第6回 砂漠に知財創出拠点が次々と出現するMENAの知財戦略(後編)


 ジッダは人口340万人でサウジアラビアの首都リアドに続く同国第二の都市です。多くの国際機関や金融機関が本拠を置くサウジ経済の中心地ですが、イスラム教聖地のメッカの中継拠点として知られている都市でもあります。私が訪問した9月でも白い巡礼用の服装をした乗客がちらほら目につきましたが、毎年メッカに巡礼するイスラム教徒は200万人にのぼり、巡礼月には空港も巡礼者で一杯になるということです。空港には一般のエアターミナルとは別に、テントのような独特の構造の待合所のような巡礼者用の施設が多数設けられていました。


 空港からジッダ市街へ近づくと、金融機関などの超高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並みが現れます。紅海からの水を260メートル上空まで噴き上げる迫力満点の世界一高い噴水(キング・ファハド噴水)や、交差点などに設置されている豊富な野外アートなど、特徴に富むユニークな近代都市です。


 しかしジッダの市街地を車で1時間あまり北方に進むと、周囲はもう砂漠しか見えません。そこからさらに1時間、北方に約80kmまでいくと、そこには突然延々と続く塀が現れます。塀をたどっていくとその一角に下の写真のようなエントランスゲートが設けられています。ここは2009年秋に現アブドゥッラー国王が、強力なイニシアティブを発揮して総工費約100億ドルを投じわずか2年半で、砂漠しかなかったところに開設したKing Abdullah University of Science and Technology(アッブドーラ国王科学技術大学,KAUST)の敷地の入り口です。2万人に達する大学の学生とスタッフ、その家族が、塀に囲まれた総面積約36平方kmの広大なキャンパス内で暮らしているのです。



 図1King Abdullah University of Science and Technology(アッブドーラ国王科学技術大学,KAUST)のエントランス(2010年9月著者撮影)


 化学と生命科学、コンピューターサイエンス、応用物理等の最先端の施設を備えたアッブドーラ国王科学技術大学(KAUST)は、優秀な教員、研究者と学生を世界中から勧誘しています。優秀な研究者を高給でハンティングすることに加え、大学学部課程3〜4年次の学生を選抜し、KAUSTでの大学院修士課程2年間分の奨学金に加えて、大学院に入学する前の自国の大学学部課程3〜4年次分の授業料と生活費なども含む奨学生制度を設けるといった手厚さです。博士課程の学生では年間25000US$程度にはなると聞きました。


 そして広大なキャンパスの中には講堂や教室、住宅、モスクや博物館に加えて、どこのリゾートかと見まがうばかりのしゃれたショッピングセンターやレストラン、スポーツジム、ゴルフクラブ、ヨットクラブや映画館も備わっていました。大学には専任のレクリエーションマネジャーがいて、すべてのレクリエーション施設を企画、管理していていました。レクリエーション施設を案内してくれた彼から「サウジアラビアの映画館はサウジの首都リヤドとこの大学の2つしかない」とか「ゴルフコースやプールなど大量の水が必要なので、水は対岸の塩水淡水化プラントから送られてくる」「大学の建設中は毎月国王がヘリコプターで視察に来ていた」などいろいろ教えてくれます。このレクリエーション施設は、教職員はもちろん学生でも使えるということでした。日本の大学と比べるとなんとも豪華な環境です。



 図2大学院内の科学博物館(2010年9月著者撮影)


 しかしこの大学が注目されたのは、最先端の研究設備や豪華な設備だけではなく、サウジアラビアの学校としてはじめて男女共学を認め、しかも授業で使用する言語を英語としたそのシステムだといえます。前回述べたようにサウジアラビアのイスラムの戒律は周辺諸国と比べても特に厳しく、アルコールは禁止、家族でない男女が同席することは許されず、女性が外出する場合アバヤ(黒いマント)を着なければならないなどの徹底ぶりです。サウジアラビアに赴任した企業人や外交官は生活の隅々まで及ぶ戒律と乏しい娯楽を嫌って、週末は戒律の緩やかな周辺諸国に息抜きに行く人も少なくないのです。ドバイでたまたま一緒になった欧州の政府機関のスタッフはリヤド駐在でしたが、週末などにドバイにビールを飲みに来ていると言っていました。


 ところがそんなサウジアラビアにおいて、男女共学の大学院を開設するというのは、本当に驚くべき出来事だったと思われます。実際この大学の設置については、アラビア語で検索すると今でも宗教的観点からの批判をウエブ上で容易に見つけることができます。おそらくそのような批判があることも、外部からの立ち入りを厳しく制限している理由かもしれません。大学に到着するとまず入り口でパスポートや申請書類を提出した厳密な手続きが必要ですが、さらにキャンパス内でも手続きがあるなど、厳重なエントランスコントロールがなされています。


 サウジアラビア国王は、何故ここまでして科学技術大学を設立したのでしょうか。報道によると、それほどのはっきりした狙いや見通しがあるわけではなく、外交的な道具にすぎないという意見も見受けられますが、私が大学関係者と話をした印象では、彼らはトップから産業人材育成と産業化に相当のスピードでの貢献を強く求められていることは間違いないと思いました。優秀な人材を確保することで、石油依存のサウジ経済を多様化し、プラスチックや石油化学製品、アルミニウム、鉄鋼などの製造産業の育成を行うことで雇用を創出したい、そのための人材育成と科学技術振興であるというのが主な狙いだと考えてよいでしょう。実はサウジアラビアではサウジ人、特に若年層の失業率が高く問題となっています。単純な労働を好まない気風もあり、良質の職場を創りださなければならないのがこの国の現状です。対策として、特定の職業をサウジ人に限定したり、外国人労働力のサウジ人労働力への段階的な置換をすることによって、サウジ人の雇用拡大を図るサウダイゼーションという政策も行われていますが、製造業が発達していないためそもそも雇用吸収力が不足しているのが問題です。そのためサウジアラビアでは、2020年までに100万人の新規雇用を創出するとしています。


 KAUST(アッブドーラ国王科学技術大学)設立の試みも、このような産業創生に寄与する施策として期待されている面が強いのだと思われます。大学院がサウジ人の教育が目的であるとすると、現在学生に占めるサウジ人の割合は約15%程度というのは矛盾することになります。むしろ世界から人材を集めてここで産業創生に寄与させたいということが主眼 だと思われるのです。実際この大学院の産業育成プログラムは充実しており、Technology Transfer and Innovation(TTI)プログラム、KAUST Industry Collaboration Program(KICP)や、Innovation Clusterと呼ばれるインキュベーション施設、スタートアップベンチャーのためのSeed Fundまで用意されています。そしてこれらの成果を待つResearch Parkが隣接して設置されているという充実ぶりです。このResearchParkまでが大学院の主要3部門の一つである経済技術開発部門の一部を構成しています(図3)。さらにこのような産業化プログラムと連携する構想として、この大学の北方に2015年には200万人を擁するKing Abdullah Economic City都市の建設計画まで控えているのです。なんとも目が回るような話です。おそらく目標に対して案件が足りないのでしょう。現地の技術移転マネジャーからは日本の案件でよいものがあれば是非シードファンドやインキュベーションの候補にしたいというような提案も受けました。早期の産業化に貢献を求められている大きなプレッシャーを感じている様子が分かります。



 図3KAUSTの組織図(黄色部分は産業化プログラム関係)


 私が訪問した9月の時点ではまだ草案でしたが、その後2010年12月に承認された大学の知的財産ポリシーも見せてもらうことができました。概ね米国大学のポリシーと類似していますが、研究成果をもとにした起業を強く推進する姿勢や、企業の秘密情報の慎重な取り扱いに言及していること、そして初年度の収入の最大50万Sar(サウジ通貨リアル)と毎年の収入の60%を発明者に還元するとしている点は特徴的です。この50万Sarは日本円で1000万円にもあたります(収益のうちこれを上限とするイニシャルペイメントを支払うということと思われます)。またその後の収入の60%を支払うという比率も、日本では通常30〜40%、高い比率で知られる韓国の50%に比べても最も大きく、発明へのインセンティブも世界最高水準だといえます。特許出願も最初から国内は重視しておらず、米国をはじめとする外国出願重視が方針だということでした。近い将来世界最高クラスの研究環境と発明へのインセンティブで、サウジから優れた知財の創出が期待できるでしょうか。


 このような「科学技術教育研究機関」+「産業化支援システム」+「サイエンスパーク」のような仕組みは、サウジアラビアだけのことではありません。将来の国づくりの柱の一つに教育を掲げ、カーネギーメロン大学などの一流大学の分校を誘致したカタールでは、Qatar Science and Technology Parkにハイテク起業を支援するための様々なインキュベーションシステムを整備しています。また220億ドルをかけて建設される再生可能エネルギーによる未来都市「マスダール・シティ」(MasdarCity)でも、マサチューセッツ工科大学(MIT)と連携したマスダール工科大学(MIST)を設置し、技術移転プログラムを立ち上げています。そしてこれらの大学や研究機関にはエネルギー産業だけでなく、IBM,GE,Microsoft,等多くの欧米企業が連携を進めているのです。


 イノベーションにはそれをはぐくむエコシステムが必要だと言われます。シリコンバレーやボストンのように多くのベンチャーが生まれ、成長する地域を育てるためには、その地域の大学だけ、あるいはベンチャーキャピタルだけを強化しても可能になることではなく、人材や起業家精神の風土など様々な要因が揃う必要があります。日本には優れた研究シーズが数多くあっても、それを事業に育てる人材も含めたエコシステムが欠けていると良く言われます。ましてそのようなエコシステムが、今現在はほとんど存在していないサウジアラビアなどの国でのイノベーション戦略の試みが、本当に成功するのでしょうか。現地で起きていることを理解すれば、これらの試みがエコシステムの中の一つの施策を強化しているというようなものではなく、イノベーションエコシステムを丸ごと創ってしまおう、どこからか持ってきてしまおうというような規模と計画を有していることが分かります。このように世界に類例がない壮大な試みが果たして成功するかどうかは、前例がないだけに予測も難しいですが、そこに様々な事業機会が生まれていることは間違いないと言えます。


 日本企業も住友化学かKAUSTのKICPプログラムに参加するなどの事例はありますが、科学技術教育研究の分野での連携相手として、日本の企業と大学はここではそれほど目立った存在ではありません。サウジアラビアをはじめとするアラブ諸国での日本にそういう背景もあってアラブ側からは様々な連携の提案は来ているようですが、欧米企業や欧米大学に比べて具体的な連携事例はそれほど多くはありません。そういう意味では日本はアラブ側からのアプローチに十分こたえられていないと言ったところではないかと思われます。2009年にラマダン期間中のゴールデンタイムに日本をテーマとして毎晩放送されて評判になった番組を、今でもインターネット上でみることができますが、アラブ地域の日本社会や文化に対する深い敬意も感じられる内容でした。これをみても、この地域が日本にとっての連携相手として、今後も極めて重要であることが実感できます。


 最近のチェニジアやエジプトの反体制運動に見るように、この地域では政治的なリスクも小さくはないと思われますが、良好な対日関係という資産を活用するべく、アラブ諸国そしてMENA諸国との知的財産面での戦略的連携を模索することも、今後の日本の重要なテーマだと思われます。規模の大きい話が多いので、企業や大学単独では手に負えないことも少なくないだけに、MENA諸国と相対す日本側もより大きな成果を生むためには、産学官が連携した体制を組む必要があると思われるのです。



参考

1)KingAbdullahUniversityofScienceandTechnology(KAUST)のウエブサイト
http://www.kaust.edu.sa/about/about.html

2)2)サウジアラビアでの日本紹介番組
http://kazstomach.crafthand.com/?eid=234


記事一覧へ