを繰 り返しかけていました。


裕次郎さんが来る店―としてその業界ではよく知られていました。客は大半が、俳 優さんや女優さん、歌舞伎の役者さん、演歌歌手らで占められていました。九州生ま れのヒゲのマスターに気に入られて、学生の頃から、知人の紹介でちょくちょく足を 運んでいました。


やはり、ラジカセから「夜霧よ今夜もありがとう」のテープが回っていました。俳 優の杉浦直樹さんがひとりで静かにグラスをかたむけていました。


マスターや客らの「裕さん」の思い出話を脳裏に刻んで、明け方店をでて、その足 で大手町の社に上がり、翌日の夕刊用にコラムを書いていました。


「さようなら裕さん」。「店でのことは一切、オフレコ」とのマスターとの約束を 破っての記事でした。当時のデスク、阿部雅美さん(現産経新聞編集局長)は、「これ まで書いた出口君の記事で一番いい出来だね」と言ってくれたことを思い出します。 が、記事を見て、怒ったマスターは、出入り禁止‥。


「裕次郎さんのことを、人生かけて敬愛している人を、裕さんと僕が呼んだという 風に書かれたのは心外だし、関係者の皆様に申し訳が立たない‐」という理由でした。 決定的な問題は、裕さんが病院を抜け出して、こっそり店にきて、大好きな「濁り 酒」を飲んでいた‐という秘話も暴露する結果になってしまっていました。


陳謝に行って、店の前で、何日か立ち尽くす場面に、救いの手を差し伸べてくれた のは、杉浦直樹さん、それに常連の作曲家の故・山本直純さんでした。


「もうあれほど反省しているんだから、許してあげなよ。悪い記事じゃないじゃな いの」と。


「新聞記者は裏切ります。それが職業ですから、いざ、となったら書きます。それ が記者ですから‥」。


※九州大学助教授で産学連携関連の情報を配信し続けていらっしゃる松田一也さんの 「産学連携道場」をトップページに掲載しました。豊富な情報群をどうぞ、ご参考に してください。


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