■ 9月

IPO担当者奮闘記(1)
〜株式公開を決意するまで〜

 株式公開を考えているものの、その準備のために、いつ、誰が、何をするのか、という実務についてのイメージがわかない――そんな企業は案外多いのではないだろうか。そこで、2003年3月にジャスダック上場を果たした株式会社サン・ジャパン(証券コード2315)で公開実務を取り仕切った同社経営企画室長・近衛伸賢氏の体験を取材し、実務担当者としてどのようにIPO(株式公開)とかかわってきたのかを3回シリーズでまとめた。第1回は「株式公開を決意するまで」。

(1)キックオフミーティング

 サン・ジャパンの株式公開からおよそ4年前にあたる1999年春。同社会議室に、役員全員と各部門の主要メンバー約20人が集合していた。この中には管理部シニアマネジャー(当時)の近衛氏の姿もあった。 テーブルの正面には李堅社長。
 「サン・ジャパンは2003年の株式公開を目指して体制を整備していきたいと思います。中国開発会社の強化、国内での取引先拡大と大型案件受注、この2点が当社の差別化、成長力の強化の源泉です。このためには資金調達と知名度・信頼度の向上が必要ですが、株式公開はその有力な手段と考えられます。ただ、株式公開のためには、社内の決まりが増え、皆さんの業務負担が増大することにもなります。私は、当社の更なる飛躍を目指すため株式公開は必須と考えていますが、最終的な意思決定を行う前に、皆さんの意思を確認したいと思います・・・」
 李社長のスピーチで始まったのは、同社のIPOに向けてのキックオフミーティング(*1)。このミーティングで主要メンバー間の意思確認が行なわれ、サン・ジャパンのIPOは名実ともにスタートを切った。近衛氏はIPOの実務全般の取りまとめと推進を担当することとなり、初めての経験に緊張と不安を感じながらも「IPOの基礎となる会社の土台作りと改革を着実に進めていこう」という決意を新たにしていた。

(2)資金調達と信用度アップ

 サン・ジャパン(本社:東京都・中央、社長:李堅氏)は、1989年創業のソフトウェア開発企業。中国からの国費留学生が、自分達の学んだコンピュータサイエンスの知識を活かして日本国内で起業、というユニークな生い立ちを持つ。経営陣は中国出身のコンピュータソフト関連技術者、学生から直接創業したため会社勤め経験ゼロのメンバーが大多数、という異色の会社であった。
 創業翌年から中国に関連会社を設立し、その後約10年間に、ピーク時で7社の子会社・関係会社を中国に有するなど、中国を中心とした積極的な海外事業展開を行なってきた。背景には、日本のユーザーの詳細な要求に耐えうる高レベルの中国ソフト開発企業を育成し、上流工程から下流工程までを日中間で水平分業する「分散開発体制」と呼ばれる独自の手法を確立、それを日本、中国はもちろん、環太平洋地域にまで拡げていこうとする狙いがあった。
 後に同社の強力な武器となる分散開発体制が構築されていく中、これに比例して増加する中国への投資資金をどのように調達するかは、創業以来大きな課題となっていた。90年代後半には、単体売上高15億円弱の規模でありながら、総資産額は11億円、有利子負債は7億円を超え、「安定的な自己資本の充実、外部からの資金調達力の強化は必須の状況となっていました」(近衛室長)
 課題は国内にもあった。創業当初より難しい技術を要する開発案件を次々と受注し、「技術のサン・ジャパン」として知る人ぞ知るソフト開発企業として評判は高まる一方。また、「中国からきた若者達を応援しよう」という好意的なユーザーにも支えられて成長をとげてきた。ただ、規模拡大につれ、純粋な日本企業の同業者と競争しなければならない局面も増え、技術力以外の要素も含めた「総合力」を求められることが多くなってきた。企業として、新たなフェーズへと進みつつあったといえるだろう。90年代半ば以降、さらに事業を伸ばすためには、知名度と信用度の向上が国内での重要テーマとなりつつあった。

(3)IPOは遠い世界の出来事ではない

 90年代末、同社の意識を大きく変える出来事が起こる。あるコンサルティング会社の一言だ。
 「サン・ジャパンさんはIPOの可能性が十分あります」
当時、売上高は10億円を越えていたものの、現在のような上場ハードルの低い株式市場(*2)ができる以前のことでもあり、同社内では「IPOは遠い世界のこと」という認識であった。もちろん、経営上の課題としても取り上げられていなかった。

 コンサルタントの言葉で、それまで遠い世界にあったIPOは急に身近なものとなった。近衛室長もその時初めて
 「当社でも、そういう選択肢が有り得るんだ、と思いました」
という。李社長はじめ経営陣は、さっそくコンサルティング会社、証券会社、監査法人などから情報を収集し、IPOについての研究を開始する。

 調べが進むにつれ、IPOはサン・ジャパンが当時抱えていた2つの課題、資金調達と知名度・信用度アップを同時に解決する有力な手法であることが分かってきた。

しかも、3年程度の準備期間を設ければ、決して不可能なものではないという手ごたえもあった。役員会の流れは急速にIPOへ傾き、社内の意思決定と意識統一を図るための「キックオフミーティング」へと続いていく。
(4) IPO決定までを振り返る

 サン・ジャパンのIPOに関する意思決定を振り返ると、2つの特徴が浮かび上がる。

 第1に、IPOの目的(*3)が明快で、IPOの持つメリットを最大限に引き出すことができた点だ。IPOの実現により資金と社会的信用が得られるものの、一方で不特定多数の投資家に対し、その期待以上のリターンをあげなければならない。同社の場合、IPOで調達した資金は差別化(中国開発)と成長(知名度、信用度アップによる取引先・受注拡大)に投じられ、高リターンが期待できるものであった。投資家の期待に応えることのできる明快な目的をもった姿は、まさに基本に忠実なIPOということができる。

 第2に、IPOに関する最終的な意思決定は社内で行い、当事者意識を高めた点だ。当初は社外からのアドバイスがあったとはいえ、IPOすべきかどうかの最終的な判断はトップダウンではなく社員の同意を取り付ける形で行われた。これは、IPOの準備は会社の文化を「変革していく」側面もあり、「IPOの準備作業を、単にIPOを成功させるためだけのものではなく、その後のさらなる成長をも展望して、企業文化そのものを変える起爆剤としたいと考えたため」(近衛氏)だという。

 このためには、社員一人一人にIPOとはどういうものか、その後の企業成長にどのようなインパクトを与えるのかを具体的にイメージしてもらうことが重要と考え、敢えて主要メンバーとのミーティングの場を設け、最終的な意思決定を行ったのである。

 同社のIPO成功の背景には、社長を始め役員、社員達がIPOについて真剣に考え、それを自分の手で実現させる、という強い意気込みがあったことがうかがわれる。

大学ベンチャー株価指数の推移

まずは順調な滑り出しをみせたサン・ジャパンのIPOへの決断。次回は、実務部隊が汗をかいてIPOの実現に取り組んだ「公開直前3年間」。

 用語説明
 (*1)キックオフミーティング:IPOに向けての意思統一をはかり、取り組みの開始を宣言する一種の儀式的なミーティング。社内関係者のほか、主幹事証券会社、コンサルタント等が参加する場合もある。
 (*2)上場ハードルの低い市場:99年に東証マザーズ、2000年にナス
ダック・ジャパン(現大証ヘラクレス)など新興企業向け市場が相
次いで開設された。
 (*3)IPOの目的:一般的には、大規模な資金調達、創業者利潤の獲得、社会的信用の向上、人材の獲得、情報ルートの多様化、これらの総合的な効果として成長性の加速、などがあげられる
 
IPO関連用語の解説
 http://dndi.jp/cooperation/trif.co.jp/approach/yougo.html
 IPOへのプロセス例
 http://dndi.jp/cooperation/trif.co.jp/approach/index.html