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神崎ひで貴・地唄舞への葬送

DND事務局の出口です。ふと、庭先の紫陽花に目をやると、おぼろげながらあの人の舞の姿が浮かんできます。周辺に気を遣わせないやさしさの陰で、あるいは凛とした舞台の裏で、奥の深い伝統の舞ひと筋に、ぎりぎりまで自分を追い込でいたらしい。芸の道に生きる人の宿命とはいえ、そんなに頑張らずに、もっと楽にしていれば‥。


神崎ひで貴さん(本名・船戸川侑子)。地唄舞の堀派神崎流家元。さる4月29日に乳がんのため逝去されました。享年59歳。昨年秋、何度かの再発手術をし、幾分快方に向かっていたものの、その日、いつになくぐったりした様子を実姉の綾子さんが心配して、救急車で病院に。その数時間後の突然の訃報でした。


新聞に載る死亡記事のことを、「亡者」(もうじゃ)と呼びます。日々、あの社会面の下に並ぶ亡者記事は、いの一番に目を通すように習性づけられているのですが、不覚にもその記事は、見落としていました。先日、神崎ひで貴の差出名で届いた封書を見て、「舞の会」の案内が来た〜今回は是非、行かなくてはーと思って封を切ると、「お別れの会」の通知でした。


リーガロイヤルホテル東京で24日開かれた「お別れの会」。門弟を代表して挨拶にたった姪の神崎貴江さんは、「まだ、死ぬわけにはいかないの。もっとやらなければならないことがたくさんあるの‥」との病魔に打ち向かう師の悲痛な叫びを紹介していました。「5月に入ったらお稽古を始めますよ」とも口にしていたらしい。


好きだった紫陽花を散らし、家元の花紋の濃い紫のササリンドウに白菊、花一面の装飾は、葬送の片鱗をも感じさせない静寂な舞台のようでした。地唄の舞台を擬した2本の百目蝋燭が炎をくゆらせていました。横浜能楽堂の館長で発起人代表の山崎有一郎さんの真心の演出だったのかもしれません。


「熱心で、あれはこれは‥と思いついたり、行き詰ったら、夜中でも電話がかかってきて、あれはこう手を上げて〜と振り付けのひとつひとつを確認していました。お能にどんどんのめり込んで、新作や創作にも挑戦される知的な方でした」と山崎さん。


舞踊演劇評論家の如月青子さんも「夜中まで、こう思うんですけれど変でしょうか?と電話をいただいた記憶が何度もございます。舞と舞踊のこと、舞の行方、その前途について純粋に取り組んでいらっしゃった」と、山崎さん同様、舞への真摯な姿勢の一端に触れていました。


遺影は、創作舞の「夢幻道成寺」を演じた時の写真でした。黙とうに続き、名人・富田清邦さんの三味線による献奏、地唄「ゆき」の献詠が始まると、不思議にその遺影から、ひで貴さんが抜け出してきて、舞い始めるような錯覚に何度となくとらわれました。低く陰々と、高く伸びやかに詠じる富田さんの「ゆき」の意味が少しでも理解できていれば‥。


国立劇場や神楽坂の能楽堂での舞の会には、これまで何度も足を運んでいました。地唄「鉄輪」の艶やかながら抑えの利いた舞、地唄「出口の柳」の日本人形のような舞、どれもこれも、一手一手、首、腰が流れるようで、しかも止めたようで動き出すーその間の妙、そして左右対称のシルエットが素人目にみても見事でした。


記者稼業の転勤で、栃木県・日光から足利へ。もう20年前の当時、ちょうど、神崎さんが、堀派の家元を師匠・神崎ひでさんから継承したころでした。今は亡き「レンタルのニッケン」の創業者、岸正宏さんの趣味の地唄の稽古に同行したのが、ひで貴さんとの出会いでした。稽古場は、生家の老舗料亭・相洲楼の一角、稽古場の隅で、煙草をふかしながら、ひで貴さんから教えを請う岸さんのいつになく緊張した格好に、笑いをこらえていました。いつも、そこにひで貴さんのお母様が影のように、お世話をしていたようです。差し出した赤絵の柿右衛門の皿が、灰皿代わりでした。煙草が切れると、封をとって差し出してくださっていました。動きひとつに無駄がなく、舞の基本が日常に溶け込んでいるようでした。


取材。「女が舞う−」との書き出しで地唄の世界、それも神崎流の先代、神崎ひで師匠からの流れをたどりながら、何度も何度も書き直したその時の記事が、鮮烈に脳裏に焼きついています。取り上げた題材は、「葵の上」。源氏物語から引用された「能」の、それをもとにつくられた神崎流の「奥許しの曲」、いわば、御義というか、師匠が後継の弟子に譲る曲であり、師匠が舞い、その姿を通してのみ伝えるー曲のことでした。


源氏の正室・葵の上への嫉妬から六条御息所が生霊となって現れるー鬼気迫る怨念、その女の情念を舞として表現してくーひで貴さんは、師匠・ひでさんからの舞の魂を引き継いで堀派神崎流家元を襲名。その披露の国立劇場で、西の武原(武原はん)東の神崎(神崎ひで)との呼び声の高いひでさんの尊顔を拝見しました。小柄ながら年齢を感じさせない江戸絵巻に登場するような美人でした。


6歳6ケ月と6日の習いに随って舞踊の習いを始め、慶応大学文学部を卒業してから地唄に飛び込み、ひでさんに師事。以来、地唄舞ひと筋でした。足利、東京、そして長年の夢だった地唄の発祥・京阪の京都に舞の会を開いた矢先でした。


昭和63年の文化庁芸術祭賞の受賞に際しては、「出口さん、舞は、奥深くてどこまでいってもこれでいいというところがないのよ。40歳は所詮40の舞でしかなくて、やはり70、80歳と人生の年輪を刻んで初めて、体得できることがあるの。それまで頑張らなくちゃいけないのよ」との言葉が甦ってきます。


数年前、電話で「やっと自分のやりたいもの、自分の求めているものが周りをきにせず、自由に舞えるようになってきました。これからよ」と自分に言い聞かせるように話していました。


無念。しかし、磨き抜かれた舞の真髄―きっと門弟からの後継が出てくるに違いありません。それにしても‥。


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